MEMORANDUM
2006年06月


◆ エッセイを読むのが好きだ(そう書きつけて、すぐに補足したくなる)。だが、エッセイストのではない。続けると、エッセイストのではないエッセイを読むのが好きだ。

◆ エッセーを書くみなはみなエッセイストかもしれないが、また詩を書くひとはみな詩人かもしれないが、また小説を書くひとはみな小説家かもしれないが、また野球をするひとはみな野球選手かもしれないが、好きではないのは、エッセイを書くのを本業としている職業的エッセイストで、好きなのは、エッセイを書くのを本業としていない、つまりほかに本業をもっているひとが書いたエッセイ。エッセイを書くのを本業としていなくても、自らエッセイストと名乗るひとは、自称アーチストと同じで気持ちが悪い。「エセ(似非)イスト」。

◆ 好きだ、と書き始めた文章が、途中で 「嫌い」 になってしまって、なにが書きたかったのかわからなくなる。

◆ 最近はネットで、学生のレポートが読めたりもする。たとえば、札幌学院大学の地学のレポートが公開されていて、形式はレポートだが、内容はエッセイだ。小学校で書かされた作文に似ていないこともない。とてもおもしろい。

2003年度後期第1回レポート:「石ころ」の思い出
2004年度後期第1回レポート:「石ころ」にまつわる話

◆ こんなのが、読むのが好きなエッセイ。

◆ ワタシの 「書く」 ものには他人の文章の引用が多い。多いどころか、ほとんど全部が引用のこともままある。こうなるともはや、ワタシが 「書いた」 とは言いづらいかもしれない。それでも、引用とは引き写すことなのだから、「書いている」 のは、やはりワタシである。

◆ 引用が多いことの理由はいろいろあって、いちいち挙げるのも面倒だから、さしあたっては引用が好きだということにしておきたい。

◆ ネット上の文章を引用するのに、手間はない。コピー&ペースト。これで終わり。楽ではあるが、これは少々つまらない。こんなことばかりしていると、どんどんアタマが退化していきそうで、こわい。だから、たまには出版物から一字一字引き写してみる。記憶できるだけの分量をアタマに入力して、それをキーボードで再現(出力)する。間違いがあれば、訂正する。それをしばらく繰り返すと、その作者の文章のリズム(句読点の打ち方その他)や漢字とカナとの使い分けといった点にも慣れて、間違いが少なくなる。入力&出力の作業がはかどるようになる。そのうち、この文章を書いているのはワタシだ、という気にもなる。意外に楽しい。以下、その練習。テキストは松浦寿輝のエッセイ。携帯電話のハナシ。

◇ [……] この頃は音ではなく振動によって通話の着信を知らせることもできるようになっているんですよと教えられた。結構なことである。だが、人前で虚空に向かって話したり笑ったりお辞儀をしたりしている人の阿呆面を見物させられることの不快というものがあり、こればかりは、どんなデクノロジーをもってしても如何ともしようがあるまい。本来、こうした阿呆面をプライヴェート空間に隔離するための仕掛けとしてあったものが公衆電話ボックスだったのであり、現在起きているのは、こうした隔離による自他双方のための精神衛生よりも、いつでもどこでも他人と連絡が取れることの便利の方を優先するという合意が人々の間に形成されつつあるという出来事であるからだ。
松浦寿輝 『散歩のあいまにこんなことを考えていた』 (文藝春秋, p.215)

◇ 人前で、しかもその自分の回りの人々を傲然と無視しつつ、遠方の相手に向かって大声で話しかけているとき、たぶんあれら 「携帯電話の人々」 は、自分の 「社会的な重要性」 をひけらかしているのではあるまいか。それが意識的か無意識的かはともかくとして、あれは、必要に駆られてというより、半ば以上は演劇的パフォーマンスなのではないかとわたしは疑っている。きっと彼らは、恥ずかしいというよりはむしろ晴れがましいと思っているのだろう。
Ibid., p.215-216

