MEMORANDUM

◆ 腰が痛いので、パソコンのディスプレイを台から下ろして床に置き、寝そべりながら画面を見ている。ついでに、同じ姿勢でビールを飲んでいる。寝そべっているのは、ワタシだけではない。式根島の民宿のジイさんも寝そべっているらしい。

◇  壁ぎわに民宿のジイさんが片肘ついて寝ころんでいた。昨日とまったく同じ姿勢である。当人の言い分によると、人間にとってこれが一番ラクな姿勢で、若いころからこんなふうにしてきた。夜はいつも寝そべっている。酒もこのままチビチビやる。
 そういえば鼻先にお盆があって、コップ酒がのっている。おトシのほどは定かでないが、人生の半分をゴロリと横になったまま過ごしてきたというのは、なかなか豪勢な生き方ではあるまいか。

池内紀『ニッポン発見記』(講談社現代新書,p.122)

◆ 寝そべっているのは、式根島の民宿のジイさんばかりではない。蓮實重彦によると、夏目漱石の小説の主人公はみな寝そべっているらしい。

◇ 「生憎主人はこの天に関して頗る猫に近い性分」で、「昼寝は吾輩に劣らぬ位やる」と話者たる猫を慨嘆せしめる苦沙彌の午睡癖いらい、「医者は探りを入れた跡で、手術台の上から津田を下した」という冒頭の一行が全篇の風土を決定している絶筆『明暗』の療養生活にいたるまで、漱石の小説のほとんどは、きまって、横臥の姿勢をまもる人物のまわりに物語を構築するという一貫した構造におさまっている。『それから』の導入部に描かれている目醒めの瞬間、あるいは『門』の始まりに見られる日当りのよい縁側での昼寝の光景、等々と逐一数えたてるまでもなく、あまたの漱石的「存在」たちは、まるでそうしながら主人公たる確かな資格を準備しているかのごとく、いたるところにごろりと身を横たえてしまう。
蓮實重彦『夏目漱石論』(福武文庫,p.27)

◆ でも苦沙弥先生は架空の存在だから、実在の人物で寝そべっているのが似合いそうなひとといえば、先月亡くなった森毅先生だろうか。

〔産経新聞大阪本社版夕刊:関西笑談(2002年5月24日)〕  〔……〕 僕は不器用やから、実験なんかするとガスをつけっ放しにするから危なっかしくてね。一番安全なのが数学なのよ。ガス管爆発せえへんから。数学は寝そべってたらいいからね。ものぐさの勉強好きが行くのが理学部やね。
www.ne.jp/asahi/koto/buki/rikuryo/a205/mori/mori05.htm

◇ 実際に氏の講義を受けた人から聴いたことがあるのだが「XXXX(西洋の哲学者だったか?失念)は寝て話したんや」と言いながら、実際に壇上に寝っころがって講義したりしていたという。
d.hatena.ne.jp/gryphon/20100726/p3

◆ どこまでホントかしらないが、寝そべっている姿がサマになるひとはそうはいないだろう。

◇ 数学者で社会問題にも独特な視点で論評し、「よろず評論家」として活躍した京都大名誉教授の森毅(もり・つよし)さんが24日、敗血症性ショックのため大阪府内の病院で死去した。82歳だった。2009年2月、自宅で料理中に重いやけどを負って入院していた。葬儀は行わない。〔中略〕 09年2月27日、1人でフライパンを使って昼食を作っていたところ、コンロの火が服に燃え移り、体全体の30%以上に重いやけどを負って大阪府内の病院に搬送された。そのまま入院し、治療を続けていた。
www.asahi.com/obituaries/update/0725/OSK201007250090.html

◆ この訃報を読むと、「実験なんかするとガスをつけっ放しにするから危なっかしくてね」と、自らの不器用を自覚して危険のない数学を専攻するにいたった若きの日の判断が、ほら正しかったやろ、と自らの最期に証明したようでもあって、悲しくも可笑しい。あの世では、好きなだけ寝そべっているだろうか。

