MEMORANDUM

  

〔河北新報〕 第92回全国高校野球選手権宮城大会最終日は26日、仙台市のクリネックススタジアム宮城で決勝が行われ、仙台育英が気仙沼向洋に28―1で大勝し、2年ぶり22度目の甲子園出場を決めた。
www.kahoku.co.jp/news/2010/07/20100726t14030.htm

◆ こんな小さなニュース記事をたまたま目にしていなかったら、気仙沼向洋(旧・気仙沼水産)という高校の名を知ることはなかっただろう。この名にふと目が止まってしまったのは、数年前、気仙沼に一泊することになったとき、市内には「観洋」というホテルと「望洋」というホテルがあって、どちらにしようかと迷ったことがあるからで、観洋に望洋に向洋と並べてみると、太平洋に臨む気仙沼の町のイメージがすこしは浮かび上がりもするだろうか。

◆ 観洋に望洋に向洋と並べてみて、いまさら気がついたというのもウカツなことだと思いつつ、洋、洋、洋、「洋」という漢字には「羊」がいるのだなあ、とはじめて気がついた。気仙沼の海に眠れない夜の羊がぷかぷか浮んでいる。羊、羊、羊。キミたちは泳げるのか? もしかして太平洋を横断できたりもするのか? なぜ「洋」という漢字に「羊」がいるのかは知らない。ちょっと調べてみたが、はっきりしない。熊楠もこう書いている。

◇ 曠野に無数の羊が草を食いながら起伏進退するを遠望すると、糞蛆の群行するにも似れば、それよりも一層よく海上の白波に似居る。近頃何とかいう外人が海を洋というたり、水盛んなる貌を洋々といったりする洋の字は、件(くだん)の理由で羊と水の二字より合成さると釈(と)いたはもっともらしく聞える。しかし王荊公が波はすなわち水の皮と牽強(こじつけ)た時、東坡がしからば滑とは水の骨でござるかと遣(や)り込めた例もあれば、字説毎(つね)に輒(たやす)く信ずべきにあらずだ。
南方熊楠『十二支考 羊に関する民俗と伝説』(青空文庫

◆ 「水の皮」(=波)というのもあったか。これもたやすく信じてしまいそうになるな。

◇ 「駅前旅館」と聞くと、井伏鱒二の小説『駅前旅館』を思い出すのは、だいぶ年配の人だ。多くの若い人にとっては、「駅前旅館」と聞いてもイメージがわかないのではないだろうか。〔中略〕 この小説『駅前旅館』は森繁久彌主演の喜劇映画としてもヒットした。
大穂耕一郎『駅前旅館に泊まるローカル線の旅』(ちくま文庫,p.9)

◆ 「駅前旅館」と聞くと、ワタシなどはどちらかと言えば、映画のほうが先にアタマに浮かぶけれども、小説のほうが先に浮かぶひとももちろんいるだろうし、同時にセットで思い出すひとも多いだろう。たまたま読んでいた本にも「駅前旅館」が出てきて、これは映画のほう。

◇ 「じいさん、これからどうする。俺は、ブラザーといっしょにダウンタウンに行って、日本の映画でも見ようかなと思っている。羅府新報に広告が出ていた。森繁久彌ゆうムービースターの『駅前旅館』と、加山雄三ゆうのの若大将なんとかと、石原裕次郎の映画をやっているらしい。正月の三本立てだ。裕次郎ゆうんは、ジャパンのトップスターよ。じいさんも、たまにはジャパンの映画でも見ればいいのによ」
石川好『ストロベリー・ロード(下)』(文春文庫,p.33)

◆ これは60年代のカリフォルニアの話。それにしても、なんと豪華な三本立てだろう。ちなみに、「ストロベリー・ロード」も映画化されているらしいが、「ストロベリー・ロード」と聞いても、映画のほうはまったくアタマに浮かばなかった。映画化されていることを知ったのは、ついさっきなのだから、これはしかたがない。ちなみに、「羅府新報」というのは、《Wikipedia》によると、

