MEMORANDUM

◆ 咳をしても一人。べつに風邪をひいているわけではない。ふと尾崎放哉の有名な自由律俳句を思い出しただけのこと。なぜ思い出したのかというと、面倒だからはしょって書くが、相撲のことを考えていたら、放哉が出てきたというわけ。相撲といっても国技館でやってるような相撲ではなく、一人相撲。一人相撲のことを考えていたら、放哉が出てきて、「相撲をしても一人」と言った。それを受けてワタシが「恋をしても一人」と言うと、ニヤリと笑って放哉が消えた。

◆ 咳はひとりでもできるが、いや、むしろひとりでするものだが、ひとりで相撲を取ることはできない。一人相撲はそもそも相撲ではない。「双子の一人」はありうるが、「一人の双子」はそもそも双子ではない。

◇ ひとりずもう【一人相撲/独り相撲】
(1)二人で相撲をとっているような所作を一人でしてみせること。また、その芸。神事・大道芸として行われた。
(2)相手がないのに自分だけで気負い込むこと。また、実りのない物事に必死で取り組むこと。「むなしい―をとる」

小学館「大辞泉」

◆ 1の意味は、いまどきのコトバで言えば「エア相撲」か。見えないだけで、相手はいるのだ。

◆ 同様に、ひとりで喧嘩をすることはできないし、ひとりで恋をすることはできない。どちらも相手が必要である。いや、片思いという意味でなら可能だが、相手のいない恋はできない。

◆ ひとりで手紙を書くことはできるが、ひとりで文通することはできない。ひとりでオナニーはできるが、ひとりでセックスはできない。ふたりでするオナニーはセックスではなく、二人オナニーである。

◆ 世の中にはいろんなことがあるが、「ひとりでしかできないこと」と「ふたりでしかできないこと」のどちらかしかない。3以上はないと思う。

◆ 死ぬのはひとりだ。「心中」はひとりではできないが、コトバに惑わされてはいけない。ふたりでひとつの死を死ぬことはできない。そこにはふたつの死が残されるだけだ。

◆ 最近、喫茶店などで、カップルが会話もせずにそれぞれスマートフォンをいじったりゲームをしたりしているのをよく見かける。これを一言で表す便利なコトバをワタシはまだ知らない。

◆ ストーカーというコトバもふと思い出したので、よくはわからないが、きっとこのあたりのハナシに関連があるのだろう。

◆ 夜も更けてきた。

◇ 「兄弟のことは難しいですな。結局私はなんのお役にも立てませんでしたよ」
なかにし礼『兄弟』(文春文庫,p.341)

◆ という文章を読んで、毎回「結局私はなんのお役にも立てませんでしたよ」という主人公のセリフで終わるシリーズ物のテレビドラマはどうだろう、と思った。主人公はやはり熱血漢の弁護士だろうか。いや、ニヒルなほうがいいか。あるいは、マヌケな探偵のがいいか。とにかく、依頼者にくるりと背を向け去ってゆく。そこでエンディングテーマが流れだす。きっと名セリフになるんじゃないかな。などと、テレビもないのにつまらぬことを。

◆ ちなみに、引用したなかにし礼の自伝的小説は、そこで終わらない。まだまだ続く。が、ワタシは続きを読まない。空想を続けたほうがおもしろそうだから。

◆ 「日刊ゲンダイ」(おやじしか読まない夕刊タブロイド紙)に、韓国五輪代表フィジカルコーチという肩書きを持つ人がしばらくエッセーを書いている。そのなかに、

◇ 「選手から《セイゴーさん》と呼ばれていたのですが、いつからか《アイゴーさん》に変わりました。アイゴーの意味が分からなかったので通訳に聞いてみたら、『嘆くときに感嘆詞として使う』と教えてくれました。相当に練習がキツかったようですね。意味が分かった瞬間、つい笑ってしまいました」
池田誠剛「日韓サッカーの狭間に揺れて 5」(「日刊ゲンダイ」2013年1月12日付)

