MEMORANDUM

◆ 「参上」で思い出した。幼いころ、「参上」するのは、鞍馬天狗ではなくて、なによりもまず仮面の忍者赤影だった。

◇ 「豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎だった頃」

◆ で始まるナレーションがなつかしい。「仮面の忍者赤影」には、赤影のほか白影と青影も登場する。当時、その白影が近くに住んでいるということを聞いて、妙な気がした。もちろん、俳優の名前も知らなかった。白影は白影で十分だった。

〔Wikipedia:牧 冬吉〕牧 冬吉まき ふゆきち、本名:岡村 信行、1930年11月28日 - 1998年6月27日)は秋田県出身の俳優。〔中略〕 夫人は歌手、タレントの牧吉佐登。晩年まで夫人と二人で、京都先斗町で「吉佐登(きちざと)」というクラブを開いていたが(2005年閉店)、「白影」を訪ねての来客が引きも切らなかったという。
ja.wikipedia.org/wiki/牧冬吉

〔朝日新聞(1998年6月29日)〕【牧 冬吉(まき・ふゆきち)=俳優、本名岡村信行=おかむらのぶゆき)27日午後9時4分、間質性肺炎のため京都市の病院で死去、67歳。葬儀・告別式は30日正午から京都市東山区五条橋東3の390の公益社ブライトホールで。喪主は妻登美子(とみこ)さん。自宅は京都市山科区安朱馬場ノ東町11の5。
 秋田県大館市生まれ。新劇俳優を経て、60年ごろからテレビ界に転進。「隠密剣士」の霧の遁兵衛、「仮面の忍者赤影」の白影など、アクション時代劇を中心に、テレビ・映画の名わき役として活躍した】

www31.ocn.ne.jp/~goodold60net/makifuyu.htm

◆ 「参上」するのは赤影だったが、「見参」するのは変身忍者嵐だった。で、《YouTube》を観てみて驚いた。「変身忍者嵐」にも、白影が登場していたのだった。ああ、知らなかった(いや、忘れてただけかも)。

◆ 画像は映画『ショーシャンクの空に』(The Shawshank Redemption, 1994)から。ショーシャンク刑務所の出所者のために用意された仮住居(halfway house)の壁。左に「BROOKS WAS HERE」、右に「SO WAS RED」とナイフで彫られた文字。ブルックス(Brooks)とレッド(Red)は、ともに仮出所者の名。《Wikipedia》に、こんなことが書いてあった。

〔Wikipedia:ショーシャンクの空に〕ブルックスが壁に彫った文字「BROOKS WAS HERE」は、第二次世界大戦中にアメリカ軍人の間で流行した落書き「Kilroy Was Here(キルロイ参上)」のフレーズを捩ったものである。
ja.wikipedia.org/wiki/ショーシャンクの空に

◆ いくらなんでも、これはちょっと考えすぎだろう。「Kilroy Was Here(キルロイ参上)」というフレーズは、キルロイではない数多くの他人がキルロイのふりをしてあちこちに落書きするところにおもしろみがあるので(逆にいうと、その一点にしかおもしろみはない)、ブルックス本人が「Brooks Was Here(ブルックス参上)」と書いても、それはごくありふれた落書きにすぎない。これを捩りというなら、古今東西、この世の多くの落書きが該当してしまうだろう。こうした「So-and-so Was Here(だれそれ参上)」式の落書きは、古代ローマのポンペイ遺跡でも複数見つかっている。

〔The Writing on the Wall - AD79eruption〕 "Daphnus was here with his Felicla." "Staphylus was here with Quieta." "Aufidius was here." "Gaius Pumidius Dipilus was here on October 3rd 78 BC." "Satura was here on September 3rd." "Floronius, privileged soldier of the 7th legion, was here."
sites.google.com/site/ad79eruption/the-writing-on-the-wall

◆ 冒頭の画像に戻って、「BROOKS WAS HERE」の場合は、これを「ブルックス参上」と訳すのはちとまずいかもしれない。というのも、ブルックスはムショ暮らし50年の老人で、仮出所できたはいいものの社会復帰に失敗して、「BROOKS WAS HERE」と刻んだその直後にその部屋で自殺してしまうのであったから。たしか字幕は「ブルックスここにありき」だった。