◇ わたしは電話が嫌いである。そもそも他人と喋りたいと思うこと自体滅多になく、のみならずまた自分の 「忙しさ」 だの 「社会的な重要性」 だのを誇ろうという気持も皆無である。そうした偏屈な人間として言わせてもらうならば、携帯電話を四六時中持ち歩き、いつでもどこでもコミュニケーションに向かって開かれた態勢を保ちつづけている人々というのは、年がら年中世界に向かって発情しているようで何だか気持が悪い。
Ibid., p.216

◇ テクノロジーは人々のほんのささやかな欲望を、その当人すら気づいていないうちにめざとく発見し、先回りして満たしてくれようと待ち構えている。それは痒いところに手の届くように小まめに世話を焼いてくれる気の良い召使なのであり、その行き届いたケアに馴れていった挙句のはて、わたしたちは今や公衆電話のありかを捜すだけの時間すら、どうにももどかしくて待ちきれなくなってしまったのである。
Ibid., p.217

◇ 喋りたいという気持が起こったか起こらないかのうちに、たちどころに携帯電話を取り出して相手を呼び出せるということ。この 「安易さ」 ―― それは、手紙から電話へ、さらにポケベルやPHSへというコミュニケーション・ツールの進化によって増大する一方の 「安易さ」 だ ―― によって、コミュニケーションをめぐるわたしたちの欲望のボルテージはむしろ著しく下がってきてはいはしまいか。唐突な例を出すようだが、宮沢賢治のあの傑作童話 『銀河鉄道の夜』 の主人公の二人の少年ジョバンニとカムパネルラが、もし携帯電話を持っていていつでも会話ができたとしたらどうだろう。距離を隔てて二人が互いに相手に投げかけ合う激しい気持と、その気持のすれ違いの上に成立しているあの悲痛な物語は、その無類な美しさともども、いっさいが崩壊するほかないではないか。
Ibid., p.217-218

◆ 引き写し作業の難度は5段階評価で 「やや難しい」 といったところか。

◆ 今日の引越のお客さんがなんともいえず薄幸そうな女性で、といってもこちらの一方的な印象だから、もしかしたらたいへん幸せであるかもしれないのだが、とにかく薄幸そうに見えるひとというのはいるものだ。本人はなにも悪くないどころか、人並み以上に努力もし、にもかかわらず、あるいはそのせいで、他人からは疎まれてしまう、そんなタイプのひとが世の中にはいるものだ。いや、現実にはいないのかもしれないが、すくなくとも類型化されたイメージの世界には確固として存在している。たとえば流行歌のなかに。演歌には無数にいそうだから、これは除外して、たとえば、ばんばひろふみの「SACHIKO」はどうか。

♪ 幸せを話したら 五分あれば足りる
  不幸せ話したら 一晩でも足りない
  Sachiko という名は 皮肉だと
  自分に宛てた手紙もやして
  窓にひたいを押し当てて
  家を出たいとつぶやいた

  ばんばひろふみ 「SACHIKO」(作詞:小泉長一郎)

◆ 正直なところ、ワタシはこういった女性に優しく接する自信がない。たぶん敬遠してしまうだろうと思う。

◆ 写真は2005年2月4日、横浜市旭区東希望が丘。べつに自転車を押している女性が薄幸そうだというのではなくて(いや、よく見ると……?)、この日、この東希望が丘で引越作業をした女性客の名前が幸子だった。もう記憶も薄れているが(だから勝手なイメージが定着してしまっているが)、どんなに敏感なひとでも気がつかないほどの気配りをして、その気配りがもしかしたら相手を傷つけてしまったのではないかと、さらなる気配りをして疲れきってしまう、そんなタイプの女性だった(ように思う)。その幸子さんが引越をして希望が丘から出て行った。もちろん、住んでいた場所がたまたま「希望が丘」という住所だったにすぎないないけれど、もしかしたら、彼女がある日、ぼんやり見ていた地図で希望が丘という地名を見つけて、ここに住んだら今よりは幸せになれるかもしれない、というような淡い希望をふと抱いた、そんな空想をしてしまいもする。で、その結果はどうだったのだろう? もちろん、そんなことはだれにもわからない。引越先の住所も、さいわいなことに、憶えていない。おそらくふつうの地名だったのだろう。

