MEMORANDUM

「芋は哀し」で引用した塚本邦雄の文章をもう一度引用すると、

◇ 平凡なシルーエットは大嫌いだ。たとえば世界地図を展げるなら、ボルネオ、スマトラ、ジャワ、マダガスカル等、芋を転がしたような単純で鈍重な形象には全く興味を持たず、鼠に噛まれる窮猫の形のセレベス、毒を吐く蜥蜴の形のパプア、毀れたギヤマンの瓶と甕をばら撒いたかのフィリッピン群島各島、日本でなら乾鱏の北海道など面白いものに属し、自分の地図にも大いに採り入れた。〔原文は旧字旧仮名〕
塚本邦雄『半島』(白水社,p.70)

◆ 北海道は乾鱏か。「鱏」はエイ。あのひらひらした軟骨魚のエイの干物。これはよくわかる。たしかにエイの形に見えなくはない。画像のエイは《ユーラシア大陸果ての定置網:カスベ》から拝借。ポルトガルの Raia teiroga というガンギエイ科のエイらしい。で、このガンギエイ、北海道ではカスベと呼び、煮つけなどにする。

〔ウェブシティさっぽろ:カスベ(ガンギエイ)〕 カスベというのは一般的にガンギエイの地方名とされています。北海道では、ほぼ一年中漁獲されています。漁獲量が増えるのは冬で、春の産卵期を前に脂がのります。札幌に住む私たちにとって、カスベはなじみの深い魚で、人によっていろいろいな食べ方や思い出があります。
web.city.sapporo.jp/season/044kasube.html

◇ カスベと聞いて北海道の人でも知らない人がいる。カスベはガンギエイ科のエイの一種で、北海道ではメガネカスベ(本カスベ又は真カスベ)とドブカスベ(水カスベ)が食用とされている。食用とは言ってもヒレ部分だけが水揚げされ、他の部分は海上で投棄されている。そのエイのヒレ部分を砂糖醤油で煮たものが「カスベの煮付け」である。
take5555.exblog.jp/5361015/

◆ 札幌に5年もいたのに、ワタシもカスベのことはまったく知らなかった。でも、逆に、道産子でカスベを日常食していても、それがエイだとは知らないひとも多いとか。以前、テレビの「噂のケンミンSHOW」というバラエティ番組でカスベが取り上げられたそうで、

◇ まずは北海道ではエイ(魚)を食すとの事。地元では「カスベ」と呼ばれている、ガンギエイというエイらしい。バラエティ故、仕方がないのであるが、エイを食べると聞いたときの出演者の反応が異常ってか、騒ぎ過ぎ。(笑) 〔中略〕 面白かったのは、エイを食べることよりも、カスベを食べている人たちが、エイだとは知らなかった事。魚そのものを見せられても、それが何の魚なのかわからないという人がニュースになった時代から数年が経ちますが、高齢者と言われる年齢の人までが、それがエイだと知らなかったのには驚き。逆に言えば、それだけ昔から「カスベ」として食べられているということでしょう。テレビでは魚屋さんの店頭にエイが一匹まるまま並んでいるのが映ってましたが、エイだと知らないということは昔から切り身で売っていたのでしょうか?
udaryu.blog13.fc2.com/blog-entry-431.html

◆ カスベのヒレだけしか目にしないひとは、残念ながら、北海道の形に似ていると思うことはできない。

◇ ”かすべ”とは、”えいひれ”のことです。えいひれとは言っても、居酒屋さんにある、アタリメのような炙って食べるおつまみではありません。最近は、スーパーでもたまに見かけるようになりましたよね。
lainacuisine.blog86.fc2.com/blog-entry-96.html

◆ カスベ=エイヒレだと思っているひとも多いようだ。まあ、食べるだけなら問題はないが、カスベはエイだがヒレではない。正確には、カスベヒレと言うべきだろう。いずれにしても、食べているひとには、その部分が宗谷岬か襟裳岬の区別はつかない。大雪山はそこにはない。カスベと北海道の形の類似に言及しているひとがいないわけではない。

