◆ いろはにほへと・・・。色は匂へど・・・。「うん? 色がどうして匂うのか? 変ではないか?」と考えるひとがいても、おかしくはない(かもしれない)。じじつ、 ◇ 昔の人は色ににおいを見て、においに色を見ていたのかと、さまざまな想像をめぐらしていたのだが、高校時代、古典の授業で、「みずみずしい若さは、今を盛りに咲く花のように匂うけれど――」という意味だと知った。 / しかし、色はどこに行ったのか、疑問が膨れていった。 ◆ 疑問が膨らんだ末に、いまでは立派な嗅覚の研究者。そんなこともあるだろう。「しかし、色はどこに行ったのか」。むろん、どこへも行きはしない。たとえば、小学館の『国語大辞典』で「匂う」の項を引くと、 ◇ 本来は視覚に関する語で、色がきわだつ、または美しく映える。さらに、何やら発散するもの、ただよい出るものが感じ取られるの意。 ◆ もともと、色は「匂う」ものなのである。いまでも、「美しい花が咲き匂う」などと言う(言わないか?)。とはいえ、視覚から嗅覚への転換には、もちろん理由がないわけではない(ないどころではない)。 ◇ <山本〔健吉〕> 〔・・・〕「紅にほふ」とか「紫草(むらさき)のにほへる妹を」とか言うわけだから、もとは派手に浮立ったような色のことを「匂ふ」と言ったのだ。それがいつのまにか嗅覚の匂いになってしまった。 / <安東〔次男〕> それはむしろ逆じゃないだろうか。染料は実際に匂うから。感覚の起こりは染めた着物の匂いで、それが視覚に置きかえられて、山本さんの言うような色彩感覚としての「匂ふ」に発達したのでは。もし染料の原料が鉱物であったら、ああいう感覚は発達しなかっただろう。 / <大岡〔信〕> それは考えられる。「匂ふ」は語源的にもちろん色彩感覚だとは思うが、ムラサキグサの根というのは猛烈な揮発性の染料らしく、染めはじめは強烈に匂うらしい。だから、言葉以前の感覚として、安東説のように考えることができるのではないかと思う。 ◆ 上で挙げられている「紫草の」は、額田王の有名な「茜草(あかね)さす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」に大海皇太子が応えて歌った歌「紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも」で、これまた有名。万葉集にあり。 |