◇ 1903年にカリフォルニア州ロサンゼルスで創刊された。第二次世界大戦下で日米間で開戦したことを受け、日系人の強制収容が行われたことから1942年以降数年間強制的に休刊させられたものの、その後復刊し、2003年には創刊100周年を迎えた。現在は毎日45,000部発行されており、アメリカ国内で最も多く購読されている邦字新聞である。また、ウェブサイトでも記事を閲覧することが可能である。本社はロサンゼルス中心部のリトル・トーキョーにある。「羅府新報」の名前は、中国語でロサンゼルスのことを言う「Rashogiri」の最初の文字「羅」、日本語で 地域行政(県など)を表す「府」、新聞を表す「新報」を合わせて命名された。
ja.wikipedia.org/wiki/羅府新報

◆ しかし、カリフォルニアで「駅前旅館」の映画を観るというのも、考えてみると、とんでもない贅沢ではないだろうか。アタマがちょっとくらくらする。暑さのせいかもしれないが。

◇ 生まれつき地図が好きである。

◆ と書いたのは井上ひさしで、「生まれつき」というコトバを「地図好き」にダイレクトにつなぐとはなんとも大胆に思えるが、まあそういう人もいる(いた)のだろう。つづけて、

◇ 地図は現地そのものではない。現地をたくさんの記号に写しかえたもの、いわば記号の集積である。つまり筆者は、現地や現物よりも、その代用品である記号を集めたものの方が好きだという変人なのである。自分は変人である、と決めつけなければいろんなことが判ってくる。実人生そのものより物語という代替物の方が好きだというのもそのせいだろうし、イタリア料理店のテーブルの前にすわることよりイタリア料理の本を丁寧に眺める方が好きだというのも、筆者の地図好き=記号好きとどこかでつながっているにちがいない。
井上ひさし『四千万歩の男(1)』(講談社文庫,p.3)

◆ ワタシもの多少(多分に?)そのケがあるかもしれない。たとえば、旅そのものと旅の本を読むのとどちらが好きかと考えてもなかなか答えはでない。たとえば、『駅前旅館に泊まるローカル線の旅』という本を読むのはそれだけで楽しいし、その本のなかに、じっさいに見たことがある駅前旅館が出てくれば、それはそれでまた楽しい。たとえば、会津田島の和泉屋旅館。

◇ ぼくが度々お世話になっている和泉屋旅館は、田島の街の会津西街道に面した古い旅館である。〔中略〕 狭い間口、大きなガラス戸の玄関、土間と板張りとの異様なほどの高低差、そして長い廊下……。
大穂耕一郎『駅前旅館に泊まるローカル線の旅』(ちくま文庫,p.238-239)

◆ ワタシは一度もお世話になったことはない(そもそも駅前旅館に宿泊したこと自体がない)が、二度田島の町を訪れて、二度和泉屋旅館の写真を撮っていた。だから、「大きなガラス戸の玄関」だけは知っている。一度目は2003年5月10日、二度目は2007年3月6日。この間、2006年3月20日の町村合併で、住所が南会津郡田島町から南会津郡南会津町田島に変更になったことを除けば、(外観は)なにも変わっていないように見える。それだけでもすばらしい。もう一度訪れる機会があれば、そのときにはぜひ泊まってみたい。ただ、

◇ 七月の田島の祇園祭りのときには、祭り見物の客でどの旅館もいっぱいになる。
Ibid., p.243

◆ そうだから、その時期はダメか。いや、前もって予約してでも、その時期に行くべきか。そう、会津田島にも祇園祭があるのだった。そう、まさにいまお祭りの最中なのだった。いまから行くか。

〔南会津町公式サイト:会津田島祇園祭〕 今から約800年以上の昔、鎌倉時代の文治年間に、この地方を治めることになった長沼五郎宗政(ごろうむねまさ)が、旧地で信仰の厚かった 牛頭天王(ごずてんのう)・須佐之男命(すさのおのみこと)を奉斎し、天王社として祭ったことが始まりで、その後、今から400年前の慶長8年に、領主長沼盛実が京都八坂神社に準じた祭礼格礼を取り入れ、「祭の決まり」を定めて、現在の祇園祭に至ったとされています。
 祇園信仰は疫病から守ってもらう祈りや、自分たちの元にこないように祓ってもらう信仰です。
 伊達政宗が会津を支配した時代に、一時、祭は出来なくなりましたが、祭礼を定めた慶長8年に住民が当時の城代小倉作左衛門にお願いして、祭が再興されました。当時は、天王祭と呼んで6月15日に行われていたようです。
 明治4年、天王社は田出宇賀神社に合祀となり、田出宇賀神社例祭が祇園祭と合併の祭日となりました。
 更には熊野神社の例祭日が明治12年に同一日になるなど、様々な改変を重ねてきましたが、祇園祭の伝統は、牛頭天王奉鎮以来の社家である現宮司室井家により、脈々と今に伝わり、その礼式が保持されています。