〔丸鮮千代水産(札幌二条市場)〕 北方のガンギエイ科に属するエイをカスベと呼びます。ちょっと北海道にも似たひし形のひらぺったい体で、口の先にはとんがった吻がついています。成長すると1mにもなるそうです。
http://www.rakuten.ne.jp/gold/chiyo/contents/dict/kasube.htm

◇ 北海道の形してる魚。カスベ。
twitter.com/TokikoKato/status/9458516429

◆ そのひとりが、なんと加藤登紀子だった。

〔MSN産経ニュース:2010.3.7 18:00〕 島根県隠岐諸島のひとつ、中ノ島にある海士町が平成19年度から3年間、総務省から受託した地域ICT(情報通信技術)事業を軌道に乗せ、注目を集めている。〔中略〕 ディスプレーを設置している東京都千代田区の島根郷土料理店「主水(もんど)」では岩ガキの旬ではない時期に、瞬間凍結技術で解凍後も鮮度の保たれる映像を流した結果、通年で岩ガキの注文が入るようになった。
sankei.jp.msn.com/region/chugoku/shimane/100307/smn1003071839000-n1.htm

◆ とまあ、こんなニュース記事を読んだんですがね。ニュースの中身の「地域ICT(情報通信技術)事業」とやらは、俺には難しいので省略するとして、ただ、隠岐にも「海士町(あままち)」があるんだな、とそう思っただけで。それから、「主水(もんど)」って店の名も気になりました。なんでも最近、中村主水という方がお亡くなりになったそうですが、いやなに、俺の名前が水守昭三っていうもんだから。そう、昭三だから、昭和三年生まれ。若い頃は、トラック野郎をやったりもしましたが、今では、御覧の通りの雲助、今風にいうと、タクシードライバーってわけなんで。八十をとっくに過ぎてますが、元気なもんです。

◇ 俺はね、お客さん、舳倉島(へくらじま)の生まれなんです。水守ってのは輪島の町名にもありますが、例の「主水(もんど)」とほぼ同じ仕事を先祖がしていたってことじゃありませんか。親仁(おやじ)は船主でね、漁船と貨物船を併せて十隻ばかり持って、一時は良い暮しをしていたようです。俺の母親は舳倉島の海人(あま)の娘でしたよ。親仁が若い頃、夏休みに遊びに行って、一目惚れして、たった一晩寝ただけでできたんだそうな。〔原文は旧字旧仮名〕
塚本邦雄 「続・能登半島」(『半島』所収,白水社,p.28)

◇ 輪島には海士町(あままち)という海人の本拠になる一群の町並がありましてね。元来は六月に入るとすぐ舳倉島の家へ移って行って漁を始めるんです。輪島の家は留守番子守だけ。十月の下旬、霜が降る頃、島の家を閉じて輪島の方へ引き上げて来ますよ。いやあ、昔は、六月になると巡査も坊主も奇特な医者も、海士と一緒に、進んで舳倉へ渡ってくれました。〔原文は旧字旧仮名〕
Ibid., p.32

◇お客さん、もう一日暇があったら、是非案内してあげたいな。海上十三里、船で二時間一寸、一日一往復だけだが、それも凪の日だけでね。六、七、八の三月(みつき)は素晴しい眺めさ。島の真中は広い野原で、苦竹(まだけ)や茅(かや)の中に、笹百合と鬼百合が咲き乱れるんだから。周囲が一里半、南の岸は岩礁と入江ばかりで若布(わかめ)、荒布(あらめ)が茂ってる。北岸は怒涛断崖を噛むってっところですな。晩秋から真冬は哭きたいくらい淋しくて怖ろしい眺めですよ。金沢を松江にたとえるなら、舳倉は隠岐に当りましょうな。〔原文は旧字旧仮名〕
Ibid., p.30

