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◆ 雨が降っている。本のなかでも雨が降っている。だから、アタマのなかでも雨が降っている。松浦寿輝の『花腐し』の冒頭。 ◇ どうしてそんなに濡れるの、肩も背中もずぶ濡れじゃないのとずいぶん昔にほんの二年ほど一緒に暮らしていた女がよく言ったものだった。変なひとねえ、ずっと傘をさしていたのにさあ、いったいどうしてこんなにぐしょぐしょになるのよ、傘のさしかた知らないの。 ◆ 場末のラブホテルの駐車場でひとり雨宿りをしながら、むかしの女を思い出している中年男、栩谷(くたに)。 ◇ あんたは傘のさしかたも知らないのねえという祥子の呆れたような声がまた耳元に響き、そうだ、見よう見真似で人並みになろうと懸命にやって来たつもりで、結局俺は傘のさしかたも箸の持ちかたも覚えずにこんな歳まで来てしまったのかもしれない、こんなどんづまりに行き着いてしまったのかもしれないと栩谷は思う。 ◆ そうだ、見よう見真似で人並みになろうと懸命にやって来たつもりで、結局俺は傘のさしかたも箸の持ちかたも覚えずにこんな歳まで来てしまったのかもしれない、とワタシも思う。傘の差し方、これは考えてみたことがなかったが、箸の持ち方は、(ほとんどのひとにはばれてないと思っているが)自己流だ。狭い歩道での人の避け方もよくわからなかったし(「とっさに右?あるいは左?」)、エスカレーターでの前のひととの間隔の開け方も理解するのに時間がかかった(前のひとの直後の段に乗ってしまって、窮屈な思いをしたことが何度もある)。そういったひとつひとつのことを、見よう見まねで人並みになろうと努力してきたつもりだが、けっきょくのところ、根本的なズレはどうにもならないのだろう。そろそろあきらめようか。 ◆ とっくに雨は止んでいる。降っているのは、本のなかだけ、アタマのなかだけ。でも雨が止んでよかった。とりあえず傘の差し方に悩まずにすむ。 |
◆ 週刊誌の連載エッセーで、劇団ひとりが実家の飼い犬(コロ)の死のハナシを書いていた。 ◇ コロの訃報を聞いて実家に帰り、手を合わせたその日の夜、出張専門のペット火葬業者がきた。トラックの荷台には火葬設備が整っており、神々しい光と音楽に包まれて皆で泣きながら別れを告げる。一時間ほどして、すっかり骨になってしまったコロを見つめる僕ら家族に向かって業者の人が言った。 ◆ ワタシ自身は、できることならあまり他人とズレないように、人並みにふつうに生きたいと思っているけれど、ズレているひとのハナシを聞くのは好きだ。このハナシもおもしろく読んだ。そう書いて、いや待てよ、このハナシを「おもしろく」読むこと自体がズレていたりはしないだろうか、とちょっと不安になった。どうなのだろう? ところで、このコロの葬儀の場で、ズレているのはいったい誰? 劇団ひとりのお母さん? 火葬業者の人? それとも、劇団ひとり自身? やっぱり、一番ズレているのは、こんな文章でさえ気軽に読み飛ばせないワタシかなあ。 |
◆ 雪が降っている。本のなかでは雪が降っている。林芙美子の『放浪記』。十二月×日。 ◇ 雪が降っている。私はこの啄木の歌を偶(ふ)っと思い浮べながら、郷愁のようなものを感じていた。便所の窓を明けると、夕方の門燈(あかり)が薄明るくついていて、むかし信州の山で見たしゃくなげの紅(あか)い花のようで、とても美しかった。 ◆ 「この啄木の歌」というのが、 さいはての駅に下り立ち ◆ で、ズレてないひとならば、当然、この歌の「さいはての駅」とはどこの駅なのか、「さびしき町」とはどこの町なのか、ということに思いをめぐらせることだろう。はやりのご当地検定のひとつに「道産子検定」というのがあるようで、その過去問のひとつに、 ◇ ●第4回上級より