◆ 「日刊ゲンダイ」と言えば、五木寛之が1975年の創刊時から「流されゆく日々」というコラムを書き続けていて、もう9000回を越えている。以下の文章は「日刊ゲンダイ」とは関係がないが、「アイゴー」とは関係がある。

◇  平壌の競馬場は、それほど大きなものではなかった。それだけに、観客の数も少なく、空気はきれいで平和ないい遊び場だった。向う正面のアカシアの花の下を、原色の騎手の帽子がチラチラ見え隠れに走る風情は、抒情的な風景でさえあった。
 なにぶん子供の頃のこととて、具体的な数字も何も記憶に残ってはいない。ただ、ゴール寸前で、それまで悠々とトップを走っていた馬が不意に崩れるように転んだ時、そばの朝鮮人の老人が、「哀号!」という絶えいるような叫びをあげた、その声だけを良く憶えている。
 この「哀号」という叫びを、その後、私は何度きいただろうか。
 一度は、関釜連絡船(下関-釜山間)の長いブリッジの上で、私服の官憲に連れの男を引き立てられて行く白衣の美しい娘の号泣として聞いた。
 また、ある時は、一尺ちかい魚を、手もと寸前ですくいそこねた少年の叫び声としても聞いた。話はそれるが、ポーカーや、麻雀や、花札などのゲームで。千慮の一失というべき失策をやらかした時など、思わず「哀号(アイゴー)!」と呟いて相手に変な顔をされることがある。そんな場合に、実にぴったりな感じなのだ。

五木寛之『風に吹かれて』(1968; 新潮文庫, p.145)

◆ この「アイゴー」という感嘆詞を枕に、もう少しハナシをふくらませてみようと思って、《Wikipedia》を見てみたら、

〔Wikipedia:アイゴー〕 アイゴー (아이고) は朝鮮語の感嘆詞。元々は朝鮮語固有の語であるため、本来漢字表記は存在しない。古い書籍などでは漢字で「哀号」と書かれているものもあるが、日本で作られた当て字である。哀号を朝鮮語読みにすると애호(エホ)になる。
ja.wikipedia.org/wiki/アイゴー

◆ なんだ、「哀号」というのは当て字だったのか。これでふくらむはずのハナシがなくなってしまった。アイゴー!

◇ ウミネコが鳴いた。もちろんニャーではない。ワンと鳴いたのだ。

◆ さきほどトイレにこもっていたときに、なぜだか思いついた文章。ウミネコという名の犬がどこかにいないともかぎるまい。半年ばかしココをほったらかしにしているまに、年も明けた。さしたるあてもなにもなく、なんとなくまたなにかを書き始めるにあたっては、これくらいのだらけた文章がちょうどいいのではないかと思った次第。今年もよろしくお願いします、とだれにあてるわけでもなくヒトリゴト。

  cardinal

◆ カーディナルという鳥がいる。「cardinal」で Google 画像検索すると、真っ赤っ赤。赤い鳥。赤鳥(redbird)。ショウジョウコウカンチョウ。

◆ よく見ると、赤鳥に混じって、ニンゲンがひとり。カーディナルという鳥がいて、カーディナルと呼ばれる人がいる。a cardinal among cardinals、カーディナルのなかにカーディナルがひとり。ショウジョウコウカンチョウのなかに枢機卿がひとり。

◆ 「cardinal+catholic」で Google 画像検索すると、これまた真っ赤っ赤。でも、カーディナルのなかにカーディナルはいない。ショウジョウコウカンチョウはいない。いるのは枢機卿。

◆ ミズーリ州セントルイスにカージナルスという大リーグの野球チームがある。でも、選手に枢機卿はひとりもいない。ローマンカトリック・カージナルスという野球チームは、ローマにも世界のどこにもないだろう。

◆ キティちゃん。KITTY ちゃんのような KATTY ちゃん。キティちゃんには似ていない KITTY(2匹いるので、KITTIES とすべきか)。

◆ 『ジーニアス英和辞典』(大修館書店)で「kitty」を引くと、

kitty n. /kíti/ 【名】【C】
1 ((小児語))ニャンコ,子ネコ(kitten)《◆呼びかけも可》.
2 ふしだらな娘.

