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◆ まぶたは、誤解している方もおられるかもしれないので念のために言っておくが、ブタではない。フタである。目にはフタ(蓋)がついているのである。それがまぶたである。漢字で書けば目蓋(あるいは瞼)となる。では、耳はどうか。耳にはフタはついていない。しかし耳たぶというものがあって、あれはフタではないのかと主張される方もおられるかしれないが、残念ながらあれはフタではない。もちろんブタでもない。あれはタブである。フタとタブでは大違いである。タブがなにかということについては皆さんご存知であろうから説明を省略する。というわけなのであるが、実は「耳にもフタを」をスローガンとする一派があって、まぶたのようなものを耳にも作れないかと日夜研究を続けているというハナシを聞いたことがある。せひとも成功させてほしい。 |
◆ 以前、「リヤカーとらさん」のハナシを書いた(2004/02/11)。 ![]() ![]() ◇ 千束通りに入ったとき、そこで、なにやら奇妙なリヤカーを引く老人に出くわした。リヤカーは縁日の屋台さながら、さまざまな玩具で満載だ。つい惹かれて近寄ってみると、「全国巡り リヤカーとらさん 78才」と書かれた紙製の看板があり、また本人が掲載された全国の地方紙が所狭しと貼り付けてある。車の往来が少なくなった時刻ととはいえ、バス通りには変わりがない。そんな千束通りの車道をとらさんは黙々とリヤカーを引いている。 ◆ 全国を行脚しているようだから、またいつかどこかでばったり出会うこともあるだろう、と思っていたのだが…… ◇ リヤカーで全国を回りながら駄菓子やおもちゃなどを売り歩き「リヤカー寅さん」として親しまれていた、長野県中野市の川橋正治さん(78)が2日午後2時50分ごろ、広島県安浦町三津口の国道185号で乗用車に追突され、病院で約7時間後に死亡した。 ◆ 追突したのは、「同町の主婦(30)の乗用車」だそうだ。ワタシは、この事故のことを、4月4日の『日刊スポーツ』の社会欄で知った。上の記事は《日刊スポーツ九州》からの引用だが、同様の内容だったと思う。どうしてこんなことが起こるのだろう? たまたま街で見かけた人のことが気にかかり、知り合いでもないのに記憶に残り、その記憶が薄れぬうちに、たまたま読んだ新聞の小さな記事でその人の死亡のニュースを目にしてしまう。どうしてだろう? 知らないでよかったことを、たまたま知ってしまって、知ってしまった以上は、どうしてだがよくわからないけれど、それをまったく無視することができずに、かといって、知り合いでもない人の死を、自分のなかでどこにどのように整理していいかもわからずに、うろたえてしまう。 ◆ 《岩手日報》のサイトで、詳しい「リヤカーとらさん」の記事(2000年9月26日)を見つけた。 ◇ リヤカーを改造した屋台に駄菓子やおもちゃをいっぱいに積み全国を巡回している長野県中野市の川橋正治さん(74)が23日、盛岡市を訪れた。屋台での全都道府県の行商を始めてから約4年9カ月、本県が最後の47番目となった。行商中に「リヤカーの寅(とら)さん」との愛称が付いた川橋さんは、「一つの夢をかなえたが多くの人情に触れられる旅は楽しい」と、これからも行商への意欲を燃やしている。 ◆ ……。 ◇ 中野市内の親せきの男性(71)は「広島にいたとは知らなかった。たまに帰ってきて会った際には『仙人みたいになりたい』なんて言っていた」と惜しんだ。 ◆ 「仙人みたいになりたい」。なんと彼らしい言葉だろう、と思わずにはいられない。遠くからご冥福をお祈りします。 |
◆ 「リヤカーとらさん」のことを調べている途中で、「収集車に巻き込まれ? 高齢男性死亡」という記事が目に留まった。とらさんが交通事故で死亡した次の日のことである。 ◇ 〔日刊スポーツ〕 3日午前4時すぎ、大阪市城東区鴫野西の城東中央病院で、入院中の無職男性(85=同市旭区)が行方不明になり、約40分後、同病院のごみを回収した収集車内から遺体で見つかった。 ◆ 家に帰ろうとしたのだろうか? なんとも痛ましい事件で、言葉も出ない。 |
