MEMORANDUM

◆ さきほど「安楽椅子」を『言海』という古い辞書で調べてみたが、載っていなかった。その代わりに、となりのページにこんなのを見つけた。たまたま雨も降ってるし。

あめ-ふらし (名) 雨降(一)動物ノ名、薩摩ノ山中ニアリテ、雨中ニ出ズ、形、あわびニ似テ、痩セテ、莞無シ。雨虎(二)又、海産ノ動物ノ名、形、なめくぢニ似テ、大ク、黒褐雑駁ブチ色ナリ、頭ニ二ツノ肉角アリ、コレニ觸ルレバ、背ヨリ紅紫ナル汁ヲ噴キテ身ヲ隠スコト、烏賊ノ墨ヲ噴クガ如シ。
大槻 文彦『言海』(ちくま学芸文庫,p.179)

◆ 「ブチ」は漢字で「雑?」と書いてあるが、ちょっと読めない。「あん」と「あめ」だと、ページがだいぶ違うのではないかと思われる方もおられるかもしれない。仕組みはよくしらないが、この辞書では、「あむ」の後に「あん」が来て「あめ」につながっている。そういう順番。だから、「アメフラシ」を見つけることができた。

◆ で、(二)のアメフラシは、みんなが知ってるアメフラシだが、(一)の「アメフラシ」とはいったいナニモノであるか? 妖怪のタグイだろうか。そのうち調べてみることにしよう。

◆ 「雨降らし」といえば、「雨晴らし」のハナシを以前に書いたのを思い出して読んでみたが、内容はすっかり忘れていて、読み直して、また改めて勉強になった。

◆ 安楽椅子などというコトバは、おそらくもう死語なのかもしれない。その代わりに安楽死などというコトバが生まれたが。

◇ 珍しい秋晴れの日に縁側へ出て庭をながめながら物を考えたりするのにぐあいのいいような腰の高い椅子があるといいと思う。しかし近ごろは昔あったような高い籐椅子はもうめったに見当たらない。みんな安楽椅子のような扁平なのばかりである。
寺田 寅彦『柿の種』(青空文庫

◇ ××○○会社には、一脚百何十円とかする鞣皮張(なめしがわばり)安楽椅子が二十脚も並んだ重役会議室があった。が、設備のある医務室というものはなかった。
宮本 百合子『舗道』(青空文庫

◇ あそこに置いて在るボロボロの籐の安楽椅子に身を横たえて、
夢野 久作『少女地獄』(青空文庫

◇ K君の部屋は美くしい絨氈(じゅうたん)が敷いてあって、白絹(しらぎぬ)の窓掛(まどかけ)が下がっていて、立派な安楽椅子とロッキング・チェアが備えつけてある上に、小さな寝室が別に附属している。
夏目 漱石『永日小品』(青空文庫

◇ 電灯の明るく照っている、ホテルの広間に這入ったとき、己は粗い格子の縞羅紗(しまらしゃ)のジャケツとずぼんとを着た男の、長い脚を交叉させて、安楽椅子に仰向けに寝たように腰を掛けて新聞を読んでいるのを見た。
森 鴎外『沈黙の塔』(青空文庫

◆ ところで、引用した安楽椅子はみな同じものだろうか。そもそも安楽椅子とはなんだろう。辞書を見ると、

◇ ひじ掛けつきで柔らかくゆったりとした休息用のいす。(大辞泉)
◇ ひじ掛けがあり、体をあずけて楽な姿勢で座れる椅子。(大辞林)
体をあずけて楽な姿勢で座れる、休息用のひじ掛け椅子。(明鏡国語辞典)
スプリングのよくきいた、大形のひじかけ椅子。(新明解国語辞典)

◆ 「ひじ掛け」椅子であることは間違いないようだが、なにが「安楽」なのかということについては、それぞれ説明が異なる。「柔らかくゆったりしている」から安楽なのか、「スプリングがよくきいている」から安楽なのか、はたまた「体をあずけて楽な姿勢で座れる」から安楽なのか。さらには、

◇ 安楽いすとは、休息用のひじ掛けの付いた張りぐるみいすの総称である。
『木工工作法』(雇用・能力開発機構職業能力開発総合大学校能力開発研究センター,p.230)

◆ これなどは、ひじ掛け自体が「安楽」の根拠であるように読める。あとふたつ。

〔家具木工用語辞典:安楽椅子とは〕 休息用のひじ掛け椅子。普通の椅子より大きく、スプリングを設け、よりかかりがあるもの。
www.fuchu.or.jp/~kagu/search/regist_ys.cgi?mode=enter&id=33