◆ 焼き芋を食いながら、本を読んでいると、芋が出た。歌人・塚本邦雄は幼少のころ、自分で架空の地図を作って遊んでいたという。

◇ 平凡なシルーエットは大嫌いだ。たとえば世界地図を展げるなら、ボルネオ、スマトラ、ジャワ、マダガスカル等、芋を転がしたような単純で鈍重な形象には全く興味を持たず、鼠に噛まれる窮猫の形のセレベス、毒を吐く蜥蜴の形のパプア、毀れたギヤマンの瓶と甕をばら撒いたかのフィリッピン群島各島、日本でなら乾鱏の北海道など面白いものに属し、自分の地図にも大いに採り入れた。〔原文は旧字旧仮名〕
塚本邦雄『半島』(白水社,p.70)

◆ 「芋を転がしたような単純で鈍重な形象」をした島々。ボルネオ芋、スマトラ芋、ジャワ芋、マダガスカル芋。これらの芋はどんな芋だろう? ジャワ芋は、やはりジャガタラ芋だろうか? また、別な本に、

◇ 廓では分娩は御法度だった。遊女の産んだ子は「芋が子」と呼ばれ、山谷や三輪あたりから吉原に芋などを売りにくる農家の人に里子に出してしまう、と鴇手(やりて)のおかちさんが言っていた。
斎藤真一 『吉原炎上』(文春文庫,p.102)

◆ この芋はなんだろう。「里子だから、里芋?」と誰かが言った。うまく笑えない。

◆ 去年の12月13日、東大駒場キャンパスを散歩していたときのこと。イチョウ並木のイチョウの葉はほとんど落ちてしまっていたが、その落ちたイチョウの葉を拾っている若いカップルがいて、たまたまその横を通り過ぎるとき、そのカップルの男性が女性にこんなハナシをしているのが聞こえた。

◇ 「イチョウの葉には、男と女があるんだよ。知ってた?」

◆ ワタシはアカの他人なので、そのまま通り過ぎたが、そんなハナシは初めて聞いた。イチョウは雌雄異株ということで、オスの木とメスの木があるのはもちろんだが、葉っぱにまでオスメスがあるとは?

◇ この歳になって初めて知りました、イチョウの葉にオスとメスがあること。葉っぱに切れ目のようなものがあるのがオスでないのがメス。スボンみたいなのがオスで、スカートみたいなのがメスってことですね。世の中のこと、知らないことがたくさんあることは承知しているし、あらゆる変化にも対応していってないのも自覚してるけど、ふとしたことで、学ぶこともあるものです。
blog.goo.ne.jp/relajante/e/82ca3e89f376322c47ce6fb8ed2ec999

◇ イチョウにはオスとメスがあり、メスに銀杏が実るというのは聞いたことがありましたが、オスとメスでイチョウの葉の形が違うことを初めて知りました。ひとつ勉強になりました。メス=女の子は扇型(スカート)で、オス=男の子は真ん中が大きく割れている(半ズボン)。ほんとだ~。
jwweekly.blog77.fc2.com/blog-entry-490.html

◆ たしかにイチョウの葉の形は多様で、大まかに分類すれば、切れ込みがあるものとないものに二分することができて、そのそれぞれの特徴をスボン(男)とスカート(女)に見立てることにはなんの問題もないし、おもしろい見立てだとは思うけれど、葉っぱの「男女」と木のオスメスとのあいだにはなんの関係もない(と思う)。オスの木にスカートをはいた葉がついていることもあるし、メスの木にスボンをはいた葉っぱがついていることもある。イチョウの木などそれこそどこにでもあるのだから、自分の目で確かめればいいと思うのだけど、どうもそういうひとは少ないようだ。

◇ 先日、植物に詳しい人から聞いたのです。イチョウの葉っぱはパンタロンのがオスで、スカートがメスだと思っていたのですが、全然違っているというのです。一本のイチョウの樹の葉から、パンタロンあり、スカートあり、また違った形ありで、色んな葉っぱがあるというのです。
www.kamakuratoday.com/suki/mokuren/35.html