◇ 釧路へ着いたのが八時頃で、驛を出ると、外國の港へでも降りたやうに潮霧(がす)がたちこめてゐた。雨と潮霧で私のメガネはたちまちくもつてしまふ。帶廣から乘り合はせた、轉任の鐵道員の家族が、町を歩いて行つた方が面白いですよと云つて、雨の中を子供を連れた家族達が私を案内してくれた。 ◆ 夕焼けの牛の鳴き声のような霧笛、か。翌日(六月十六日)、 ◇ 山形屋の拂ひを濟ませて道路へ出ると、宿の前がさいはての驛であつた。山形屋へ泊つたこともいゝではありませんかと、いまは肥料倉庫のやうなさいはての舊驛を眼前にして、私は啄木の唄をまるで自らの唄のやうにくちずさんでゐた。 ◆ 1908年に啄木の降り立った釧路駅は、旧駅。 ◇ 〔Wikipedia〕 1917年(大正6年)12月1日 - 現在地に移転、貨物の取扱を廃止(旅客駅となる)。旧駅は貨物駅の浜釧路駅となる。 ◆ 真夏の東京で、もしかしたら少しはこの灼熱も和らぐのではないかと、林芙美子に倣ってワタシも「雪の頃のすがれたような風景」を「眼の裏」にイメージしてみようとしたが、能力不足でいっこうに涼しくはならない。どうしたものか? 真冬の南半球にでも行くしかないか? そうしよう。しかし、 ◇ 〔朝日新聞〕 冬の南半球。南米各地では、寒波で少なくとも200人以上の死者が出ている。ボリビアでは過去に降雪記録がない地域で雪が降り、チリでは各地で吹雪による停電で交通が止まり、町が孤立した。アルゼンチンでは寒さで少なくとも14人が死亡、ホームレスの人を屋内に収容するなどの対策に追われ、ガス需要が増えたため炭で料理するレストランもあるという。ペルーでも、標高3千メートル以上の地域で零下24度を記録し、政府が緊急事態宣言を出した。
◆ ところで、フエゴ島は過去に流刑地であった歴史があり、島の中心都市ウシュアイアも囚人たちの労働によって建設された。というようなコトを知ると、思わず口ずさんでしまうのは、 ♪ 遥か 遥か彼方にゃ オホーツク ◆ となると、さっきの道産子検定に戻って、答えは、Dの網走駅でどうだろう?
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◇ 「豆は、お豆のままでイイですか?」と、コーヒー豆買うときに言われて、なんだかおかしかった^^ ◆ とブログに書いているひとがいて、「なんだかおかしかった」理由についてはふれていないので、想像するしかないのだが、たぶん「お豆」という言い方が「なんだかおかしかった」のではないかと思う。
◇ 〔かんでんe-Patio〕 京都や大阪では豆のことを親しみを込めて「お豆さん」と呼びます。古くから私たちの生活と関わってきたお豆さんには植物の命がぎゅっと詰まっています。
◇ 〔Webマガジン幻冬舎:甲斐かずえ「おいしい珈琲をごいっしょに」第11回〕 お豆の販売をする時には、必ず「豆のままでいいですか? 粉にしますか?」と聞いています。その時のお客さんはこの質問に「んっ?」と一瞬ためらいながらも、「いやぁ、実はこの前、人から頂いた珈琲はあまり良くなかったみたいで、お湯をかけても色が出ないんですよ」と言うのです。〔中略〕 よくよく聞くと、その方は、「豆のままの状態にお湯をかけていた」のでした。 ◆ 敬語の使い方にかんして、ビールやコーヒーなどの外来語に「お」をつけて「おビール」「おコーヒー」というのは間違い、などということがよく言われる。もしかすると、コーヒー豆を買うときに「お豆」と言われると、「おコーヒー」と言われたのと同じ違和感を感じるのかも。外来語そのものでなくても、外来のものに「お」がついているのがちょっと引っかかるのかも。そんな気もする。
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◆ 腰が痛いので、パソコンのディスプレイを台から下ろして床に置き、寝そべりながら画面を見ている。ついでに、同じ姿勢でビールを飲んでいる。寝そべっているのは、ワタシだけではない。式根島の民宿のジイさんも寝そべっているらしい。 ◇ 壁ぎわに民宿のジイさんが片肘ついて寝ころんでいた。昨日とまったく同じ姿勢である。当人の言い分によると、人間にとってこれが一番ラクな姿勢で、若いころからこんなふうにしてきた。夜はいつも寝そべっている。酒もこのままチビチビやる。 ◆ 寝そべっているのは、式根島の民宿のジイさんばかりではない。蓮實重彦によると、夏目漱石の小説の主人公はみな寝そべっているらしい。 ◇ 「生憎主人はこの天に関して頗る猫に近い性分」で、「昼寝は吾輩に劣らぬ位やる」と話者たる猫を慨嘆せしめる苦沙彌の午睡癖いらい、「医者は探りを入れた跡で、手術台の上から津田を下した」という冒頭の一行が全篇の風土を決定している絶筆『明暗』の療養生活にいたるまで、漱石の小説のほとんどは、きまって、横臥の姿勢をまもる人物のまわりに物語を構築するという一貫した構造におさまっている。