www.minamiaizu.org/gion/index.html

◆ 二度と行く機会はないとしても、十年も経てば、自分の写真と他人の文章がワタシのアタマのなかでないまぜになって、和泉屋旅館に泊まったという偽の記憶がしっかりと刻まれているかもしれない。そうなればいい。そういえば、偽の記憶が刻まれそうな旅館がもうひとつあった。鎌倉の「対僊閣」

  耳飾り

◆ おともだちのサイトを訪れたら、日記に「イヤークリップをネットで購入」と書いてあり、はて「イヤークリップ」とはなんだろうと思った。この耳慣れないコトバは、すぐに耳から離れないコトバとなって、調べてみると、耳飾りの一種であるようだが、イヤリングとは違うのだろうか。ワタシの耳飾りにかんする語彙は、これまでずっとイヤリングとピアスのふたつしかなかった。耳に穴をあけるのがピアスで、あけないのがイヤリング。

♪ どこかで半分失くしたら 役には立たないものがある
松任谷由実「真珠のピアス」(作詞・作曲:松任谷由実)

◆ ワタシがピアスというコトバを聞いた最初期に属するもののひとつに、ユーミンの「真珠のピアス」があって、当時18だったワタシには、なんとも自分とはまったく別世界の「大人の女性」の感じがした。なにせ、それまでワタシが知っていたのは、こんな世界だったのだから。

♪ お嬢さん お待ちなさい ちょっと 落としもの
  白い貝がらの 小さなイヤリング

◆ ユーミンの「真珠のピアス」は『PEARL PIERCE』というアルバムに収められているが、この「PIERCE」という英単語は、ピアスの意味で用いられることはないようで、日本語のピアスもイヤリングも、英語では「earring」よ呼ぶそうだ。たとえば、『ジーニアス英和辞典』の「earring」を引くと、

◇ 【名】【C】 [通例~s] イヤリング,耳飾り∥ pierced ~s 耳たぶに穴をあけて通すイヤリング,ピアス/ clip-on ~s 耳たぶをはさんでつけるイヤリング.

◆ とある。だとすると、「森のくまさん」のお嬢さんが落とした「白い貝がらの小さなイヤリング」が「真珠のピアス」であった可能性もないではない(ほとんどないだろうが)。通常ピアスは落とさないものなのだろうけど、何かしらの意図があれば、ユーミンの歌詞にあるように、落とすことがないとはいえないだろう。と思ったが、よく考えると、真珠は「貝がら」ではなかった。真珠といえば、フェルメールに「真珠の耳飾りの少女」という作品もあった。これはよく見ても、ピアスだかイヤリングだかよくわからない。

  通称

◇ 通称ガンガン寺、正式にはちゃんとした名前があるはずだが、通り名のほうがぴったり会っている。
池内紀『ニッポン発見記』(講談社現代新書,p.12)

◆ ガンガン寺の正式名称は、函館ハリストス正教会。聖堂は正式には「主の復活聖堂」というのだそうだ。

◆ 通称、通り名のほうが知られている建物といえば、同じく正教会のニコライ堂もそうだ。正式には、東京復活大聖堂教会の「東京復活大聖堂」というらしいが、おそらくほとんどのひとは知らないだろう。それから、

◇ 三河国(愛知県東部)の豊川市にある豊川稲荷(江戸・東京の豊川稲荷はその別院)が有名である。“豊川稲荷”は通称で、じつは曹洞宗妙厳寺なのだが、妙厳寺の境内に、寺の守護のために荼枳尼天がまつられ、このほうが有名になった。
司馬遼太郎『街道をゆく33』(朝日学芸文庫,p.256)

◆ ニコライ堂の裏手にその首はあった。一瞬、ぎょっとする。できるだけ目を合わせないようにして写真を撮る。石の上に置かれた首ひとつ。もちろん飾られているわけではなく、かといって完全に捨てられているわけでもない。ふと「煉獄」というコトバを思い出すが、煉獄などというものは正教会には存在しないのだった。