◆ 東大駒場キャンパスのイチョウ並木にハナシを戻すと、イチョウの葉の男女の違いについてのハナシをしていた若いカップルは、イチョウの木の根元に落ちた葉っぱを拾い上げて入念に観察してはいたけれど、すぐそばにあるイチョウの木のまだ落ちずに残っていた葉っぱをけっして見ようとはしなかった。ちょっと頭を上げれば、そのイチョウの木に、パンタロンをはいた葉っぱとスカートをはいた葉っぱが仲良く(あなたたちのように)寄り添っているのを目にすることもできただろうに。いや、頭を上げなくてよかったのかもしれない。もしワタシがその若いカップルの女性だったとしたら、

◇ 「イチョウの葉には、男と女があるんだよ。知ってた? こんな風にスカートをはいているのが女のイチョウで、こんな風にズボンをはいているのが男のイチョウなんだ。葉っぱの形でイチョウの木のオスメスが見分けられるんだよ」
「へえ、ぜんぜん知らなかった。ほんとね、男の子の葉っぱと女の子の葉っぱがあるわ。でも、ここに落ちてる葉っぱは全部、ここにある一本のイチョウの木から落ちてきたんじゃないの?」

◆ そうして、ふたりは視線を上に向け、まだ多少は葉っぱの残っているそのイチョウの木を見ることになる。女性はこう言うだろう。

◇ 「このイチョウの木には、女の子の葉っぱも男の子の葉っぱも両方あるみたいね。じゃあ、このイチョウの木は、オスなの? メスなの? それとも両性具有ってわけ?」

◆ 男性は苦し紛れにこう言うかもしれない。

◇ 「こ、これは、このイチョウの木は、突然変異かもしれないぞ! ノーベル賞ものの大発見かも!」

◆ 女性は冷ややかに言うだろう。

◇ 「あなた、ほんとに東大生?」

◆ いや、東大構内を歩いていたからといって、この若いカップルが東大生とはかぎるまい。もしかしたら、東大生だったのかもしれないが、少なくとも男性のほうは東大生ではなかったと思いたい。しかし、こんなハナシはどこからでてきたんだろう。

◆ 東京スポーツの 《「公衆便所」は女性蔑視?》という記事(一部省略)。

〔東京スポーツ:2010年03月04日〕  日本が誇る世界のアスリート北島康介の出身地として知られる東京・荒川区で、なんとも珍妙な「トイレ論争」が勃発、関係者は大マジで激論を戦わせている。「公衆便所」の4文字が不潔なイメージだとして、呼称を「公衆トイレ」に変更する条例案が提出されたのが事の発端。紛糾する区議会では、アングラな女性蔑視用語が飛び出すトンデモ事態にまで発展している。
 「便所は便という(不潔な)イメージで、語感も悪い。トイレの方が清潔感やキレイな状況が、イメージできるのではないか」と区側が公衆便所を公衆トイレに統一表記する条例の改正案を先ごろ提出した。
 区内の公園や道路わきなどにある看板や案内をすべてトイレへ書き換えるのはもちろん、条例の公文書でも「便所」の2文字を消すことで根本からイメージ脱却を図るというのだ。
 なるほど!と思えなくもない。だが、これに対し複数の区議からは「トイレと言い換えれば、カッコよくてハイカラというのは、自虐的だ。便所が便所で何が悪い!」との意見や「区が清掃を怠った罪を“便所”という日本語に押し付けている」と反対意見が続出したから、区側もさぞ驚いたに違いない。
 想定外の追及の嵐に、シドロモドロとなってしまった区側。なんと「公衆便所は女性蔑視の差別用語でもある。便所の“じょ”を女に変える隠語がある」と、何ともそぐわないとしか言いようのない例まで挙げたものだから、火に油。さらなる紛糾を招く結果になってしまった。
 貞操観念が低く“ヤリマン”などと言われてしまう女性や、性欲処理目的の環境に置かれた女性に対して、不特定多数の人が利用する公衆便所に引き合いに出し“公衆便女”とやゆするとんでもない差別言葉は、確かにある。とはいえ、区議会という公の場で、引っ張り出すのは“いかがなものか”と、糾弾したのは呼称変更反対派の浅川喜文区議だ。「(公衆便女だなんて)くだらないことを言うのはナンセンスを通り越して、恥の上塗りというか馬脚を現した」