『それから』の導入部に描かれている目醒めの瞬間、あるいは『門』の始まりに見られる日当りのよい縁側での昼寝の光景、等々と逐一数えたてるまでもなく、あまたの漱石的「存在」たちは、まるでそうしながら主人公たる確かな資格を準備しているかのごとく、いたるところにごろりと身を横たえてしまう。 ◆ でも苦沙弥先生は架空の存在だから、実在の人物で寝そべっているのが似合いそうなひとといえば、先月亡くなった森毅先生だろうか。 ◇ 〔産経新聞大阪本社版夕刊:関西笑談(2002年5月24日)〕 森 〔……〕 僕は不器用やから、実験なんかするとガスをつけっ放しにするから危なっかしくてね。一番安全なのが数学なのよ。ガス管爆発せえへんから。数学は寝そべってたらいいからね。ものぐさの勉強好きが行くのが理学部やね。 ◇ 実際に氏の講義を受けた人から聴いたことがあるのだが「XXXX(西洋の哲学者だったか?失念)は寝て話したんや」と言いながら、実際に壇上に寝っころがって講義したりしていたという。 ◆ どこまでホントかしらないが、寝そべっている姿がサマになるひとはそうはいないだろう。 ◇ 数学者で社会問題にも独特な視点で論評し、「よろず評論家」として活躍した京都大名誉教授の森毅(もり・つよし)さんが24日、敗血症性ショックのため大阪府内の病院で死去した。82歳だった。2009年2月、自宅で料理中に重いやけどを負って入院していた。葬儀は行わない。〔中略〕 09年2月27日、1人でフライパンを使って昼食を作っていたところ、コンロの火が服に燃え移り、体全体の30%以上に重いやけどを負って大阪府内の病院に搬送された。そのまま入院し、治療を続けていた。 ◆ この訃報を読むと、「実験なんかするとガスをつけっ放しにするから危なっかしくてね」と、自らの不器用を自覚して危険のない数学を専攻するにいたった若きの日の判断が、ほら正しかったやろ、と自らの最期に証明したようでもあって、悲しくも可笑しい。あの世では、好きなだけ寝そべっているだろうか。 ◆ いや、寝そべっていると腰は楽だが、首が痛い。とかくこの世はままならぬ。 |
◇ 吾輩は我慢に我慢を重ねて、ようやく一杯のビールを飲み干した時、妙な現象が起った。始めは舌がぴりぴりして、口中が外部から圧迫されるように苦しかったのが、飲むに従ってようやく楽になって、一杯目を片付ける時分には別段骨も折れなくなった。もう大丈夫と二杯目は難なくやっつけた。ついでに盆の上にこぼれたのも拭うがごとく腹内に収めた。
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◇ 〔朝日新聞〕 大阪市西区で幼い姉弟が自宅に置き去りにされ死亡し、母親の****容疑者(23)が死体遺棄容疑で逮捕された事件は6日未明に遺体発見から1週間となる。現場マンション前には連日100人以上が訪れ、手を合わせている。〔中略〕 ジュース、お菓子、おにぎり、おもちゃ、絵本、子ども服、「気付かずにごめんなさい」と書いた手紙……。飲み物の多くはストローが挿され、食べ物の箱やふたは開けられている。「幼い子でも飲みやすいように」との思いからだ。マンション前を訪れた人は3日に約150人、4日はさらに増え、5日も正午までに30人以上を数えた。
◆ このニュース記事が気になっていたので、とりあえず記事にしておこうと思って、さいしょに考えたのが、小林秀雄の「人形」というエッセーと並べてみるということだった。作者が急行列車の食堂車のテーブルで相席することになった老夫婦。妻は大きな人形を抱えている。人形は、「背広を着、ネクタイをしめ、外套を羽織って、外套と同じ縞柄の鳥打帽子を被っていた」。 ◇ 妻は、はこばれたスープを一匙すくっては、まず人形の口元に持って行き、自分の口に入れる。それを繰返している。 ◆ 飲み物にストローを挿すという行為は、スプーンで人形の口元にスープを運ぶ老婦人の行為と関連がないわけではないだろう。見えない人形。でも、すっきりしないし、とんでもなくあさはかな理解の仕方であるような気がして、記事にするのをやめにした。
◆ この光景を見て、気になっていたニュース記事のストローが挿された飲み物のハナシをまた思い出した。それで、どうせまとまりのない記事を書くのなら、人形のハナシなんかよりは、こちらの金魚すくいをする少女の浴衣の袂のハナシのほうが、たんじゅんでふさわしいような気になった。母親であるというのは偉大なことだ、とあいかわらずほとんど理解できないながらも、そうつぶやきなくなった。 |