◆ 「バカは死んでも治らない」と「バカは死ぬまで治らない」とでは、後者のほうがはるかに文学的である、と考えるのはワタシだけであろうか? などということを考えるのはワタシだけであろう。 ◇ 『馬鹿は死んでも治らない』か『馬鹿は死ぬまで治らない』か ◇ 『バカは死ぬまで治らない』というけれど、基本的には『バカは死んでも治らない』といった方が当たってるような気がします。ただ、観点の違いなんじゃないの? つまり、『バカ』という性質そのものは死ぬことによって消えてしまうわけではないけれど、周りからの『バカ』という評価は時間とともに消えちゃうでしょ。『死人の悪口を言うのは止めよう』ってコトで。だから『バカは死ぬまで治らない』、人の噂も…的な発想。何じゃ、それ、ひどいわ…。 ◆ これらふたつの文章、ワタシにはさっぱり理解できない。死んだら理解できるだろうか? |
◆ 大都会には、スクランブル交差点というものがあって、これがスクランブルエッグといかなる関係にあるのかは知らないけれど、少なくとも、おいしくはない。これをうまく渡るには、少々のコツが必要である。そのコツさえつかめば恐れるべきものではまったくない。ワタシはそのコツを習得していないのだが。 ◇ 全国395カ所のスクランブル交差点、その第一号は、熊本から。 |
◆ 便座にしゃがんで、『週刊文春』5月20日号をパラパラ読んだ。 ◇ 他のご家庭と比較して、うちってヘンかなって思うんです。 ◆ これは「食卓の記憶」というリレー式エッセーコーナーに登場した野田聖子(衆議院議員)の文章の冒頭。これって、あたし、なんだか宇能鴻一郎の官能小説みたい、と思うんです。 ◇ 私は、食べることにはあまり関心がない。執着みたいなものもあまりない。 ◆ これは「文春図書館」の「今週の三冊」で、筒井ともみ著『食べる女』を書評している小泉今日子の文章の冒頭。それにしても、キョンキョンが書評をしてるとは、びっくりだあ! でも、「私は、」で読点を打ってあるのは、なんだか小学生の作文みたい。 ◇ 日本政府は救出に関わっていないのだから、「救出費用」は請求できないはずだ。頼みもしないチャーター機や、外交官はいつもあんな贅沢な医療サービスを受けているのかとため息がでるようなチョー豪勢なドバイの病院の診療費など、どれも政府が救出した振りをするための宣伝広告費ではないか。 / 救出費用請求を最初に言い出したのは、公明党の冬柴幹事長。さすが、信ずる者しか救わない宗教政党、〔・・・・・・〕 ◆ これは、「私の読書日記」での米原万里の文章。見事な啖呵の切りっぷり。さすがは江戸っ子だねえ。思わず溜飲が下がる。 |
◆ 村上春樹の『羊をめぐる冒険』(講談社文庫)に、こんな会話がある。 ◇ 「ねえ」と僕は運転手に訊ねてみた。「円周率は知ってる?」 ◆ 「ちょっとした覚え方」とは語呂合わせのことだろう。さて、どんな語呂合わせなのかが気になって、調べてみた。 ◇ 産医師異国に向こう、産後厄無く産婦御社に、虫散々闇に鳴く ◆ 細かい異同はさておき、これがもっとも流布している語呂合わせのようである。これで、30桁(3.1415926535 8979323846 2643383279)。これには続きのあるヴァージョンもあって、39桁やら、50桁やら、はては1000桁なんてのもあるらしい。柴田昭彦さんの《円周率ものがたり》にさまざまな語呂合わせが紹介されている。が、32桁というのはちょっと見当たらなかった。30桁まで語呂合わせで覚えて、あとの2桁はそのままの数字で暗記したのかもしれない。 ◆ この語呂合わせというやつ、歴史の年号や数学の平方根の暗記など、学生時代お世話になった方も多いと思われるけれども、ワタシはほとんど使ったことがない。