◆ オクラホマ州の田舎のガソリンスタンドのトイレの落書き。

◇  私がトイレで見つけた落書きは、人類史上最も有名で最も多くの場所に書かれた落書きかもしれない。アメリカ人が書いた落書きとしてなら間違いなく歴史上最も有名で最も多くの場所に書かれた落書きだ。それは、"Kilroy was here" という落書き。〔中略〕
 ところで、この落書き "Kilroy was here" を日本語に訳すとどうなるか? 直訳すると、″キルロイはここにいた"、もしくは "キルロイはここに来た" となる(もちろん、キルロイは人の名前だ)。英和辞典では、昔も今も "キルロイ参上" と訳しているものが多い。そうした辞典の編者の方々には大変申し訳ないが、私は "キルロイ参上" という訳が適切とは思っていない。この落書きを書いたアメリカ人のことを考えると、どうしても適切とは思えないのだ。

向井万起男『謎の1セント硬貨』(講談社,p.161)

◆ 大変申し訳ないが、ワタシは "キルロイ参上" という訳が適切ではないという理由がよくわからない。どうしてもよくわからないのだ。続きを読もう。〔画像は同書から(ただし、ガソリンスタンドのトイレの落書きではない)〕

◇  第二次世界大戦のとき、連合軍の一員としてヨーロッパ戦線で戦った大勢のアメリカ兵たちは、自分たちが到着した場所に "Kilroy was here" と書きまくった。アッチャコッチヤ、ホントにいたるところに書きまくった。いつ、誰が、どうして書き始めたのかはわからない。キルロイが一体誰なのかもわからない。正体不明もしくは架空の人物と考えるのが普通のようだ。でもアメリカ兵たちは、そんなことは気にもせずに書きまくったらしい。何故かはわからないが誰かが書き始めたのだろう。それがアメリカ兵たちの間で噂として広まったのだろう。それを面白いと思ったアメリカ兵たちは、自分たちが到着した場所に同じ言葉を書きまくるようになったのだろう。で、私が適切と思う訳は、"キルロイ参上" ではないのだ。キルロイは日本人ではないのに、"鞍馬天狗参上" みたいに "参上" はないだろう("鞍馬天狗参上" の意味がわからない人はトシいった男性に訊いて欲しい)。私なら、"キルロイは来たぜ" と訳す("キルロイはここに来たぜ" ではチョツト長いし、不粋だ)。この訳の方が若いアメリカ兵たちの気分に合っていると思う。まぁ、日本語に訳したりせずに "Kilroy was here" のままが一番イイんだろうけど。
Ibid., p.161-162

◆ ワタシは「キルロイ参上」の「参上」が謙譲語の一種だから不適当なのかとも思ったが、そうではなくて、「キルロイは日本人ではないのに、"鞍馬天狗参上" みたいに "参上" はないだろう」というのが適切ではない理由だそうだ。ようするに、あまりにも古めかしいということを言っているのだろうか。たしかにそれはそうだ。あるいは、「参上」だと「いまここに」という臨場感がありすぎて、「was」のもつ過去形のニュアンスに欠けるということだろうか。それもそうかもしれない。「参上」に代わる、もう少し日常的で落書きに適したコトバがあればいいのだが、なかなか見つからない。で、適当な訳としてあげられているのが「キルロイは来たぜ」。ワタシは落書きに「キルロイは来たぜ」はないだろうと思うけどなあ。辞書のこの項の執筆者が、どういう考えで「参上」という訳語をあてたのかはしらないけれども、参上というコトバのイメージで脳裏に浮かんでいたのは、おそらく鞍馬天狗のセリフではなくて、暴走族かなにかの落書きだろうと思う。落書きは話し言葉ではなく書き言葉なのだ。英語の場合はその差はほとんどないのかもしれないが、日本語の場合はその差がかなりあるだろう。話し言葉をそのまま落書きにするわけにはいかない。とはいえ、「××参上」という落書きもあまり見かけなくなった。そのうち、「××は来たぜ」という日本語の落書きを目にする日が来ないともかぎらない。

◆ ところで、もし鞍馬天狗が壁にスプレーで「鞍馬天狗参上」と落書きしたとしたら、これを英語に訳すにはどうすればいいか? ワタシなら、"Kurama-Tengu was here" と訳す。鞍馬天狗はアメリカ人じゃないのに、とは言わないでおこう。