◆ いや、寝そべっていると腰は楽だが、首が痛い。とかくこの世はままならぬ。

◆ ご当地検定といえば、「京都検定」(京都・観光文化検定)が有名で、2004年に行われた第1回3級(いちばん下のランク)の問題をチラリと見てみると、

◇ 問題98:京都駅前のシンボルとなっている、京都タワーが竣工したのはいつか。
(ア)昭和36年 (イ)昭和39年 (ウ)昭和42年 (エ)昭和45年
問題99:かつて洛中の周囲に設けられた「京の七口」のうち、東海道の出入口として適当なものはどれか。
(ア)丹波口 (イ)粟田口 (ウ)大原口 (エ)鞍馬口

www10.plala.or.jp/chinujyou/kyotokentei1kai3kyuu.html

◆ 問題98、これは、ワタシにとって、「アナタが生まれたのはいつか」と問われているのと同じ。京都タワーの竣工は、1964(昭和39)年。問題99、「東海道の出入口」とあるので、これは粟田口しかない。「京の七口」というコトバを知らなくても、正解できる。じっさいワタシが「京の七口」というコトバを知ったのは、(忘れていたのでなければ)つい先日のことだった。

◇ 「京に七口あり」
 という。白河口とか鞍馬口とか、あるいは丹波口、鳥羽口、粟田口といった用い方で、京都ではいまでも地名としてつかわれている。平安京は防御しにくい山城盆地におかれたが、それでも七口をふさげばなんとか侵入軍をふせげた。歴史上、身近な例として会津盆地がある。会津盆地に入るためにはいくつかの口を経ねばならない。明治戊辰の乱で孤立した会津藩は、この口々に塁塞をつくって新政府軍をふせごうとし、口の防衛戦では「滝沢口」の戦いがもっともよく知られている。

司馬遼太郎『街道をゆく3』(朝日学芸文庫,p.151-152)

◆ と、ワタシが「京の七口」というコトバを知った文章を引き写していると、読んだときには気にならなかったが、「白河口」なんてあったっけ、これは(京には白川という川があるから)「白川口」の誤植じゃないのか、という気がしてきて、《Wikipedia》を見てみると、

◇ 京の七口(きょうのななくち)とは、京(京都)につながる街道の代表的な出入口の総称として用いられる。七口として示される出入口の場所および名称は史料によっても異なり、定まっていない。
ja.wikipedia.org/wiki/京の七口

◆ とあり、「現代において七口の一つとよく称される代表的な口」として挙げられているのは、「鞍馬口」「大原口」「荒神口、今道の下口」「粟田口、三条口」「伏見口、五条口」「竹田口」「東寺口、鳥羽口」「丹波口」「長坂口、清蔵口」で、「白河口」も「白川口」も見あたらない。どうも、この「白河口」というのは、京都とは関係がなくて、戊辰戦争時の「白河口の戦い」で知られる福島県白河市の白河口のことであるようだ。どうして、この白河口が京の七口に紛れ込んだのか。ちなみに「白川口」のほうも、京都にはないようだが、岐阜県に高山本線の駅名として白川口というのがある。駅名といえば、山陰本線の駅に丹波口があって、これは京の七口のひとつ(だった)。

◇ 丹波口の駅で乗り降りする客の誰もは、みな島原のこの遊郭を歩くのだった。律儀なつとめ人も、学校の子らも、この土地にうまれて、列車を利用する者は、みな、遊郭のけしきを見ながら歩いたのだ。
 日本の国鉄駅で、遊郭を駅前通りとする駅はおそらく、この丹波口くらいではなかろうか。

水上勉『停車場有情』(朝日学芸文庫,p.31)

◆ この「遊郭を駅前通りとする駅」も、いまはない。

〔wikipedia〕 1976年(昭和51年)3月16日 - 高架駅化・北へ500メートル移転。
ja.wikipedia.org/wiki/丹波口駅

◇ 「豆は、お豆のままでイイですか?」と、コーヒー豆買うときに言われて、なんだかおかしかった^^
na2meg.exblog.jp/8036115/

◆ とブログに書いているひとがいて、「なんだかおかしかった」理由についてはふれていないので、想像するしかないのだが、たぶん「お豆」という言い方が「なんだかおかしかった」のではないかと思う。