数字をなんの関係もない言葉に変換するということに違和感があったし、また言葉から数字への再変換がすんなりいくとは思えなかった。年号なんてのはたかだか4桁(実質的には3桁)の数字にすぎないではないか? 暗記には自信があったから。だから、 ◇ この我々には造作もない携帯電話番号の記憶ですが、欧米人たちは一体この番号をいかにして自らの脳細胞に記憶させているのでしょう。もし、ゼロ、ナイン、ゼロ・・・などと仰々しく発音して記憶せざるを得ないといたしましたら、私は英語圏に住む人々がたいそう不憫でなりません。 / そう言えば銀行のATM機の前で、しばし呆然と立ちつくしている外国人をよく見かけますが、やはり暗証番号が語呂合わせで記憶できない弊害によるものなのでしょう。そう、日本人の記憶力の良さというものは、この語呂合わせ文化の隆盛と決して無関係では無いのです。 ◆ なんて文章を読むと、「?」と思ってしまう。そもそもATMの前で「しばし呆然と立ちつくしている外国人」など一度も見たことがない。銀行のカードの暗証番号といえば、たった4桁ではないか? みなさん、暗証番号を語呂合わせで覚えたりしてるんでしょうか? ◆ 上の引用でもうひとつ気になったのは、「もし、ゼロ、ナイン、ゼロ・・・などと仰々しく発音して記憶せざるを得ないといたしましたら」というところで、どうして一度発音しなきゃいけないのかが、ワタシにはわからない。書いてある数字としばらく「にらめっこ」してりゃいいと思うんですがね。少なくとも、ワタシには音よりも画像(イメージ)で覚える方がはるかに楽なのだけれど。 ◆ 数字は数字で覚えたい。数字には数字独自の魅力があるから。野球選手の背番号を語呂合わせで覚えるひとはいないだろう。とにかく、「富士山麓オウム鳴く」とか「鳴くよウグイス平安京」とかいう、わけのわからない言葉を覚えさせられることだけは御免こうむりたい。といって、そんな機会も、もうないだろうけど。 |
◆ いろはにほへと・・・。色は匂へど・・・。「うん? 色がどうして匂うのか? 変ではないか?」と考えるひとがいても、おかしくはない(かもしれない)。じじつ、 ◇ 昔の人は色ににおいを見て、においに色を見ていたのかと、さまざまな想像をめぐらしていたのだが、高校時代、古典の授業で、「みずみずしい若さは、今を盛りに咲く花のように匂うけれど――」という意味だと知った。 / しかし、色はどこに行ったのか、疑問が膨れていった。 ◆ 疑問が膨らんだ末に、いまでは立派な嗅覚の研究者。そんなこともあるだろう。「しかし、色はどこに行ったのか」。むろん、どこへも行きはしない。たとえば、小学館の『国語大辞典』で「匂う」の項を引くと、 ◇ 本来は視覚に関する語で、色がきわだつ、または美しく映える。さらに、何やら発散するもの、ただよい出るものが感じ取られるの意。 ◆ もともと、色は「匂う」ものなのである。いまでも、「美しい花が咲き匂う」などと言う(言わないか?)。とはいえ、視覚から嗅覚への転換には、もちろん理由がないわけではない(ないどころではない)。 ◇ <山本〔健吉〕> 〔・・・〕「紅にほふ」とか「紫草(むらさき)のにほへる妹を」とか言うわけだから、もとは派手に浮立ったような色のことを「匂ふ」と言ったのだ。それがいつのまにか嗅覚の匂いになってしまった。 / <安東〔次男〕> それはむしろ逆じゃないだろうか。染料は実際に匂うから。感覚の起こりは染めた着物の匂いで、それが視覚に置きかえられて、山本さんの言うような色彩感覚としての「匂ふ」に発達したのでは。もし染料の原料が鉱物であったら、ああいう感覚は発達しなかっただろう。 / <大岡〔信〕> それは考えられる。「匂ふ」は語源的にもちろん色彩感覚だとは思うが、ムラサキグサの根というのは猛烈な揮発性の染料らしく、染めはじめは強烈に匂うらしい。だから、言葉以前の感覚として、安東説のように考えることができるのではないかと思う。 ◆ 上で挙げられている「紫草の」は、額田王の有名な「茜草(あかね)さす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」に大海皇太子が応えて歌った歌「紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも」で、これまた有名。万葉集にあり。 |