  西域

◇ 中央アジアの古い都市の回教寺院の塔の頂は申合わせたように青い。空の青さとも海の青さとも異った一種独特の人間の心を吸い取ってしまうような深い青さなのである。沙漠の旅行者は、また沙漠の都市の住人は、この青さを眼にすることなしには、その日その日を送れなかったのであろう。この塔頂の青さはおそらく沙漠で生きる人たちが生きるために、どうしても必要なものであると思われる。沙漠の旅行者は遠くからこの青い陶板で包んだ塔の頂を眺め、そしてそれに吸い込まれるようにして城門を持った聚落(しゅうらく)へはいって行ったのであろう。
井上靖『西域物語』(新潮文庫,p.17)

◆ 井上靖『西域物語』。これも実家の父の本棚にあった一冊。たしか、これは「ワタシの本」だった。懐かしくなってパラパラとページをめくる。高校生だった。ほかにも、氏の『桜蘭』や『敦煌』を読んで、シルクロードにひそかに憧れた。もはやタイトル以外にはなんの記憶も残っていないのが、ちょっと悲しい。それから、ちょっと悲しいことが、もうひとつ。『西域物語』の「序章」の冒頭。

◇ 私は学生時代に西域(せいいき)というところへ足を踏み入れてみたいと思った。本当に西域に旅行できないものかと考えた時代がある。西域という言い方は甚だ漠然としたものであるが、これは中国の古代の史書が使っている言い方で、初めは中国西方の異民族の住んでいる地帯を何となく総括して、西域という呼び方で呼んだのである。だから昔は、インドもペルシャも西域という呼称の中に収められていた。要するに中国人から言えば自国の西方に拡がっている未知の異民族が国を樹てている地帯を、何もかもひっくるめて西域と呼んだのである。だから西域という言葉の中には、もともと未知、夢、謎、冒険、そういったものがいっぱい詰め込まれてある。その後インドやペルシャは西域とは呼ばなくなり、西域というと専ら中央アジアに限定するようになって今日に到っている。
Ibid., p.8

◆ なんと「西域」には「せいいき」とルビが振られているではないか! ああ、「西域」は「せいいき」と読むのであったか! ワタシは「さいいき」とばかり思っていた! さきに「タイトル以外にはなんの記憶も残っていない」と書いたが、そのタイトルの読み方さえ間違って記憶していたとは! 「ちょっと」というのは強がりで、ほんとうは「たいへん」悲しい!

◆ と、このルビに気がついたときには、そう思ったのだが、冷静になって考えると、当時は「せいいき」と憶えていた可能性もある。あるいは、読み方などどうでもよかったのかもしれない。現在にいたるまで「西域」の読みを問われたことなど一度もないので考えもしなかったが、「せいいき」だと言われても、とくに違和感はない。すぐ慣れてしまう。ET VICE VERSA。

◆ 復習:「西」という漢字、呉音では「サイ」と読み、漢音では「セイ」と読む。たとえば、「東西(トウザイ)」の「ザイ」は呉音で、「北西(ホクセイ)」の「セイ」は漢音。

〔ケペル先生のブログ〕 作家の陳舜臣が朝日新聞に「西域余聞」を連載していたころ、タイトルについて、読者から、「西域」を「さいいき」と読むのか、「せいいき」と読むのか、という質問が一番多かったそうである。陳は「読みたいように読んでもらうほかない。個人によって読み方が異なる。おもに仏教関係者は「さいいき」と呉音で読み、歴史学者は「せいいき」と漢音で読むのがふつうである」といっている。そういえば世界史辞典などでは西域(せいいき)とあるのがふつうである。
http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-e382.html

〔「西域」の読み方は? | ことば(放送用語) - 放送現場の疑問・視聴者の疑問 | NHK放送文化研究所〕 「西域」は、中国人が自分たちの西方の地域や諸国を総称したことばです。狭義には現在の中国西部の新彊<きょう>・ウイグル自治区方面をさします。読み方には(1)[サイイキ](2)[セイイキ]の両方あり、辞書類の扱いをみても(1)を採るもの(2)を採るもの、両方を採るものとマチマチです。しかし、歴史・文化部門の用語としては、古くから[サイイキ]と読まれ、東洋史などの専門家の慣用的な読みは[サイイキ]です。また、同音語の「聖域」[セイイキ]との混同が避けられるということからも、「西域」を歴史的な用語として放送で使う場合には、[サイイキ]と読んでいます。ただし、現在の新彊<きょう>・ウイグル自治区方面を主にさして言う場合は、[セイイキ]と読んでもよいことにしています。
www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/gimon/094.html