〔自立訓練法のやり方〕 安楽椅子とは、頭の部分まで支えがある椅子です。
himawari.fem.jp/howtojiritu.htm

◆ これらを読んで、それぞれの安楽椅子の定義から思い浮かべられるイメージは必ずしも一致しないと思う。《Wikipedia》は、

〔Wikipedia:椅子〕 ロッキング機能に加えて、背当て部分が倒れるなどのリクライニング機能が加わった椅子の総称。ときにロッキングチェアと同義で扱われる場合がある。
ja.wikipedia.org/wiki/椅子

◆ と書いているが、これはちょっと特殊な定義ではないだろうか。まあ、ロッキングチェアもまた「安楽」であろうことは、疑いのないところだろうが。

◇ 美しい「花」がある。「花」の美しさという様なものはない。

◆ と言ったのは小林秀雄だが、「白鷺という様な鳥はいない」という様なことを言うひとが、なぜだか多い。

〔東京書籍:花ちゃん・オー君・モンタ博士のてくてく自然散歩シリーズ〕 「うわあー。まっ白い鳥だね。シラサギかな?」
「まっ白なサギなので、シラサギと言ったりするけど、本当はシラサギという鳥はいないのよ。白いサギはコサギ・チュウサギ・ダイサギの3種類(しゅるい)がいるのよ。」

kids.tokyo-shoseki.co.jp/kidsap/downloadfr1/htm/err40909/err44132-196.htm

◇  毎年、京都の八坂神社や東京の浅草寺などで行われる「白鷺の舞」をご存知でしょうか。白駕の装束に身を包んだ演舞者がゆっくりと舞う、なかなか優雅な行事です。シラサギというと、全身純白の姿から、気品とか優雅などのイメージを一般では持っようです。
 確かに、実際のシラサギも純白で、優雅でなかなかきれいな鳥です。しかし、考えてみるとあの白い色はかなり目立つので、かえって外敵に発見されやすく、あまり良くないのではと思えます。あんなに白くて大丈夫なのでしょうか。
 ところで、シラサギという名前の鳥はいません。コサギ、チュウサギ、ダイサギ、アマサギなどの体が白色のサギを総称してシラサギと呼びます。アマサギだけは、夏に頭から首にかけて亜麻色になります。

柴田 佳秀『ポケット図解 鳥の雑学がよ~くわかる本 ー 鳥たちの衣食住と結婚、子育て』(秀和システム,p.100)

〔あわら市のシンボル(花・木・鳥)(案)提出された意見の概要と市の考え方〕 ご指摘いただきましたように、白鷺は白い鷺の総称で、白鷺という名の鷺がいるわけではありません
 ただ、わが国では、この白い鷺を一般的にシラサギと呼称し、古くは姫路城の別称にもなっているほか、近年では北陸線の列車名にも採用され、愛されてきました。

www.city.awara.lg.jp/page/seisaku/pabcome20080110_d/fil/004.pdf

〔いきもの通信 Vol.311[今日のいきもの]シラサギという名前の鳥はいない〕  例えばまっ白なサギを見つけたならば、あなたはそのサギをなんと呼びますか?
 「コサギだ」「ダイサギだ」と言う人は、鳥についてそれなりの知識を持っているようですね。
 「シラサギだ」と言う人は、残念ながら鳥について詳しくない、というより何もわかっていないのではないかという疑念を感じざるをえません。なぜこんなことが言えるのかというと、「シラサギ」という名前の鳥は存在しないからなのです。

ikimonotuusin.com/doc/311.htm

〔姫路科学館:科学の眼 No.432〕  天下の名城姫路城は1993年12月、法隆寺とともに日本で初の世界文化遺産に指定されました。姫路城は白く美しい白壁が天を舞うシラサギのように見えるので、別名「白鷺城」とも呼ばれています。
 さて、鳥の世界では「シラサギ」という名の鳥はいるのでしょうか。残念ながら、日本には「シラサギ」という名の鳥はいないのです。それでは「シラサギ」とはどのような鳥をいうのでしょうか。

www.city.himeji.lg.jp/atom/wadai/manako/432_s.pdf

◆ 書かれていることは概ね理解できるけれども、どうしてもわからないことがひとつある。最後の引用の、

◇ 残念ながら、日本には「シラサギ」という名の鳥はいないのです。

◆ の「残念ながら」だ。白鷺が種の名前でないからといって、なにを残念がる必要があるのだろう。コサギだろうがダイサギだろうが、白鷺はあいかわらずそこにいるではないか。こんなとき、ワタシはやっぱり土星人なんだなと思って、ちょっと悲しくなる。