◆ ワタシがさいきんコーヒー豆を買っている店でも、女性の店員が「挽きますか? お豆のままですか?」と聞くので、つられて「お豆のままで」と繰り返しそうになるのをがまんして「そのままで」と答えると、店員がもう一度ていねいに「お豆のままですね」と復唱してくれる(してないか)。その「お豆のままで」という台詞を聞くのが楽しみで、また豆を買いに行く。豆、お豆、お豆さん。

〔かんでんe-Patio〕 京都や大阪では豆のことを親しみを込めて「お豆さん」と呼びます。古くから私たちの生活と関わってきたお豆さんには植物の命がぎゅっと詰まっています。
www.kepco.co.jp/e-patio/category/living/1202182816/

◆ ワタシも関西出身なので、「お豆さん」と言い方に違和感はない。だけど、この「お豆さん」にコーヒー豆を仲間入りさせていいものやら。舶来の豆だからって仲間はずれにするほうがおかしいと反省すべきなのかも。だけど、「お豆さん」と聞くと、和食でないものをなかなか想像できない。《フジッコのおまめさんシリーズ》にもコーヒー豆はないしなあ(あるわけないか)。

◆ 関西方言の「お豆さん」はともかく、豆に「お」をつけて「お豆」と言うのは、ほとんどが女性で、「お」をつけることで、上品に聞こえるかはともかく、少なくともやわらかく聞こえる。敬語の一種になるのだろう。同じ女性でも「お」をつけたりつけなかったり。

〔Webマガジン幻冬舎:甲斐かずえ「おいしい珈琲をごいっしょに」第11回〕 お豆の販売をする時には、必ず「豆のままでいいですか? 粉にしますか?」と聞いています。その時のお客さんはこの質問に「んっ?」と一瞬ためらいながらも、「いやぁ、実はこの前、人から頂いた珈琲はあまり良くなかったみたいで、お湯をかけても色が出ないんですよ」と言うのです。〔中略〕 よくよく聞くと、その方は、「豆のままの状態にお湯をかけていた」のでした。
webmagazine.gentosha.co.jp/coffee/vol133_coffee.html

◆ 敬語の使い方にかんして、ビールやコーヒーなどの外来語に「お」をつけて「おビール」「おコーヒー」というのは間違い、などということがよく言われる。もしかすると、コーヒー豆を買うときに「お豆」と言われると、「おコーヒー」と言われたのと同じ違和感を感じるのかも。外来語そのものでなくても、外来のものに「お」がついているのがちょっと引っかかるのかも。そんな気もする。

◆ 「お豆のままで」という歌は聞いたことがないけど、「素顔のままで」という歌なら聞いたことがある。ビリー・ジョエルの「Just the Way You Are」。太ったビリー(「ビリー・ジョエルは60歳」)のすてきな歌声を聞きながら、さて、コーヒーでも飲むことにするか。まずはマンデリンのフレンチローストのお豆をミルで挽いてから。

◆ つくづく安上がりな生活(人生)だと思う。もちろん、ワタシ自身の生活のことだ。とくに欲しいものも思いつかないので、消費者と名のるのが気恥ずかしいほど、モノを買わない。一日を過ごすのに、たいしたモノはいらない。たとえば、こんなイメージがひとつあればこと足りる。一日、それどころか一週間、あるいは一ヶ月を過ごせるかもしれない。ちょっとした曲がり角の隙間にはめ込むようにして作られた小さな公園。一本の木の周りに木の座布団を載せた円い石の椅子が七つ。手前には、もうひとつ椅子が置けそうな空間がある。本来は八つ椅子があったのだろうか? その痕跡のようなものもある。だが、他の椅子の根元のようには、舗石が円形に切り取られてはいない。やはり、元々七つしかなかったのだろうか。だとすると、この隙間はなにを意味するのか。などというどうでもいいことを考えていれば、あっという間に一日が過ぎる。

◆ ひとつ足りないもの、たとえば、皿屋敷のお菊さんの皿。10枚あるべき皿がなぜか9枚しかない。ひとつ余っているもの、たとえば、萩尾望都の「11人いる!」という漫画。10人いるべき宇宙船になぜか11人いる!