◆ あちこちに幸町があって、そこではだれもが幸せになろうとしている。幸せなひとたちが住むところに、けっして幸町はない。

◆ 北海道から東京に移り住んで初めてバイクで遠出をした日に、交差点付近で進路変更をしたというので白バイに捕まって反則キップを切られた。国道1号線都町交差点、住所は今でも忘れない。神奈川県川崎市幸区南幸町。なにが「幸」なものか!

  竹馬

◆ 仕事の合間に、近くに公園があると、そこで休憩したりする。いろんな遊具で遊んでいる子どもを見るのは楽しい。自分でやるのはもっと楽しい。鉄棒のある公園はあまり見かけないけれど、あると、逆上がりがしたくなる。でも、やらない。だれもいない公園ならいざしらず、四十男が児童に交じって鉄棒で遊ぶわけにはいかない。いかにも怪しすぎる。蜘蛛の子を散らすようにみな逃げて行ってしまうだろう。それは悲しい。だから、いまでも逆上がりができるのかどうかはわからないままだ。

◆ 小金井の江戸東京たてもの園には、土管のある空き地が再現してあって、そこでは羽子板や独楽で遊ぶことができる。竹馬も置いてある。ワタシもやってみようかと思ったが、四十男がひとりで竹馬に乗るのは恥ずかしい。しばらくベンチに座って、子どもたちが竹馬で遊んでいるのを見ていた。ときおり、もう子どもではない大人たちもなつかしそうにチャレンジするが、だれもできずに、みな 「むかしはできたんだけどな」 とつぶやく(うそぶく)。それから、二十代後半かとおぼしきカップルがやってきた。女性のほうはうまく乗りこなしているのに、男性のほうがからっきしダメである。これではいけない。練習してから来るべきだったろう。このシーンを見て、ワタシもいまのうちに、自分がいまでも竹馬に乗れるかどうかを確かめておく必要があると思った。備えあれば憂いなし。女性と一緒のおり、いつどこで竹馬に出くわすやもしれぬ。などといったたいそうな理由からではなく、やっぱり乗りたくなったので、竹馬に乗ってみた。案ずるより産むが易し。ワタシはいまでも竹馬に乗れたのだった。とてもウレシイ。今度はぜひ女性と来ることにしよう。

  遷化

せんげ【遷化】 《この世の教化を終え、他の世に教化を移すの意》 高僧や隠者などが死ぬこと。入滅。
小学館 『大辞泉』

◆ 直接の顔見知りではない著名人の場合、訃報のニュースを見逃すと、その死後もワタシのアタマのなかではずっと生き続けたままだ。たとえば、

◇ 西村が修復を手がけた仏像は千三百余体。三十三間堂の千手観音をはじめ、拝観者が不用意に指を折った広隆寺の弥勒菩薩像や、平等院の阿弥陀如来像、東大寺の金剛力士像、三月堂の不空羂索(けんじゃく)観音像も彼の手でよみがえった。それだけでない。知られずにいる多くの末寺諸寺の仏像修復も手がけている。その人に会えなくなったのは残念だ。
倉部きよたか 『京都人は日本一薄情か』 (文春新書, p.168)