◆ サギ師の悲しみも、あるいはこんなものだろうか。だますつもりはなかったんです。あなたが勝手に期待して勝手に幻滅しただけなんです。それもわたしのせいですか? シラサギをサギ師呼ばわりするのはやめよう。地球人というのは勝手なものだ。勝手にシラサギと呼び、勝手にお前はシラサギじゃなかったんだねと残念がる。「残念」という気持ちから騙されたという怒りへの移行は瞬時に行われることだろう。願わくば、憎悪にまで達しないことを。

◆ 今年のセンター試験の国語の問題に「批評の神様」小林秀雄の文章が出題されたというので読んでみた。どれどれ。

◇ 鐔(つば)というものを、ふとした機会から注意して見始めたのは、ここ数年の事だから、未だに合点のいかぬ節もあり、鐔に関する本を読んでみても、人の話しを聞いてみても、いろいろ説があり、不明な点が多いのだが。

◆ 最初の「鐔」という漢字からしてフリガナがなければ読めなかった。以下、合点のいかぬ節もあり、こちらは骨董の趣味はなく、また受験生でもないので、読み飛ばす。早くも最終段落にたどり着いた。

◇先日、伊那にいる知人から、高遠城址の桜を見に来ないかと誘われた。実は、この原稿を書き始めると約束の日が来て了ったので出掛けたのである。高遠には、茅野から杖突(つえつき)峠を越えて行く道がある。峠の下に諏訪神社の上社がある。雪を残した八ヶ岳の方から、冷たい風が吹いて、神社はシンカンとしていた。境内の満開の桜も見る人はなかった。私は、高遠の桜の事や、あそこでは信玄の子供が討ち死にしたから、信玄の事など考えていたが、ふと神殿の後ろの森を見上げた。若芽を点々と出した大木の梢が、青空に網の目のように拡がっていた。その上を、白い鳥の群れが舞っていたが、枝には、近付いて見れば大壺ほどもあるかと思われる鳥の巣が、幾つも幾つもあるのに気付いた。なるほど、これは桜より余程見事だ、と見上げていたが、私には何の鳥やらわからない。社務所に、巫女姿の娘さんが顔を出したので、聞いてみたら、白鷺と五位鷺だと答えた。樹は何の樹だと訊ねたら、あれはただの樹だ、と言って大笑いした。私は飽かず眺めた。そのうちに、白鷺だか五位鷺だか知らないが、一羽が、かなり低く下りて来て、頭上を舞った。両翼は強く張られて、風を捕え、黒い二本の脚は、身体に吸われたように、整然と折れている。嘴は伸びて、堅い空気の層を割る。私は鶴丸透かしの発生に立会う想いがした。

◆ 「杖突峠」という地名にそそられる。あとは、白鷺だか五位鷺だか。それくらいかな、感想は。画像は、白鷺(コサギ)に五位鷺。うしろにはアオサギもいる。水中にはアザラシもいる。天王寺動物園。

◆ もうひとつ。テンの打ち方。

◇ 社務所に、巫女姿の娘さんが顔を出したので、聞いてみたら、白鷺と五位鷺だと答えた。樹は何の樹だと訊ねたら、あれはただの樹だ、と言って大笑いした。

◆ この「白鷺と五位鷺だと答えた」と「あれはただの樹だ、と言って大笑いした」のテンの有無。これは、自分で文章を書いていても、いつも迷う。いや、本当は適当に書いているだけなので一切迷わないが、あとで、適当なことに気がついて、いつも苦笑する。あとのほうは、実際のセリフとして書いているようなので、カギカッコを用いて、「『あれはただの樹だ』と言って大笑いした」としてもいいように思うが、「白鷺と五位鷺だと答えた」のほうは、よく読むと、微妙に間接話法っぽいような気もする。実際に「『白鷺と五位鷺だ』と答えた」のかもしれないし、実際には「あれは白鷺と五位鷺だ」と答えたのを、作者がまとめたのかもしれない。あるいは「『白鷺と五位鷺』だと答えた」かもしれない。どうせなら、こっちを問題にしてくれれば、参考になったのにと思った。もしかして、「参考になったのに、と思った」と書くべきだったろうか?