◇ 宇宙大学受験会場、最終テストは外部との接触を絶たれた宇宙船白号で53日間生きのびること。1チームは10人。だが、宇宙船には11人いた! さまざまな星系からそれぞれの文化を背負ってやってきた受験生をあいつぐトラブルが襲う。疑心暗鬼のなかでの反目と友情。11人は果たして合格できるのか? 萩尾望都のSF代表作。

◆ 10-1=9、10+1=11。日常生活においては、ほとんどの場合、誤差として処理されてしまうだろうような些細な数の不一致が人生を左右してしまうことも時にはある。

◆ そういえば、大学入試の点数が友人と2点差だったことがあった。ワタシは合格し、友人は不合格になった。その2点差がその後の人生を左右する、ということもあるいはあったかもしれない。ワタシはその大学には進学しなかったので、なんともいえないのだが。

◆ それから、じっとこのイメージを眺めていると、キノコに見えないでもない。円形に生えたキノコ。それで、フェアリーリングということばを思い出す。つづく。

◆ 雪が降っている。本のなかでは雪が降っている。林芙美子の『放浪記』。十二月×日。

◇ 雪が降っている。私はこの啄木の歌を偶(ふ)っと思い浮べながら、郷愁のようなものを感じていた。便所の窓を明けると、夕方の門燈(あかり)が薄明るくついていて、むかし信州の山で見たしゃくなげの紅(あか)い花のようで、とても美しかった。
林芙美子『新版 放浪記』(青空文庫

◆ 「この啄木の歌」というのが、

 さいはての駅に下り立ち
 雪あかり
 さびしき町にあゆみ入りにき

◆ で、ズレてないひとならば、当然、この歌の「さいはての駅」とはどこの駅なのか、「さびしき町」とはどこの町なのか、ということに思いをめぐらせることだろう。はやりのご当地検定のひとつに「道産子検定」というのがあるようで、その過去問のひとつに、

◇ ●第4回上級より
「さいはての駅に下り立ち 雪あかり さびしき町にあゆみ入りにき」。歌人・詩人の石川啄木が1908年1月21日21:30ころに降り立ったとされる、ある駅の情景を詠んだものである。その「さいはての駅」とはどこのことか。
 A.稚内駅
 B.根室駅
 C.釧路駅
 D.網走駅

◆ 答えは、Aの稚内駅だろうか? 駅前には「さいはて」という旅館もあったから。と、以前に撮った写真を載せたいばかりに、とりあえず、そう答えてみようかとも思ったが、わざとらしいのでやめにする。根室と網走は載せたい写真もとくに思いつかないので、パス。正解はCの釧路駅。正解率は48.4%。

◆ 林芙美子は、後年(1935年ごろ?)、じっさいに釧路を訪れている。駅に着いたのは夜の八時ごろ。釧路の写真も載せたいところだが、まだないので、おともだちの霧(笛)さんからのいただきもの、幣舞(ぬさまい)橋に飾られた本郷新の彫刻作品とカモメの画像をこっそり借用(このカモメもさいはてのカモメと呼ぶべきか?)。

◇  釧路へ着いたのが八時頃で、驛を出ると、外國の港へでも降りたやうに潮霧(がす)がたちこめてゐた。雨と潮霧で私のメガネはたちまちくもつてしまふ。帶廣から乘り合はせた、轉任の鐵道員の家族が、町を歩いて行つた方が面白いですよと云つて、雨の中を子供を連れた家族達が私を案内してくれた。
 山形屋と云ふのに宿を取る。古くて汐くさいはたご屋であつたが、部屋には熊の毛皮が敷いてあつた。――町を歩いてゐても、宿へ着いても、三分おきに鳴つてゐる霧笛の音は、夜着いた土地であるだけに何となく淋しい。遠くで霧笛を聽くと夕燒けの中で牛が鳴いてゐるやうな氣がする。