〔日本正教会〕 教義的には、人間の理解をこえた事柄については謙虚に沈黙するという古代教会の指導者(聖師父)たちの姿勢を受け継ぎ、後にローマ・カトリック教会が付け加えた「煉獄」・「マリヤの無原罪懐胎」・「ローマ教皇の不可誤謬性」といった「新しい教え」は一切しりぞけます。またプロテスタントのルターやカルヴァンらのように「聖書のみが信仰の源泉」だとも「救われる者も滅びる者もあらかじめ神は予定している」とも決して言いません。かたくなと見えるほどに、古代教会で全教会が確認した教義を、「付け加えることも」「差し引くこともなく」守っています。
www.orthodoxjapan.jp/seikyoukai.html

◆ しかし、これではいつまでたっても成仏できまい。いや、これもまたべつな宗教の用語だったか。ひとつの首を(こちらはけして見られないようにして)見ながら、ワタシは肝心なことをまだ知らないことに気がついた。「オマエはいったい誰なのだ?」 ここはニコライ堂だから、「オマエはニコライかい?」 もちろん返事はない。無礼なやつだと思ったのかもしれない。しかたがないので、さきほど300円の「ろうそく代」を払って3分ほど見学をした聖堂内に戻って、受付の教会関係者ふたりに質問をする。あの裏手にある首はだれですか? ひとりは、そんなものは知らない、といい、もうひとりは、なんの関心もないかのように、

◇ 「ああ、あれはね、***(よく聞き取れなかった)の改築のときにでてきたものだけど、でも、意味ないよ」

◆ と、言った。オマエには意味がない。もちろん「意味がない」というのは、「とくに重要なものではない」という意味なのだろうけど、首がもしかして聞き耳を立てていたら、と心配になった。オマエは無意味だ! オマエは無意味だ! だが、死にたいと思っても死ねない。黙ってすべてのことを受け入れるしかない。鏡を見よ、生を失ってからすでに百年が経とうかというのに、オマエの顔にはいまだに、人間らしさで満ち満ちているではないか? これから先、風雨にさらされながら、さらに数百年、オマエの顔からは徐々に表情が失われていくだろう。さらに数百年。喜びやら悲しみやら、あらゆる感情がオマエから削り落とされていくだろう。その果ての数百年後のオマエの顔をぜひ見てみたいものだ。

◆ などと、ひとりでなぜだか興奮してしまったのだった。家に帰って調べると、その首はやはりニコライその人であるようだった。ニコライ・カサートキン。本名、イワン・ドミートリエヴィチ・カサートキン(Иван Дмитриевич Касаткин, 1836 - 1912)。

〔wikipedia〕 ニコライは修道士名で、カサートキンは姓。日本正教会では「亜使徒聖ニコライ」と呼ばれる事が多い。日本ではニコライ堂のニコライとして親しまれた。神学大学生であった頃、在日本ロシア領事館附属礼拝堂司祭募集を知り、日本への正教伝道に駆り立てられたニコライは、その生涯を日本伝道に捧げた。
ja.wikipedia.org/wiki/ニコライ・カサートキン

◆ チントンシャンにコンチキチン、ついでにおまけに、カサートキン♪

◆ たまたま引越の仕事で行ったのが狭山市の祇園という地名をもつところだった、ということに過ぎないのに、それ以降「祇園」のことが気になって、あれこれと図書館に行ったりネットで検索したりして、いつまでもだらだらとけりをつけないでいるのが性にあっているようで、ことのほか愉しい。「旅」はいつだって終わってからが始まりだから。祇園のという地名の由来であるだろう祇園信仰については、調べ始めるとずいぶんと難しくもあり、また適当なことを書くのも気がすすまないので、そのことと少し関係があるような(つまりはほとんど関係がないような)別のことをとりあえず先に書くことにする。

◆ 前の記事を書いていたときに、祇園といえば「チントンシャン」、それだけで十分なのだなあ、と妙な感心の仕方をした。もう一度、引用すると、

◇ 「チントンシャンっていう雰囲気で、もう最高だったぜ」
大穂耕一郎『駅前旅館に泊まるローカル線の旅』(ちくま文庫,p.175)