◆ 懲りもせず、同じ文章を三度引用すると、

◇ ただ、こういうことは、たまにある。私か特にこういう奇妙な偶然にめぐまれているというわけでもなく、誰にでもあることだろう。ふだんならば長い時間の軸の上にちりぢりばらばらに置かれていることごとが、たまたま集まってくる。いくらか長く生きていると、そういうことがときどき起こるように思う。
川上弘美『ゆっくりとさよならをとなえる』(新潮文庫,p.124)

◆ で、前回なにを書こうとしていたかというと、宝くじのハナシ。ちょっと前に、喫茶店でコーヒーを飲んでいると(居酒屋でビールではない)、背後からこんな会話が聞こえてきた。

◇ おまえ、知ってるか。宝くじてのは、ありゃ八百長だ。当たるやつは、最初から決まってんだ。

◆ ちらりと見ると、オヤジがふたり。繰り返すが、居酒屋ではなく喫茶店でのハナシ。相方のおやじは適当に聞き流していたようだったが、苦いコーヒーがさらに苦くなったのではないかと思う。しかし、こういうことを言いたがるひとはたしかに一定の割合でいるもので、けして少なくはないだろう。もちろん、競馬場に行けば、「八百長だ!」と叫んでいるオヤジは山ほどいて、ハタで聞いていると、あまり気分のいいものではないけれど、本人にとっては、一種のストレス発散で、これは仕方がない。自分の馬券が紙くずになったから、「八百長だ!」と言うので、つぎのレースで大穴でも当てれば、叫ぶ内容が「獲った!」に代わるだけのハナシである。それに比べると、宝くじ八百長オヤジは、どうも精神衛生上よろしくない。はっきり言うと、ハタで聞かされただけでも不愉快である。そういうことが言いたいんなら、喫茶店ではなく、宝くじ売り場に行けばいいのにと思う。

◆ 宝くじが八百長かどうかは知らない。しかし、その知らない度合いは、宝くじ八百長オヤジが「宝くじが八百長だ」と知っている度合いと同程度だろう。

◆ ちょっと気になったので、ネットで調べると、出てくるは出てくるは、すっかり質問サイトの定番の質問になってしまっている。あちこちに八百長オヤジが転がっている。キリがないので、ひとりだけ紹介する。

◇ あのね、宝くじはすでにあたる人はきまってるの。年末ジャンボの矢で射る装置にしたってあらかじめ発射タイミングをきめることができるの。ロトもそう。ナンバー書いたボールコロコロもいくらでも操作できるのよ。
oshiete.goo.ne.jp/qa/878968.html

◆ 宝くじ関係のもうひとつの定番テーマが、「宝くじ高額当選したことありますか?」という感じのもので、《発言小町》を見てみると、これも定期的に話題になっているようだ。

◇ 「ジャンボの1等当たりました」「こんにちは、実は私も宝くじが当たりました! 8桁数字!」「○億当たりました。とりあえず夫に電話で報告」「指1本立てて、ゼロが8個付きます」

◆ などなど。ひとつのトピに高額当選者がうじゃうじゃ名のり出てくるのである。これには笑ってしまった。実際に億万長者になったひとも中にはいるのかもしれないが、大半は自称高額当選者だろうと思う。他人などどうでもよい。じつは……。ワタシも当たってしまったんである! いや、じつは、これが書きたかっただけなんだが。証拠をお見せしよう。

◆ これである! 画像は一枚だけだが、銭湯の無料入浴券10枚。なんと、4500円相当! 生まれてこのかた、こんなコトは初めてで、ちょっと自慢してみたくなったわけ。

◆ たまたま話は好きだが、またまた話となると、ちょっとため息。

◇  二ヵ月ほど前に、新聞のエッセイに明石のことを書いた。記憶に深く残っている土地のことを書いてください、と頼まれたのである。明石に住んだ期間は一年にも満たなかったが、好きな土地だった。そのことを書いたのである。
 文章が新聞に掲載される二日前に、明石の友人から手紙がきた。近況報告の手紙である。その次の日には、やはり明石の、違う友人から電話がきた。元気かなと思って、と彼女は言った。何年も電話をしあったことはなかったのだが。虫の知らせじみているなあとは思ったが、さほど気にしなかった。
 ところがその半月ほど後に、実際に明石に行くことになった。明石に住む人を訪ねて、話を聞く必要ができた。その人は、前月までは東京に住んでいた。転勤で明石に引っ越したのである。前月ならば、明石に行くはずはなかった。わずか一ヵ月の違いで明石に行くことになってしまった。
 こうなると、虫の知らせなどという言葉では片づけられないかもしれない。何年も明石のことを思いうかべたことはなかったのに。不思議だ。まことに不思議だ。ただ、こういうことは、たまにある。私か特にこういう奇妙な偶然にめぐまれているというわけでもなく、誰にでもあることだろう。ふだんならば長い時間の軸の上にちりぢりばらばらに置かれていることごとが、たまたま集まってくる。いくらか長く生きていると、そういうことがときどき起こるように思う。

