MEMORANDUM

  故里の汽車

◆ 画家・斎藤真一、1922(大正11)年、岡山県児島郡味野町に生まれる。味野町はその後、1948(昭和23)年、児玉市味野に、さらに、1967(昭和42)年、倉敷市児島味野に。

◇  山陽線の岡山駅で宇野線に乗り換えると、急に車中の人の言葉が変ってくる。まったくの岡山弁である。岡山に二十年住んで、岡山を離れてまた二十年、故里を離れるたびにも帰郷のたびにも、その懐かしさは言葉では言いあらわせない。宇野線沿いの、広々とした藤田新田を車窓に眺め、岡山から四つめの駅、茶屋町で下車、陸橋を渡って下津井線のコッペルに乗り換える。この鉄道がまた懐かしい。線路は本線よりもずっと狭く、車輌は二つか三つ繋がったマッチ箱のようで、長い煙突のついた蒸気機関車がそれをひっぱる。茶屋町から下津井まで片道六里、私の生ま故郷は下津井の一つ手前、味野というところである。
 汽車の腰掛はベンチ式で、前の人と膝がくっつくように狭い。

斎藤真一 「故里の汽車」(『一寸昔(ちょっとむかし)』所収,朱雀院,p.49)

◇ 汽車は猫のひたいのような盆地の間を縫うように走って、線路の音が座席のうす板をとうしてカタカタと頭にひびく。機関車は古くて小さいがクラウスと言って、馬力だけはあった。大正の初年開通当時ドイツから買ったもので当時は自慢の一つであったが、私の中学時代、暴風雨の或る日、山の登りカーブで煙突が落ちて、車中の通学生がみんなで谷を探しまわったことがあった。登り坂では焼玉のようになって火の粉を吹き上げるこの煙突もついにこと切れた感じであった。
Ibid., p.54

◆ 下津井線とは、下津井軽便鉄道(のちに下津井鉄道、さらに下津井電鉄に社名変更)のこと。《Wikipedia》によると、

  • 1911年(明治44年)8月15日 - 下津井軽便鉄道として設立。
  • 1913年(大正2年)11月11日 - 茶屋町~味野町(後の児島)間14.5kmが開業。軌間762mm。
  • 1914年(大正3年)3月15日 - 味野町~下津井間6.5kmが開業。
  • 1922年(大正11年)11月28日 - 下津井鉄道に社名変更。
  • 1949年(昭和24年)8月20日 - 下津井電鉄に社名変更。
  • 1972年(昭和47年)4月1日 - 茶屋町~児島間を廃止。線路跡は倉敷市へ売却、自転車道となる。
  • 1991年(平成3年)1月1日 - 児島~下津井間を廃止、鉄道から撤退してバス会社となる。
ja.wikipedia.org/wiki/下津井電鉄

◆ 上記引用中の「陸橋を渡って下津井線のコッペルに乗り換える」と「機関車は古くて小さいがクラウスと言って」の、コッペルとクラウス。どちらもドイツの機関車製造メーカーだが、下津井鉄道にコッペル製蒸気機関車が在籍していたという記録は見当たらない。軽便鉄道のことを「コッペル」と呼ぶ習慣があったのかもしれない。クラウス製蒸気機関車は、《下津井電鉄株式会社:歴史資料館》に、写真があった。

◇ 混合列車を引っ張る12号機関車(昭和13年5月21日・下津井駅)
※大正2年9月ドイツ・クラウス社製。六輪連結炭水機関車。

www.shimoden.co.jp/hisory/index02.html

◆ 細長い煙突の蒸気機関車にマッチ箱のような客車。いかにも「汽車ポッポ」という感じだ(一瞬、鳩ポッポが頭をよぎる)。機関車の煙突がとれてしまって、乗客みんなで探しまわったというエピソードが微笑ましい。マッチ箱のような客車はもうない。マッチ箱そのものもあまり見かけなくなった。

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