◆ なるほどなるほど、よくわかった。混乱していることがよくわかった。そういえば、陳舜臣の『西域余聞』も読んだことがある。これまたタイトル以外にはなにも憶えていない。今度、実家に帰ったら、読みなおしてみよう。

◆ 東京駅の赤帽。伝さんは、ミステリー仕立ての短篇のなかの人物。

◇  赤帽の伝さんは、もうしばらく前から、その奇妙な婦人の旅客達のことに、気づきはじめていた。
 伝さんは、東京駅の赤帽であった。東海道線のプラット・ホームを職場にして、毎日、汽車に乗ったり降りたりするお客を相手に、商売をつづけている伝さんのことであるから、いずれはそのことに気がついたとしても不思議はないのであるが、しかし、気がついてはいても伝さんは、まだそのことについて余り深く考えたことはなかった。

大阪圭吉「三の字旅行会」(『新青年』1939〔昭和14〕年1月号; 青空文庫

◆ 山崎明雄さんは実在の人物。東京駅最後の赤帽。

◇  赤帽も長くやっていると、そこから社会の変わり様が見えてもくるのです。
 私の新米時代は、風呂敷包みがずいぶんとあったものです。絹やちぢみ模様のある上品な体裁のものではありません。俗に一反風呂敷という大判なもので、唐草模様の入った実用一点張りのものです。
 風呂敷は便利なもので、包まれる品物の形に合わせて包み込めるので、かさばらなくてすむのです。
 鹿児島から桜島大根をお土産にして上京したお客さんがいました。ダンボール箱に入れて、全体を風呂敷でくるんであるのです。ダンボールだけでは底が抜ける危険がありますし、とても持ちにくい。長方形で高さもそれなりにあるので、抱えにくいのです。抱きあげるように、胸の前あたりで持つのですが、これでは荷物ひとつでいっぱいになってしまいます。
 風呂敷で包んであれば、結び目がしっかりしているか確認して、大丈夫ならばそこを掴めば片手で用が足ります。振り分け荷物にすれは、両手が使えます。風呂敷は実に便利な日用品なのです。
「つづら」も、姿を見なくなったもののひとつです。若い人には「つづら」と言っても、通じないことさえあります。竹やヒノキのうす板を編んだうえに紙を張った箱で、衣類入れに使ったものです。
 同じようなもので茶箱があります。これは、お茶の輸送に使い、湿気を防ぐために内側に錫が張ってあります。大切なもの、湿気をきらうものを納めて運ぶのに適していて、人が入れるほどの大きさのものもありました。
 逆に、通気性を保つのに便利なのが、柳行李です。これは、柳の枝などで編んだ一種の箱で、旅行の時の衣類入れです。行李そのものが軽いので、旅行にはうってつけなのです。これなどもすっかりと見なくなってしまいました。
 学生の入学時期、つまり、四月が近づくとふとん袋を持った旅客がふえたものでした。親御さんが持って上京するケースが多いようです。厚い布製の袋で、たたんだふとんをヒモでロを閉じるようになっていました。赤玉印と言えば、そのままふとん袋を指すほど一般的なものでした。ベッドの生活が主流になったせいでしょうか、これも目にしなくなりました。
 こうした物が姿を消したのは、やはり、オリンピック以後のようです。

山崎明雄『思い出背負って―東京駅・最後の赤帽』(栄光出版社,p.82-84)

◆ いつのまにか見かけなくなってしまったもの。唐草模様の一反風呂敷、つづら、茶箱、柳行李、赤玉印のふとん袋。赤帽。

  赤帽

◇ 「ぼくたちも降りて見ようか」ジョバンニが言いました。
「降りよう」二人は一度にはねあがってドアを飛び出して改札口へかけて行きました。ところが改札口には、明るい紫がかった電燈が、一つ点いているばかり、誰もいませんでした。そこらじゅうを見ても、駅長や赤帽らしい人の、影もなかったのです。

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』(青空文庫

◆ 鉄道の駅の「駅長や赤帽」、駅長を知らないひとはいないだろうが、いまでは「赤帽」に下線を引いてこの語に説明を加えなければならないのではないだろうか。〔画像は山崎明雄『思い出背負って―東京駅・最後の赤帽』(栄光出版社)カバーより〕