林芙美子『摩周湖紀行』(青空文庫

◆ 夕焼けの牛の鳴き声のような霧笛、か。翌日(六月十六日)、

◇ 山形屋の拂ひを濟ませて道路へ出ると、宿の前がさいはての驛であつた。山形屋へ泊つたこともいゝではありませんかと、いまは肥料倉庫のやうなさいはての舊驛を眼前にして、私は啄木の唄をまるで自らの唄のやうにくちずさんでゐた。
「さいはての驛に降り立ち雪あかり、淋しき町に歩ゆみ入りにき」さいはての驛の前は道が泥々してゐて、雪の頃のすがれたやうな風景を眼の裏に思ひ出す事もできた。

Ibid.

◆ 1908年に啄木の降り立った釧路駅は、旧駅。

〔Wikipedia〕 1917年(大正6年)12月1日 - 現在地に移転、貨物の取扱を廃止(旅客駅となる)。旧駅は貨物駅の浜釧路駅となる。
ja.wikipedia.org/wiki/釧路駅

◆ 真夏の東京で、もしかしたら少しはこの灼熱も和らぐのではないかと、林芙美子に倣ってワタシも「雪の頃のすがれたような風景」を「眼の裏」にイメージしてみようとしたが、能力不足でいっこうに涼しくはならない。どうしたものか? 真冬の南半球にでも行くしかないか? そうしよう。しかし、

〔朝日新聞〕 冬の南半球。南米各地では、寒波で少なくとも200人以上の死者が出ている。ボリビアでは過去に降雪記録がない地域で雪が降り、チリでは各地で吹雪による停電で交通が止まり、町が孤立した。アルゼンチンでは寒さで少なくとも14人が死亡、ホームレスの人を屋内に収容するなどの対策に追われ、ガス需要が増えたため炭で料理するレストランもあるという。ペルーでも、標高3千メートル以上の地域で零下24度を記録し、政府が緊急事態宣言を出した。
www.asahi.com/national/update/0725/TKY201007240512.html

◆ そうか、大寒波か。こりゃ大変だな。じっさいに行くのはやめにして、お手軽にネット旅行。こんな画像はどうだろう? これは南米パタゴニアの氷河。撮影は、おともだちの rororo さん。皆既日食を見るために、はるばる地球の裏側のさいはての地まで!

◆ 納涼気分で、rororo さんのブログ《忍法火遁の術:パタゴニア旅行記》を読んでいると、世界最南端の都市、アルゼンチンのウシュアイアの西に広がるフエゴ島国立公園には「世界の果て列車(El Tren del Fin del Mundo)」が走っているそうで、これは廃線になっていた木材輸送のための森林鉄道を観光客向け鉄道として復活させたものらしい。この鉄道の始発駅が「世界の果て駅(Estación del Fin del Mundo)」だそうで。こんなところにも「さいはての駅」はあったのだなあ、と感慨深い。思わず啄木を連れて行きたくなる。

◆ ところで、フエゴ島は過去に流刑地であった歴史があり、島の中心都市ウシュアイアも囚人たちの労働によって建設された。というようなコトを知ると、思わず口ずさんでしまうのは、

♪ 遥か 遥か彼方にゃ オホーツク
  紅い真っ紅な ハマナスが
  海を見てます 泣いてます
  その名も 網走番外地

  高倉健「網走番外地」(作詞:タカオ・カンベ)

◆ となると、さっきの道産子検定に戻って、答えは、Dの網走駅でどうだろう?