川上弘美『ゆっくりとさよならをとなえる』(新潮文庫,pp.123-124)

◆ と長々と引用をして、さあ、これから、いろいろなことをだらだらと書こうと思っていたのだが、そうもいかなくなった。アタマのなかで井上陽水がこう叫ぶ。

♪ 計画は全部中止だ 楽しみはみんな忘れろ
  嘘じゃないぞ 夕立だぞ
  家に居て黙っているんだ 夏が終るまで

  井上陽水「夕立」(作詞・作曲:井上陽水)

◆ これは夏の歌だった。まったく季節外れで申し訳ない。で、そうもいかなくなった理由でも書くことにする。たいした理由ではない。2年ほど前に、同じ本の同じ箇所を引用して「たまたま話」というハナシを書いたことをすっかり忘れていたのである。書こうとしていた内容はすこし違うけれども、たかだか2年前に書いたことを憶えていないとは。ちょっとため息。

◆ さて、タイトルを「またまた話」か「ちょっとため息」のどちらにするべきか?

◆ 先にも引用したが、ニューヨーク・タイムズの名物コラムニストだったウィリアム・サファイアが若かりし頃、メリルリンチ(Merrill Lynch)の創業者であるチャールズ・メリルに、社名の Merrill と Lynch のあいだにコンマ(,)がないのはどうしてか、とインタビューのついでに尋ねたところ、メリルはこの質問に答えたあとに、こう付け加えたそうだ。

〔William Safire, ON LANGUAGE; In Nine Little Words - New York Times〕 He also advised me not to ask silly questions about commas in a serious interview, because ''nit-picking never gets you anywhere in life.''
〔彼はまた、「重箱の隅をつついてもろくなことにはならん(シラミの卵取りは人生であなたをどこへも連れて行かない)」から、真面目なインタビューの最中にコンマの有無なんてくだらない質問はしないほうがいい、と忠告した。〕

www.nytimes.com/1989/03/26/magazine/on-language-in-nine-little-words.html

◆ 「nit-picking」の「nit」はシラミ(louse)の卵で、だから「nit-picking」は「シラミの卵を取ること」が原義。これが転用されて「あら探し」の意味にもなる。日本語の「虱潰し」と語の成り立ちは同じだが、意味は異なる。

◆ 「nit-picking」で画像検索をすると、毛づくろいをしてもらっているおサルさんの気持ちよさそうな画像がたくさん出てくる。

〔東京の野生ニホンザル観察の手引き〕 よく「ノミ取りをしている」といわれますが、一般的にはサルにノミがつくことはなく、毛についたシラミやその卵などをとっています。
www1.yel.m-net.ne.jp/j-monkey/wa-tebikisyo-1.html

◆ もちろん、シラミは人間にもつくので、たいへんな目にあった経験をお持ちの方も多いだろう(アタマジラミ、コロモジラミ、ケジラミ)。さいきん丸刈りにした女性タレントがいたが、あるいはシラミ対策かもしれない。

◆ 冬にシラミを飼えば、温かくなって、暖房代が浮くかもしれない。

◇ 何でも森の説によれば、体に虱がゐると、必(かならず)ちくちく刺す。刺すからどうしても掻きたくなる。そこで、体中万遍なく刺されると、やはり体中万遍なく掻きたくなる。所が人間と云ふものはよくしたもので、痒い痒いと思つて掻いてゐる中に、自然と掻いた所が、熱を持つたやうに温くなつてくる。そこで温くなつてくれば、睡くなつて来る。睡くなつて来れば、痒いのもわからない。――かう云ふ調子で、虱さへ体に沢山ゐれば、睡(ね)つきもいいし、風もひかない。だからどうしても、虱飼ふべし、狩るべからずと云ふのである。
芥川龍之介「虱」(青空文庫