www.tokyo-sports.co.jp/hamidashi.php?hid=7355

◆ 「東スポ」とはいえ、いろいろと(内容も文章も)おもしろい。まず、荒川区の「枕詞」として「日本が誇る世界のアスリート北島康介の出身地として知られる」か、なるほど。たしかに、

◇ 荒川区で真っ先に思い浮かぶものがありません。「荒川区といえば○○○」というものを作ることが大事なのでは
sangyo.city.arakawa.tokyo.jp/kankondankai/kankou/pdf3/k5.pdf

◆ という意見もあって、そういえばそうだな、と思え、「世界の北島」が生まれなかったら、冒頭の文章はどうなっていたのかが気になりもする。

◇ 荒川区の観光資源といえば、あらかわ遊園、都電、日暮里繊維街等である。
sangyo.city.arakawa.tokyo.jp/kankondankai/kankou/gijiroku2.htm

◆ ううん、なんとも地味である。ということであれば、やはりしばらくは「世界の北島」に頼っておくのが無難というものだろうか(有効期限はいつまでだろう)。架空の人物でよければ、「巨人の星」の星一家が住んでいた長屋は荒川区内という設定らしい。永遠に生き続けることを宿命づけられた星一徹・飛雄馬親子のほうが、生身の人間よりは評価が安定しているように思えるけれども、これもどうだかわからない。すでに有効期限が切れているかもしれない。

◇ アニメ版において星一徹宛ての郵便物に「荒川区町屋9-16」という宛て先が示されていた。ただし、町屋は8丁目までしかなく、9-16は架空の地。泪橋も飛雄馬親子のランニングシーンに登場する。
ja.wikipedia.org/wiki/荒川区

◆ 町屋からは都電荒川線に乗って終点の三ノ輪橋電停で降り、浄閑寺あたりを抜けてぶらぶら歩けば、15分ほどで、泪橋交差点に着く。泪橋といえば、「あしたのジョー」にも登場するが(というか、こちらのほうが有名だが)、とうの昔に橋はなく、明治通りの交差点名としてのみその名を残す。岡林信康の「山谷ブルース」で知られる日雇い労働者の街、山谷はこの辺り。

◇ 泪橋(台東区・荒川区境)はかつて江戸の境界で、近くに小塚原刑場や遊女の投込み寺(浄閑寺)があった。また、山谷地域西南部の近隣には、ソープランド街である吉原(ここも1966年の住居表示制度の実施により、正式地名としては消滅。現在は台東区千束の一部)がある。
ja.wikipedia.org/wiki/山谷 (東京都)

◆ 荒川区から泪橋を渡って台東区に入り、しばらく歩くと吉原遊郭の入口である大門(おおもん)に出る。こちらも、とうの昔に門はない。荒川区の公衆便所のハナシのはずだったが、なぜか台東区に来てしまった。おっと、こんなところに公衆便所が! ついでながら、この「新吉原大門前公衆便所」の「新」というのは、この台東区千束の吉原遊郭が「新吉原」とも呼ばれるからで(江戸時代に日本橋人形町の旧吉原から移転)、なにも吉原大門前のどこかに旧い公衆便所があったわけではない(と思う)。

◆ ちょっと前に、ブックオフで、司馬遼太郎の『街道をゆく』シリーズの文庫本を10冊買ったときのこと。そのうちの9冊は100円の特価本だったが、のこりの1冊は定価の半額に近い250円だった。まとめて10冊をレジに出すと、ごく自然にすべて100円になった。店員が250円の値札を見落としたわけではない。店員はすべての値札をきちんと確かめたうえで、250円の値札が貼られた1冊を示し、