◆ ・・・会えなくなったのは残念だ。あれ、公朝さんはいつのまに亡くなられていたのだったか。愛宕(おたぎ)念仏寺の住職であり、仏像修復の第一人者として名高い仏師、西村公朝。ワタシは、数年前の正月、京都に帰省したおり、たまたま彼の著作を実家で読んでいて、そのなかの榧(かや)の生木に不動明王を彫ったというハナシに興味をそそられた。昭和30年ごろ、仏像修復のために通っていた寺の住職から、境内にある直径2メートルほどのカヤの神木にぜひ不動明王を彫ってほしいと頼まれ、一日で彫り上げたという。

◇ その立木不動は今もそのままの場所にあります。ところが、彫り上がったときはそれこそみずみずしい黄色のきれいな不動さんだったのですが、時がたつにつれて、木皮をはいだ部分がだんだん茶色に変色して皮肌になろうとしているのです。そして木皮をはいだ、ちょうど額縁の縁にあたるところが次第に肉盛りして盛り上がってきました。生きている木ですから、目立ちはしませんけれど年々確実に太くなってきているのです。そして傷口をふさごうとする木の勢いで盛り上げてくる。そうすると、その不動さんは周囲がだんだん縮められて奥へ奥へ入っていくような感じになるのです。ですから、ひょっとしたら今から百年ぐらいたつと、その不動さんはすっかり木皮に覆われてしまうのではないでしょうか。そうなると、仮に全木皮に包み込まれたとして、その榧の木がいつか枯れて倒れたとします。そして何かの機会にそのふくれた部分がポコンととれて中から不動さんが出てきたとすればどうでしょう。何百年か後の人たちはおそらく吃驚(びっくり)仰天するのではないでしょうか。
西村公朝 『仏像は語る』 (新潮文庫, p.40)

◆ 場所は伏見区醍醐の善願寺。実家からそれほど遠くないのでさっそく見に行った。目立たない場所にあったが、御神木であるカヤの木の周りの空気はいくぶん張りつめていて、不動明王は凛として緊張がみなぎっていた。そこだけ少し輝いているようにも見えた。そんなことがあった。2003年の正月のことだ。

◆ 彼が住職をしていた愛宕念仏寺のサイトの 「西村公朝プロフィール」 の末行には、

◇ 平成15年12月2日 遷化 享年89歳
www.otagiji.org/page012.html

◆ とあった。平成15年、ワタシが善願寺の榧の木不動を見に行ったその年の暮れに、公朝さんは遷化されていたのだった。遅ればせながら、合掌。

◆ これはネジバナ。ラン科の植物。花茎が捩(ねじ)れてるから捩花。学名は Spiranthes sinensis で、

◇ Spiranthes comes from the Greek words ‘speira’ meaning spiral and ‘anthos’ meaning flower.
www.fragrant-gardens.com/spiranthes.php

◆ 「中国のスパイラル・フラワー」 と、これも簡明。

◇ 芝生や土手など日当たりのよい丈の低い草地によく生えている。山には生えない。初夏または初秋のころ、人家近くを歩いて、ねじれた紅紫色または白色の花をつけた草花を見つければ、まちがいなくネジバナ。ランのなかまはなかなか見かけないが、ネジバナは例外。
research.kahaku.go.jp/botany/wild_p100/summer/17_nejibana.html

◆ 「山には生えない」 って、見かけたのは高尾山なんだけどな。まあ山というほどの山ではないか。

◇ 日当りの良い芝地や草地に生える多年草。ピンク色の小さな花を螺旋状に付ける。ねじれ方は左巻き、右巻きの両方がある。
www.showapark.jp/dic/plant/summer/neji.htm

◆ では、上の写真のネジバナは左巻き?、それとも右巻き? これは少々やっかいで、

◇ 植物を観察していると ‘右巻きと左巻きの定義’ が一向に理解できない。例えば蟻さんが見上げる位置からの巻きと・・蝶さんが見下ろす位置からの巻きって・・同じ巻きでも逆表現になってしまう。
greeen3.fc2web.com/N5/990406i.html

