◆ 関川夏央(1949年11月25日、新潟県長岡市生まれ)の1964年。都はるみ、など。 ◇ わたしは日本海沿岸の小都市で思春期を送ったのだが、例にもれず、はるみは嫌いだった。下品だと思った。 ◆ 1964年1月3日、石原裕次郎主演の日活映画『赤いハンカチ』公開。3月10日、都はるみ、「困るのことョ」でデビュー(16歳)。10月5日、都はるみ、「アンコ椿は恋の花」(作詞:星野哲郎、作曲:市川昭介)発売。10月24日、東京オリンピック閉会式。12月26日、都はるみ、レコード大賞新人賞を「アンコ椿は恋の花」で受賞。 |
◆ 「玉下駄・駒下駄」という記事を書いたが、下駄についてはなにも知らない。玉下駄というのはどんな下駄だろうと思うくらいになにも知らない。下駄箱にいれる下駄は一足もない。そもそも下駄をいれる下駄箱がない。でも、下駄はいいものらしい。 ◇ さらに下駄には次のような効用がある。下駄は足の指に自由を与える。水虫なんかに負けないぞという自信を育てる。こうなればしめたもの、潮干狩に連れてゆくと、足は大いに張り切り、アサリを次々と探し出す。しゃがまなくてもよいから効率がよい。顔は潮風に吹かれていればよい。さらに下駄はちびて表札となり、最後まで人のためになる。 ◆ 表札となった下駄、これはぜひいちど見てみたい。 |
◆ 兎追いし「故郷」の2番。 ♪ 如何(いか)にいます 父母 ◆ まったくもって難解な日本語だ。 ◆ 「つつが(恙)」とは、病(やまい)のことで、「つつがない」とは、病んでいない、元気である、という意味だということは知っていても、「つつがなく暮らしております」というような手紙ひとつ書いたことがあるわけでもなく、このコトバを使った記憶がない。 ◆ そういえば、「つつがない」の用例で有名なのがあった。遣隋使が煬帝に届けた国書。 ◇ 日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや。 ◆ と書いてはみたが、日本史の知識がほとんどないのであとがつつがない、いや、つづかない。それよりも、「つつが」といえば、「ツツガムシ(恙虫)」を思い出してしまう。 ◇ 〔Wikipedia:ツツガムシ病〕 手紙などで、相手の安否などを確認する為の常套句として使われる『つつがなくお過ごしでしょうか…』の『つつがなく』とは、ツツガムシに刺されずお元気でしょうかという意味から来ているとする説が広く信じられているが、これは誤りである。 ◆ えっ、そんな説が「広く信じられている」とは、ちょっとびっくり。ツツガムシとはダニの一種。 ◆ 「如何にいます 父母」の部分の替え歌にこんなのも。 ◇ 〔コトノハ〕 イカに居ますアニサキス~♪ ◆ いや、これは傑作。ツツガムシにアニサキス。どちらも寄生虫。 ◇ 〔Wikipedia:寄生虫〕 寄生の部位によって、体表面に寄生するものを外部寄生虫、体内に寄生するものを内部寄生虫という。寄生虫と言ったときは、おもに内部寄生虫のことを意味することが多いが、外部寄生虫のダニなどを含めることがある。 ◆ ツツガムシは外部寄生虫。アニサキスは内部寄生虫。寄生虫といえば、《目黒寄生虫館》。この寄生虫館の定期刊行誌のタイトルがふるっている。「むしはむしでもはらのむし通信」。最新号(第190号)の表紙はアカツツガムシで、「ツツガムシとつつが虫病」という記事もある。ツツガムシ特集ということか。ちょっと読んでみたくなった。 ♪ ツツガムシや アニサキス |
◆ なつかしいおともだちの石公さんが、こうつぶやいていた。 ◇ 「そりゃおどろいた、玉下駄、駒下駄」などと祖母がおどけていたのを、向かいの座席の和装の女性の雨用のカバーのついた下駄を見て思い出した@横須賀線。やはり雪の日は下駄ですよね、二の字、二の字の跡のつく ◆ みごとな「無駄口(付け足し言葉)」。東京にはたしかに文化があったんだな、と思う。蛇足ながら、「雪の朝 二の字二の字の 下駄の跡」の句を田捨女が詠んだのは、わずか6歳のときだというから驚く。ほんとかな? |
◆ 子どもがテーマのアンソロジーのタイトルに『兎追いし日々』というのは、悪くはないだろう。編者のいうように、 ◇ すべての大人たちが、一度はあの精彩あふれる『兎追いし日々』を体験した ◆ のだとすれば。 ♪ 兎追いし かの山 ◆ 文部省唱歌の「故郷」。 ◇ どんなにたくさんの人びとが、この歌をうたってきたことだろうか。私なども、時折ひとりでこの歌を口にすると、目がしらが熱くなってくる。 ◆ ひとはみな、それぞれの「兎追いし日々」の懐かしい思い出を心に大切にしまっている。それはそれでいいのだが、この「兎追いし日々」からカッコを取ってみればどうなるか? 「私自身は加賀平野の町の育ちなので、山でウサギを追ったことはない」という高田宏と同じく、ワタシもウサギを追ったことはない。いまでは、ほとんどのひとがそうだろう。いや、むかしから、フナを釣ったことはあるにしても、ウサギを追ったことがあるというひとはそう多くはなかっただろう。ウサギを追おうにも町にウサギはいない。ウサギを追うのは「山村でのこと」なのだから。 ◆ 子どものころに、「兎追いし」を「ウサギ美味しい」とカン違いしていたというひとは多いだろう。 ◇ 〔名曲スケッチ〕 この曲の歌詞「うさぎおいし」は、「ウサギは美味しい」という意味で、「昔の人はウサギを食べていたんだなー」と思っていたとか、あるいは、「うさぎをおんぶすること」という数々の珍解釈?があるようですが、「うさぎ追いし」とは「うさぎを追っかけていた」の意です。 ◇〔進学館ブログ〕 童謡「ふるさと」の歌い出しで、♪うさぎ追いし かの山~♪とありますが、♪うさぎ美味し かの山~♪と勘違いしている人が結構いらっしゃるのではないかと思います。私も高校生ぐらいまでは、「昔はうさぎ狩りが頻繁に行われていて、きっとうさぎ汁が故郷の味だったのだな」と変に誤解しておりました。 ◆ たしかに、「うさぎおいし」は「ウサギを追った」の意味で、「ウサギが美味しい」という意味でない。しかし、「では、どうしてウサギを追うのか?」ということを考えてみるひとは少ないようだ。歌詞が「美味し」ではなく「追いし」だと気づくとすぐに、「昔の人はウサギを食べていたんだなー」とか「昔はうさぎ狩りが頻繁に行われていて、きっとうさぎ汁が故郷の味だったのだな」とかの連想も誤解であると撤回してしまうのは、すこしもったいない気がする。 ◇ 〔ダイヤモンド・オンライン:千石正一 十二支動物を食べる(世界の生態文化誌) ~「卯」を食べる~ 兎美味し彼の山〕 飽食の時代、日本ではウサギというとペットを想起するようで、「ウサギを食べる」というと眉をひそめる反応すら出現しているが、本来ウサギは食用である。私も幼児の頃に、母方の祖父の家を訪れた際、飼育していたウサギを食べ尽くしたことがある。 |