◆ 「さいはての駅」とはなんの関係もないけど、最初に引用した林芙美子の『放浪記』の文中に、「しゃくなげの紅い花」、最後に引用した「網走番外地」の歌詞のなかに、「紅い真っ紅なハマナス」。たまたま、紅い花ふたつ。と書いて、またまた不安になる。高倉健の歌う「紅いハマナス」は花なのか? それとも実なのか? まさか道産子検定の問題になってはいないだろうな。

◆ 週刊誌の連載エッセーで、劇団ひとりが実家の飼い犬(コロ)の死のハナシを書いていた。

◇  コロの訃報を聞いて実家に帰り、手を合わせたその日の夜、出張専門のペット火葬業者がきた。トラックの荷台には火葬設備が整っており、神々しい光と音楽に包まれて皆で泣きながら別れを告げる。一時間ほどして、すっかり骨になってしまったコロを見つめる僕ら家族に向かって業者の人が言った。
「お年の割に骨はしっかりしています。きっと、いっぱい可愛がってもらえた証拠です」
 その一言を聞き、庭を元気に走り回っていたコロを思い出して皆で再び泣いた。そしてずべてを終え、去っていく火葬車を見て、母が涙を拭きながら言った。
「ほんと便利な世の中になったね」
 その瞬間、空気が止まる。
 確かにそうだ。家まで業者が来てくれて、見送るセレモニーも火葬も、その場で済んでしまうのだから便利である。ただ、それを言うタイミングではない。そして、さらに追い打ちの一言。
「人間にも、こういうのがあったら便利なのにね」
 本気なのか冗談なのかも分からない。皆で聞こえないふりをして家に帰った。

劇団ひとり「そのノブは心の扉」(『週刊文春』2010年8月5日号,p.70)

◆ ワタシ自身は、できることならあまり他人とズレないように、人並みにふつうに生きたいと思っているけれど、ズレているひとのハナシを聞くのは好きだ。このハナシもおもしろく読んだ。そう書いて、いや待てよ、このハナシを「おもしろく」読むこと自体がズレていたりはしないだろうか、とちょっと不安になった。どうなのだろう? ところで、このコロの葬儀の場で、ズレているのはいったい誰? 劇団ひとりのお母さん? 火葬業者の人? それとも、劇団ひとり自身? やっぱり、一番ズレているのは、こんな文章でさえ気軽に読み飛ばせないワタシかなあ。

◆ 雨が降っている。本のなかでも雨が降っている。だから、アタマのなかでも雨が降っている。松浦寿輝の『花腐し』の冒頭。

◇ どうしてそんなに濡れるの、肩も背中もずぶ濡れじゃないのとずいぶん昔にほんの二年ほど一緒に暮らしていた女がよく言ったものだった。変なひとねえ、ずっと傘をさしていたのにさあ、いったいどうしてこんなにぐしょぐしょになるのよ、傘のさしかた知らないの。
松浦寿輝『花腐し』(講談社文庫,p.60)

◆ 場末のラブホテルの駐車場でひとり雨宿りをしながら、むかしの女を思い出している中年男、栩谷(くたに)

◇ あんたは傘のさしかたも知らないのねえという祥子の呆れたような声がまた耳元に響き、そうだ、見よう見真似で人並みになろうと懸命にやって来たつもりで、結局俺は傘のさしかたも箸の持ちかたも覚えずにこんな歳まで来てしまったのかもしれない、こんなどんづまりに行き着いてしまったのかもしれないと栩谷は思う。
Ibid., p.62

◆ そうだ、見よう見真似で人並みになろうと懸命にやって来たつもりで、結局俺は傘のさしかたも箸の持ちかたも覚えずにこんな歳まで来てしまったのかもしれない、とワタシも思う。傘の差し方、これは考えてみたことがなかったが、箸の持ち方は、(ほとんどのひとにはばれてないと思っているが)自己流だ。狭い歩道での人の避け方もよくわからなかったし(「とっさに右?あるいは左?」)、エスカレーターでの前のひととの間隔の開け方も理解するのに時間がかかった(前のひとの直後の段に乗ってしまって、窮屈な思いをしたことが何度もある)。そういったひとつひとつのことを、見よう見まねで人並みになろうと努力してきたつもりだが、けっきょくのところ、根本的なズレはどうにもならないのだろう。そろそろあきらめようか。

◆ とっくに雨は止んでいる。降っているのは、本のなかだけ、アタマのなかだけ。でも雨が止んでよかった。とりあえず傘の差し方に悩まずにすむ。