◆ とある。「呼びかけも可」という注釈が、そのまま「HELLO KITTY」の由来の説明であるようにも思えておもしろい。

◆ ネコの幼児語としては pussy という語もあるが、「HELLO PUSSY」というキャラクターがあったとして、それがどのようなものになるかについては、容易に想像がつくだろう。

◆ さらに、「GOODBYE KITTY」というキャラクターがあったとして、それがどのようなものになるかについても、容易に想像がつくだろう。これはちょっと怖い。

◇  「チャーリー・ブラウン。たったいま信じられないようなフットボールの試合を見たよ」。ある日曜日、ライナスがこう言う。
 「見事な反撃だった。ホームチームは6対ゼロで負けていて、残り時間は3秒。ボールは味方の1ヤードのラインの上……クォーターバックがボールをとって味方のゴールポストの後ろヘフェードバックして、完璧なパスをレフトエンドに送った。彼は4人の相手をかわして独走しタッチダウンさ! ファンは気が狂ったようになったね。きみにも見せたかったよ! みんな、飛んだり跳ねたりしてた。エキストラポイントを入れたら、何千人もの観客が笑ったり叫んだりしながらフィールドになだれ込んだ。ファンも選手たちもうれしさのあまり、地面を転がりまわるわ、抱き合うわ、踊るわ、の騒ぎさ! ほんとにすごかった!」
 チャーリー・ブラウンの答え。「相手チームはどんな気持ちだったかな」(引用は谷川俊太郎訳)

リタ・グリムズリー ジョンス・『スヌーピーと生きる ― チャールズ・M・シュルツ伝』(朝日文庫,p.67)

◆ これも、とくに書き加えることはなにもないのだが、せっかくだから、すこし書く。スリルとサスペンスというようなことで考えると、ライナスのセリフは長ければ長いほどいい。これをさらにさらに延長して、どんな本でも、その本の最後にチャーリー・ブラウンの「相手チームはどんな気持ちだったかな」というセリフを勝手に付け加えてみるのはどうだろう。小説を書く人なら、書き終わった小説の「完」のページのその裏に、「相手チームはどんな気持ちだったかな」というセリフに相当する、その小説に合った適当なコトバを考えて、1行さりげなく記しておく。小説を書かないふつうの人なら、買ってきた本を読み始める前に、自分でそのようにする。まあ、そんな具体的なことまで考えなくてもいいのだけれども、とにかく、このチャーリー・ブラウンのコトバには、それ以外の一切合切をひとつの大きな「カギカッコ」に封じ込めてしまう、とんでもない威力があるだろうと思う。そういえば、

◆ と思い出してしまったのだが、高校生のころに『エンドレス・ラブ』という映画(いま調べると、日本公開は1981年12月5日)をカップルで観に行った同級生がいた。そういえば、ワタシがはじめて女性と観に行った映画は、なぜだか『がんばれ!! タブチくん!!』だった(1979年11月10日公開)。で、『エンドレス・ラブ』を見終わったあとに、男が女にこういったらしい。「終わらない恋愛なんてない」(正確なセリフは関西弁なので「~あらへん」だったかもしれないが)。女がどういう返事をしたのかはしらない。そもそも男のほうも冗談のつもりだったのだろう。あるいは大人の振りをしてみたかったのかもしれない。その男はワタシの友人だったが、その後その女性と別れて、自らのコトバを実証した。その女性がその次につきあったのが、ワタシだったのだが、これはもうチャーリー・ブラウンとはなんの関係もないハナシである。いやはや、妙なことを思い出してしまった。