◇ 「これは、100円のシールがはがれてしまったみたいですね」

◆ とていねいに言った。ワタシはなにも言わなかった。それで、すべてが100円になった。

◆ 画家・斎藤真一、1922(大正11)年、岡山県児島郡味野町に生まれる。味野町はその後、1948(昭和23)年、児玉市味野に、さらに、1967(昭和42)年、倉敷市児島味野に。

◇  山陽線の岡山駅で宇野線に乗り換えると、急に車中の人の言葉が変ってくる。まったくの岡山弁である。岡山に二十年住んで、岡山を離れてまた二十年、故里を離れるたびにも帰郷のたびにも、その懐かしさは言葉では言いあらわせない。宇野線沿いの、広々とした藤田新田を車窓に眺め、岡山から四つめの駅、茶屋町で下車、陸橋を渡って下津井線のコッペルに乗り換える。この鉄道がまた懐かしい。線路は本線よりもずっと狭く、車輌は二つか三つ繋がったマッチ箱のようで、長い煙突のついた蒸気機関車がそれをひっぱる。茶屋町から下津井まで片道六里、私の生ま故郷は下津井の一つ手前、味野というところである。
 汽車の腰掛はベンチ式で、前の人と膝がくっつくように狭い。

斎藤真一 「故里の汽車」(『一寸昔(ちょっとむかし)』所収,朱雀院,p.49)

◇ 汽車は猫のひたいのような盆地の間を縫うように走って、線路の音が座席のうす板をとうしてカタカタと頭にひびく。機関車は古くて小さいがクラウスと言って、馬力だけはあった。大正の初年開通当時ドイツから買ったもので当時は自慢の一つであったが、私の中学時代、暴風雨の或る日、山の登りカーブで煙突が落ちて、車中の通学生がみんなで谷を探しまわったことがあった。登り坂では焼玉のようになって火の粉を吹き上げるこの煙突もついにこと切れた感じであった。
Ibid., p.54

◆ 下津井線とは、下津井軽便鉄道(のちに下津井鉄道、さらに下津井電鉄に社名変更)のこと。《Wikipedia》によると、

  • 1911年(明治44年)8月15日 - 下津井軽便鉄道として設立。
  • 1913年(大正2年)11月11日 - 茶屋町~味野町(後の児島)間14.5kmが開業。軌間762mm。
  • 1914年(大正3年)3月15日 - 味野町~下津井間6.5kmが開業。
  • 1922年(大正11年)11月28日 - 下津井鉄道に社名変更。
  • 1949年(昭和24年)8月20日 - 下津井電鉄に社名変更。
  • 1972年(昭和47年)4月1日 - 茶屋町~児島間を廃止。線路跡は倉敷市へ売却、自転車道となる。
  • 1991年(平成3年)1月1日 - 児島~下津井間を廃止、鉄道から撤退してバス会社となる。
ja.wikipedia.org/wiki/下津井電鉄

◆ 上記引用中の「陸橋を渡って下津井線のコッペルに乗り換える」と「機関車は古くて小さいがクラウスと言って」の、コッペルとクラウス。どちらもドイツの機関車製造メーカーだが、下津井鉄道にコッペル製蒸気機関車が在籍していたという記録は見当たらない。軽便鉄道のことを「コッペル」と呼ぶ習慣があったのかもしれない。クラウス製蒸気機関車は、《下津井電鉄株式会社:歴史資料館》に、写真があった。

◇ 混合列車を引っ張る12号機関車(昭和13年5月21日・下津井駅)
※大正2年9月ドイツ・クラウス社製。六輪連結炭水機関車。

www.shimoden.co.jp/hisory/index02.html

◆ 細長い煙突の蒸気機関車にマッチ箱のような客車。いかにも「汽車ポッポ」という感じだ(一瞬、鳩ポッポが頭をよぎる)。機関車の煙突がとれてしまって、乗客みんなで探しまわったというエピソードが微笑ましい。マッチ箱のような客車はもうない。マッチ箱そのものもあまり見かけなくなった。