◆ 「蓼食う虫も好き好き」というコトワザがあるが、その反対はなんだろう? 「蓼食う虫も嫌い嫌い」だろうか? それとも「蓼食わない虫も好き好き」だろうか? と、まあ、そんなことはどうでもよいが、好きなものがひとそれぞれであるように、嫌いなものもひとそれぞれである。嫌いなものと怖いものとは少し違うかもしれないが、 ◇ 小さいときに、経験したことってトラウマってやつですか、記憶に残りますよね。私、誰にも言ってませんが、“こいのぼり怖いんです。小さい頃、近所のおばちゃんが、「ほら、あのこいのぼり見てごらん、おっきな口だろ。あんたを食べちゃうよ。」って言われて、もう怖くて、怖くて・・・いまだに5月大嫌いです。 ◆ なるほど。それもそうかもしれない。 ◇ わたしは世界地図がこわいです。普通の絵はこわくないのですが、海底などの深さがリアルに表示されているカラー地図は、腹の底から這い上ってくるような恐怖を感じます。小さい頃は月面の拡大写真もとてもこわかった。 ◆ なるほど。それもそうかもしれない。 ◇ 私の怖いものと言えば、「カーテンの隙間」だ。子どもの頃、TVドラマかなにかで映った、カーテンの隙間からじーっとこちらを睨んでいる怪物の目が異様に怖くて、泣きだしたことがあった。それ以来、カーテンの隙間が怖い。今でも、隙間が開いていると、気になって仕方がないのだ。 ◆ これは少し平凡か。ワタシにも理解できるから。 ◇ 私の怖いものは自分の美貌と才能です。町内でも評判の美貌と才能です。もしかしたら、早死にしてしまうのではないかと心配です。 ◆ うん、これはたしかにコワイ。と、まあ、やっぱり人それぞれなわけです。なんとなれば、饅頭がコワイって人もいるぐらいだから。 |
◆ 先日「写真が好きなんですね、と云われても返答に困る」と書いたが、わたしも写真が好きなんです、とつけ加えられると、さらに困る。あなたの好きな写真とワタシの好きな写真が、そもそも同じかどうか。いやいや写真全般が好きなんですよ、ということかもしれないが、そんなことが可能かどうか。 ◆ 「趣味:音楽、スポーツ、読書」。これではなにもわからない。たとえば、「色」が好きです、ということが会話として成立するだろうか。なかにはモノクロの世界が好きという人もいるかもしれないが、世の中には「色」があふれており、色が嫌いだからといって色を消すことはできない。色そのものは好き嫌いの対象であるべきではないと思う。 ◆ では、花はどうか。花全般が嫌いという人はあまりいないかもしれない。花全般が好きという人ならたくさんいそうだが、たいていはバラが好きとかサクラが好きといった個別のハナシになるのではないか。では、虫は? 山は? 人は? ◆ このように考えて、わけがわからなくなる・・・ |
◆ goo の新着日記を見ていたら、こんなのがあった。
◆ 背景が黒っぽいサイトだったので、星座かと思ったよ。なんだかクマみたいだし。なんの星座かと思ったら、なんと「土下座」だった。思わず笑っちゃいました。 |