◆ そもそもワタシは左利きなもので、ふだんでさえ右と左の区別に時間がかかるというのに・・・。

◇ 「夏痩せも知らぬ女をにくみけり」(日野草城)

◆ この俳句に付された坪内稔典の解説を読んでみると、

◇  食欲旺盛で活発な女性をうとましく眺めている俳句である。高温多湿の日本の夏には、食欲がおとろえて体重が減る。すなわち夏痩せをすることが普通のことだった。だから、夏痩せを知らぬ女性などはその無神経ぶりがうとまれた。
 だが、冷房の普及、食生活の変化などによって、今では夏痩せすることがほとんどなくなった。夏痩せと言う季語は死語になろうとしている。

坪内稔典 『季語集』 (岩波新書, p.115)

◆ 死んでいくコトバの反対側で、新しいコトバが生まれ出る。

◇ 夏の暑さで食欲が落ちてやせてしまうのがいわゆる 「夏やせ」。ところが最近夏痩せよりも夏太りする人が増えているようです。
allabout.co.jp/health/womenshealth/closeup/CU20040704A/index.htm

◆ 夏太り。数年後には、気の早い 「歳時記」 がこの語を季語として収録していることだろう。

◆ 問題。以下は 『ジーニアス英和辞典』 から採った単語の定義である。もとの単語は何か?

◇ つけまわす、尾行する。

◇ 裏切る、密告する。

◇ ふらふらさまよう、尻を出して見せる。

◇ ぶらぶらあてもなく歩く。

◆ 解答。順に、dog、rat、moon、swan。犬、鼠、月、白鳥。もともとは名詞として記憶している単語も、辞書を詳しく読めば、動詞としての用法があって、それが結構おもしろかったりする。理解しやすいのもあれば、関連がまったく想像できないのもある。dog に「尾行する」 という意味があるのは、犬の特性だと考えればわりと腑に落ちるけれども、それとは関係なく、“A dog dogged a dog.” などという例文を考えてみるのは楽しい。犬が犬を犬した、とか。鼠が鼠を鼠した、とか。

◆ (問題の例文は適当に思いついたものを挙げただけなので、もっとおもしろいものが見つかったら差し替えたい。)

◆ また、英語には 「~ing」 という形をもつ単語があって、ふつう動名詞と呼ばれている(と思う)。もとは動詞である。でも、もとのもとは名詞であることも多くて、これがより面白い。日本語になっているものでいうと、たとえば、ドッキング、バッティング、サイクリング、ダブルブッキング。船舶を建造あるいは修繕する場所である dock からどのような経緯で、docking という単語ができたのが、ワタシは知らない。batting も 「バットすること」 と直訳してみれば、なんとなくおかしい。で、しばらく前から気になっているのが、これ・・・。

◆ 「時間すること」 とは、いったいなんだろう。あるいは 「TIME すること」 とは。TIME に ING をつけ加えると、TIMING。タイミング。タイミングという日本語が time に ing をつけたものだと知ったのは、それほど古いことではない。ワタシはいつもタイミングが悪いから、時機に乗り遅れるから、そんなこともあって、タイミングの語源をさかのぼって、TIME の、「時間」 の意味を知ろうと躍起になりもする。そんなことだから、タイミングを逃してしまいのだとは承知のうえで。