赤帽(あかぼう) 駅構内において旅客から依頼された手回り品荷物を運搬する人。ポーターporterともいう。識別のため小判形の赤い帽子を着用しているところからこうよばれる。〔中略〕 旅装の簡易化や手押し車の普及で赤帽は激減し、2000年には上野駅で、2001年には東京駅で廃止された。
小学館『日本大百科全書』

〔Wikipedia:ポーター (鉄道)〕かつては日本でも他国と同様、全国各地の主要駅に常駐していたが、宅配便の普及などもあって旅客が持つ手荷物の分量が少量化したことで需要が減少したため、現在は日本の鉄道で赤帽が常駐している駅は無くなった。最後まで赤帽が常駐していたのは岡山駅で、運搬料は大小にかかわらず荷物1個500円であった。
ja.wikipedia.org/wiki/ポーター (鉄道)

◆ 《Wikipedia》によると、岡山駅には2006(平成18)年まで赤帽がいたらしい。当然ながら昭和10年の岡山駅にもいた。

◇  岡山のホームには赤帽が幾人も待機していて、寝台係が下ろしてくれた私たちのトランクをかついだ。
 当時の旅客は荷物が多かった。今日の海外旅行ぐらいの荷物を携えていた。国内旅行でも、持って行く土産物、もらって帰る土産物も多く、すべて大がかりであった。それは旅行者の数が少ないことのあらわれでもあった。〔中略〕 だから、旅行のできる恵まれたごく一部の人たちが、旅行できない親類や知人のために土産物を運んでいるような観もあった。
 今日ではチッキや赤帽を利用する人は稀であるが、当時は、持ちきれない荷物は発駅の手荷物窓口で乗車券を提示して別送し。着駅で受けとるという「チッキ」の制度は、旅行者にとって欠かせないものであった。それでもなお手回り品が多く、赤帽の世話になる人が多かったのである。
 これは旅行者の荷物の多寡だけによるのではなしかもしれない。昭和のはじめは労働力が余っていたし、荷物などを自分で持つのを潔しとしない人も多かったのだろう。

宮脇俊三『増補版 時刻表昭和史』(角川文庫,p.60-61)

◆ 大正の猫の例。

◇ 春から夏に移るころであったかと思う。ある日座敷の縁の下でのら猫が子を産んでいるという事が、それを見つけた子供から報告された。近辺の台所を脅かしていた大きな黒猫が、縁の下に竹や木材を押し込んである奥のほうで二匹の子を育てていた。一つは三毛でもう一つはきじ毛であった。
 単調なわが家の子供らの生活の内ではこれはかなりに重大な事件であったらしい。猫の母子(おやこ)の動静に関するいろいろの報告がしばしば私の耳にも伝えられた。
 私の家では自分の物心ついて以来かつて猫を飼った事はなかった。第一私の母が猫という猫を概念的に憎んでいた。親類の家にも、犬はいても飼い猫は見られなかった。猫さえ見れば手当たり次第にものを投げつけなければならない事のように思っていた。ある時いた下男などはたんねんに繩切れでわなを作って生けがきのぬけ穴に仕掛け、何匹かの野猫を絞殺したりした。甥のあるものは祖先伝来の槍をふり回して猫を突くと言って暗やみにしゃがんでいた事もあった。猫の鳴き声を聞くと同時に槍をほうり出しておいて奥の間に逃げ込むのではあったが。
 そんなようなわけで猫というものにあまりに興味のない私はつい縁の下をのぞいて見るだけの事もしないでいた。