◆ と、これだけでも祇園の雰囲気が十二分に伝わっていると思えるけれど、念のため、

◇ 京都の祇園というと、華麗なお座敷にお偉いさんと芸妓さんがチントンシャンという場面を思い浮かべる方が多いと思います。
shunichi.cocolog-nifty.com/contents/2008/11/post-207e.html

◆ と、さらに説明的に言えば、京の花街・祇園の情景を表すのに、もはやなにも付け加える必要がないだろう。祇園といえば「チントンシャン」。それだけで、お座敷からは三味線の音が、それから華やかな芸妓の嬌声が聞こえてくる、ような気がする(もちろん、気がするだけで、そんなところには一度も行ったことがないので、じっさいどうなのかはよくわからないのだが)。チントンシャン、なんと不思議なコトバだろう。ついでに、今日のニュース記事から、もうひとつ不思議なコトバを付け加えると、

京に響く「コンチキチン」 祇園祭、宵々山
 京都三大祭りの一つ、祇園祭はハイライトの山鉾巡行を2日後に控えた15日、「宵々山」を迎え、歩行者天国となった京都市の中心街は浴衣姿のカップルや家族連れでにぎわった。
 暑さが和らいだ夕刻、「コンチキチン」と祇園囃子の音が響き渡ると、街はお祭りムード一色に。多くの夜店が並び、旧家や老舗では秘蔵のびょうぶ絵や掛け軸も公開され、見物客は古都の風情を楽しんだ。
 今年は32基の山鉾の一つ、菊水鉾に新築マンション2階から仮設の廊下を渡し、子どもが鉾に上ってはしゃいでいた。
 人出は約24万人(京都府警調べ)だった。

www.47news.jp/CN/200907/CN2009071501000886.html

◆ 祇園祭といえば、コンチキチン。

◇ 祇園祭と言えば、「コンチキチン」っていうあのお囃子。私鉄や市営地下鉄の駅でも流れてます。
blog.canpan.info/colpu/archive/201

◆ まあ、あの祇園囃子が「コンチキチン」と聞こえないひともいるにはいるが、

〔道浦俊彦/とっておきの話:ことばの話1289「コンチキチン」(2003/7/17)〕 7月16日、久々に、祇園祭宵山に行ってまいりました。東京生まれで東京育ちの新人・小林杏奈アナウンサーの「研修」の先生として。放送はしませんが、「月鉾」の前で、1分とか1分半の「仮想リポート」の訓練を小林アナウンサーにさせるのです。その際に小林アナから出た質問です。「『コンチキチン』って何ですか?」 アーホーかー、と言うのをグッと押さえて、「ほら、さっきから聞こえてる、祇園囃子(ぎおんばやし)の音色だよ。鉦の音が『コンチキチン』って聞こえるだろう?」「えー!コンチキチンとは聞こえませんよぉ。」「じゃあ、一体なんて聞こえるんだよ?」 これに答えて小林アナいわく、「『チャンチャカチャン』って、聞こえますーぅ!」
www.ytv.co.jp/announce/kotoba/back/1201-1300/1286.html

◆ それでも、祇園祭はコンチキチン。コンコンチキチン、コンチキチン♪

◇ あと二、三日で祗園さんがある。そう思うだけでコンコンチキチン、コンチキチンというお囃子の鉦(かね)の音が聞こえてくるようだった。
有吉佐和子『和宮様御留』(講談社文庫、p.8)

◆ 京を遠く離れても、聞こえてくるコンチキチン。

◇  少女が急に泣きやみ、覚左衛門夫婦を見てにっこり笑った。
「コンコンチキチン、コンチキチン。コンコンチキチン、コンチキチン。祇園さんえ」
 立ち上り、ふらふらと座敷の中を歩きながらはやしたてたとき、覚左衛門は事態を悟った。和宮様に狐が取り憑いたのだ。おいたわしいことだ。中仙道は五街道のなかで一番嶮しい山道だから、どこかの山狐が宮様にのり移ったのに違いない。
「コンコンチキチン、コンチキチン。コンコンチキチン、コンチキチン」
 フキは、晴れやかに笑いながら、祇園囃子が次第に大声になっていた。

Ibid., p.339

◆ キツネの声やあらしまへんて。これは祇園さんえ。