◆ たまたま先日、この「Memorandum」で、村上春樹の文章を引用したら、そのことでこのページを訪れてくれた方があった。そういうこともあって、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』(新潮文庫)を読み返していたら、また引用したくなった箇所があったので、引用する。 ◇ 僕は世の中に存在する数多くのものを嫌い、そちらの方でも僕を嫌っているみたいだけど、中には気に入っているものもあるし、気に入っているものはとても気に入っているんです。向うが僕のことを気に入っているかどうかには関係なくです。 ◆ そういえば、ワタシも「Profile」にこんなことを書いていた(のを思い出した)。 ◇ 「好きなもの・嫌いなものリスト」でも作ろうかと思ったけれど、嫌いなものばかり頭に浮かぶので、とりあえず断念(といいつつ密かに作成中?)。 ◆ いま考えてみても、たいしたリストはできそうにもないので、これはしばらく実現しそうにない。その代わりといってはなんだが、読んだ本からそんなリストを作ってみるのはおもしろいかもしれない。で、その見本。まずは、ふたたび『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』から。 ◇ だいたい私は昔から浴室に下着やストッキングを干されるというのがあまり好きではない。どうしてかときかれても困るけれど、とにかく好きではないのだ。 ◆ これには同意見。どうしてかときかれても困るので(本当はべつに困らないが)、つぎ。 ◇ むかしから同窓会といったものが苦手だった。何十度となく案内をもらったが、とうとう一度も出なかった。たまたま同じ年に同じ学校にいたというだけで旧交をあたため合うのはへんだと思うからだし、何の必然性もないのに集まってワイワイいうのはコッケイなような気がするからだ。同窓の縁でむつみ合うのは、ぬくもりの残ったトイレに腰かけるような不快感がある。 ◆ これはどうだろう。同窓会にはしばらく出ていないけど、やってるのかな? さて、つぎ、はまだない。 |
◇ 著名な政治家すら、もっぱら司馬遼太郎などの小説を愛読書とし、その知識で歴史を語りがちである。尊敬する人物が坂本龍馬だという人のほとんどは、『竜馬がゆく』の主人公のことを語っているにすぎないし、ユニークな用心棒集団に過ぎない「新撰組」が青春のヒーローや英雄のように扱われるのもばかげている。 ◆ これを書いたのは元通産省の役人で、日本の政治家にたいする苦々しい思いが透けて見えるような気がしないでもないが、これには同感である。政治家たちは、ことのほか司馬遼太郎がお気に入りなようで、個人サイトのプロフィールから愛読書をいくつか拾ってみると、 ◇ 〔静岡県議会議員:1967〕 司馬遼太郎全般(政治を志すものにとっての教科書) 〔岡山県議会議員:1968〕 司馬遼太郎もの 中でも「国盗り物語」「世に棲む日々」 〔衆議院議員(女):1953〕 司馬遼太郎:「この国のかたち」「21世紀に生きる君たちへ」 〔参議院議員:1949〕 司馬遼太郎『街道を行く』 〔衆議院議員:1950〕 三国志(吉川英治 著)、竜馬がゆく(司馬遼太郎 著) 〔衆議院議員:1939〕 「故郷忘じがたく候」、「坂の上の雲」等、司馬遼太郎作品 ◆ この最後のひとは、経歴に「京都大学農学部卒業(応援団長)」とある。なんなんだろう、この「応援団長」ってのは! それはさておき、司馬遼太郎を愛読書とするのは、自民党の議員に多い印象があるが(上のリストでは政党名を入れ忘れた)、そんなことはないのかもしれない。 ◇ 小泉も菅も、主要な愛読書に司馬遼太郎をあげている。奇しくもふたりは『坂の上の雲』を一番にあげ、小泉は東郷平八郎と秋山好古、真之兄弟、菅は児玉源太郎を贔屓(ひいき)にしていると言う。菅は今回の選挙に立候補した長男に、源太郎と命名したほどだ。 ◆ おそらく、政治家と並んで、企業の社長やなんかも司馬遼太郎ファンが多いと思うが、面倒なので調べるのは止めておく。これはなにかというと、おそらく自分を司馬作品の主人公に重ね合わせているのであって、オメデタイというほかない。小説の読みかたとしては、下の下であると思うが、当人たちには余計なお世話であろう。 ◆ ワタシはといえば、司馬遼太郎はキライではなくて、といっても小説はあまり読んだことはないが、『街道をゆく』はよく読んだ。 |