寺田寅彦「ねずみと猫」(『思想』1921〔大正10〕年11月号; 青空文庫

◆ 昭和の猫の例。

◇  私の家には現在猫が十匹いる。どうしてそんなに猫がふえたのかというと、今から七年ほど前に一匹のメス猫が私の家へ舞い込んでお産をした。それを発見してあわてて魚屋の若い衆を頼んで子猫を海に棄ててもらった。親猫も飼うつもりはなかったが、お産をしたばかりだのにすぐ追い出すのもかわいそうだと牛乳をやったり魚をやったりしているうちに、彼女が居すわってしまったのだった。もともとどこかの飼い猫であったのが、飼い主が転居するか何かで捨てられたという境涯で、私の家ヘネライをつけて来たのに相違なかった。
 この地方では金沢猫とも呼ぶ、一種のキジ猫であった。伝説によると鎌倉時代に宋の船がこの猫を三浦半島の金沢へ持ってきた。その種がこの地方にふえたのだという。私の家へ来たメスは素晴らしいグラマーで美貌の点でも京マチ子以上だった。それが次々と子を生んだ。それが現在私の家にいる猫たちである。これ以上生まれては困るので土地の獣医さんに頼んで去勢をしてもらうと、運悪くその獣医さんは初めての手術とかで、親猫は腹をたち割られたままたちまち死んでしまった。息を引とる寸前に椅子にかけていた私の膝の上ヘピョンと飛び上がってそのまま死んでしまった。私は大声を放って慟哭した。私か泣いたのは長男が死んだ時と、昔愛人が死んだ時と、その次がこの猫が死んだ時と、三回だけである。
 母なしになった子猫たちを私の家では飼い出した。数回に生んだ同胞たちだから実際はもっとあったのだが、よそへやったのもあり、死んだのもあって、八匹だけが残った。そこへよそから舞い込んできた奴が二匹あって、現在十匹いるわけである。

松村梢風「猫料理」(『あまカラ』1958〔昭和33〕年10月号; 高田宏編『「あまカラ」抄 1』,冨山房百科文庫,p.207-208)

◆ それから、平成の猫の例。

◇  こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている。世の動物愛護家には、鬼畜のように罵倒されるだろう。動物愛護管理法に反するといわれるかもしれない。そんなこと承知で打ち明けるが、私は子猫を殺している。
 家の隣の崖の下がちょうど空地になっているので、生れ落ちるや、そこに放り投げるのである。タヒチ島の私の住んでいるあたりは、人家はまばらだ。草ぼうぼうの空地や山林が広がり、そこでは野良猫、野良犬、野鼠などの死骸がころころしている。子猫の死骸が増えたとて、人間の生活環境に被害は及ぼさない。自然に還るだけだ。
 子猫殺しを犯すに至ったのは、いろいろと考えた結果だ。
 私は猫を三匹飼っている。みんな雌だ。雄もいたが、家に居つかず、近所を徘徊して、やがていなくなった。残る三匹は、どれも赤ん坊の頃から育ててきた。当然、成長すると、盛りがついて、子を産む。タヒチでは野良猫はわんさかいる。これは犬も同様だが、血統書付きの犬猫ででもないと、もらってくれるところなんかない。
避妊手術を、まず考えた。しかし、どうも決心がつかない。獣の雌にとっての「生」とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか。その本質的な生を、人間の都合で奪いとっていいものだろうか。
 猫は幸せさ、うちの猫には愛情をもって接している。猫もそれに応えてくれる、という人もいるだろう。だが私は、猫が飼い主に甘える根元には、餌をもらえるからということがあると思う。生きるための手段だ。もし猫が言葉を話せるならば、避妊手術なんかされたくない、子を産みたいというだろう。
 飼い猫に避妊手術を施すことは、飼い主の責任だといわれている。しかし、それは飼い主の都合でもある。子猫が野良猫となると、人間の生活環境を害する。だから社会的責任として、育てられない子猫は、最初から生まないように手術する。私は、これに異を唱えるものではない。
 ただ、この問題に関しては、生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めずにすむ。そして、この差の間には、親猫にとっての「生」の経験の有無、子猫にとっては、殺されるという悲劇が横たわっている。どっちがいいとか、悪いとか、いえるものではない。
 愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。獣にとっての「生」とは、人間の干渉なく、自然の中で生きることだ。生き延びるために喰うとか、被害を及ぼされるから殺すといった生死に関わることでない限り、人が他の生き物の「生」にちょっかいを出すのは間違っている。人は神ではない。他の生き物の「生」に関して、正しいことなぞできるはずはない。どこかで矛盾や不合理が生じてくる。
 人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。生まれた子を殺す権利もない。それでも、愛玩のために生き物を飼いたいならば、飼い主としては、自分のより納得できる道を選択するしかない。
 私は自分の育ててきた猫の「生」の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した。もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである。

坂東眞砂子「子猫殺し」(「日経新聞」2006〔平成18〕年8月18日夕刊)

◆ もしも口がきけるなら、猫の意見も聞いてみたい。友人の猫は、とつぜん昨日からしゃべり始めたそうだ。