◆ 德國(德国)で世界盃(世界杯)が始まった。参加国を中国語で表記すると、以下の通り。順に、繁体字(カッコ内は簡体字)日本語。

歐洲區(欧洲区): 德國(德国)ドイツ、烏克蘭(乌克兰)ウクライナ、荷蘭(荷兰)オランダ、葡萄牙(葡萄牙)ポルトガル、意大利(意大利)イタリア、波蘭(波兰)ポーランド、英格蘭(英格兰)イングランド、克羅埃西亞(克罗地亚)クロアチア、法國(法国)フランス、瑞典(瑞典)スウェーデン、塞黑(塞黑)セルビア・モンテネグロ、瑞士(瑞士)スイス、捷克(捷克)チェコ、西班牙(西班牙)スペイン
亞洲區(亚洲区): 伊朗(伊朗)イラン、日本(日本)日本、沙特阿拉伯(沙特阿拉伯)サウジアラビア、南韓(韩国)韓国
南美洲區(南美洲区): 阿根廷(阿根廷)アルゼンチン、巴西(巴西)ブラジル、巴拉圭(巴拉圭)パラグアイ、厄瓜多(厄瓜多尔)エクアドル
大洋洲區(大洋洲区): 澳大利亚(澳洲)オーストラリア
非洲區(非洲区): 迦納(加纳)ガーナ、多哥(多哥)トーゴ、象牙海岸(科特迪瓦)コートジボワール、安哥拉(安哥拉)アンゴラ、突尼西亞(突尼斯)チュニジア
中北美洲及加勒比海地區(中北美洲及加勒比海地区): 美國(美国)アメリカ、墨西哥(墨西哥)メキシコ、哥斯達黎加(哥斯达黎加)コスタリカ、特多(特立尼达)トリニダード・トバゴ

《zh.wikipedia.org/wiki/2006年世界盃足球賽》 などを参照。

◆ セルビア・モンテネグロ(Serbia and Montenegro)の 「塞黑」 は略称。「塞」 はセルビアのセ、「黑」 はモンテネグロの 「グロ」 ・・・、ではなくて(だとおもしろいんだけど)、モンテネグロを直訳した 「黒い山」 の 「黑」。塞爾維亞與蒙特內哥羅(尔维亚和山)。

◆ トリニダード・トバゴ(Trinidad and Tobago)の 「特多」 も同じく略称。「特」 はトリニダードの 「ト」、「多」 はトバゴの 「ト」。千里達及托巴哥(立尼达和巴哥)。

◆ ガーナは加納さんか。

◆ コートジボワールの 「象牙海岸」 も直訳。

  方言

◆ ある日、『日刊スポーツ』を読んでいたら、浜崎孝宏という記者がこんなことを書いていた(記者コラム 「見た 聞いた 思った」)。

◇  キバレ! ヤット!
 明日12日にサッカー日本代表が、オーストラリアとのW杯初戦を迎える。個人的なイチ押し選手は、MFの遠藤保仁だ。
 冒頭の 「キバレ」 はご存じの人も多いでしょうが、鹿児島弁で 「頑張れ」 の意味。ヤットは、ミドルシュートなどで定評のある日本代表・遠藤のニックネーム。

blog.nikkansports.com//nikkansports/writer/archives/2006/06/post_431.html

◆ で、あれっと思った。「気張る」 という日本語を知っているひとは多いでしょうが、それが鹿児島弁と思っているひとは多いでしょうか? 「気張る」 は鹿児島弁で 「頑張る」 の意味、かもしれないが、鹿児島弁じゃなくても、「頑張る」 の意味じゃない? 「気張る」 はそもそも方言なのかどうか。

◆ ある日、小樽の商店街を歩いていたら、アーケードの屋根から垂れ幕が下がっていて、そこには 「おもしろ小樽弁 へっちゃら」 と書いてあった。「へっちゃら」 の横には 「へいき」 と意味が添えてある。「へっちゃら」 って方言だったの?

◆ ある日、ネットで調べものをしていたら、

◇ 忘れもしない、学校帰りの 「書け石」 での落書き。「書け石」 は北海道弁らしく、『[名] 舗道などにチョークのように書くことのできる石。軽石の類』 と言われているものである。
ext-web.edu.sgu.ac.jp/koide/chigaku/rep2004F_.html

◆ 舗装された地面に落書きをするための石、「書け石」。これはワタシもこどものころに京都市内でそう呼んでいたから、北海道弁と限定するのはどうかと思うのだが・・・。