MEMORANDUM

◆ 関川夏央(1949年11月25日、新潟県長岡市生まれ)の1964年。都はるみ、など。

◇  わたしは日本海沿岸の小都市で思春期を送ったのだが、例にもれず、はるみは嫌いだった。下品だと思った。
 一九六四年、はるみがデビューした年にはわたしは中学生だったが、すでにいっぱしのモダニストだった。レイモン・ラディゲと石坂洋次郎を一日おきに読み、日活のアクション映画と純愛映画を一週間おきに見に行った。ややロマンチックな気質を持った当時の少年なら誰でもそうだったのだが、夭折することに少なからぬ関心を抱いていた。二十一歳まで生きのびてしまえば凡人と堕して、十個買えば一個おまけがつくような勤め人の人生を送らなければならないだろうと漠然と考えていたくせに、死ぬのはやはりまっぴらごめんだと内心思っていた。日活映画では、たとえば宍戸錠のセリフの諧謔と射たれかたにモダニストの先達として尊敬を払いながらも、純愛映画を見た夜は、はれて東京で大学生になれたら吉永小百合みたいな娘のいる下宿屋で明るく暮らしたいと夢想したりもした。精神の内部はまったくアンビバレントなままに放置されていたが、中学生の生活などは宿題と試合と思春期の恋の、ホームインのない三角ベースを始終やっていて飽きないものだから、つきつめて考えられる必然性もなかったわけだ。
 歌は石原裕次郎と小林旭の歌謡曲以外には興味がなかった。自転車に乗ったときと風呂のなかでは「赤いハンカチ」ばかり歌っていて、たまに母親にいや味をいわれた。しかし中学生のモダニスト仲間たちヘのみえというものもある。とんがった屋根の家に住む友人の家に集まってよくコカコーラ・パーティをした。あの頃のティーンエージャーはまず例外なくコーラ中毒にかかっていた。そこでかけられる音楽はビートルズやビーチボーイズやアニマルズだった。古典的なベンチャーズの好きなのもいたし、コニー・フランシスに執着しているのもいた。わたしもパット・ブーンやアンディ・ウィリアムズの好きな女の子とつきあっていたから、裕次郎にしびれているんだぜ、とはいいにくい空気があった。実際、ビートルズのおもしろさもわからないではなかった。
 裕次郎が好きなのは、ひとえに日活ムードアクションの影響だった。六四年の正月映画は『赤いハンカチ』だった。わたしはその頃毎週映画館にかよっていた。酒は飲みたくはなかったが、酒場に渋くはまる男になりたかった。ギターは子供心にもちょっとトッポいのではないかと感じたが、せめてピアノのひき語りくらいはこなせるようになりたいと念じた。
 東京オリンピックの閉会式の中継放送を仲間たちと美術教室で眺めながら、これからは日本も自分も国際的にならなければならないと考えたりした。
 日本は若かった。池田内閣は所得倍増の手形を振り出し、西欧諸国からはトランジスタの商人とあなどられていたが、少なくとも来年は今年よりも豊かになると誰もが信じていた。わたしの母親も電気製品の長期的購入計画をたてることを趣味にしていた。植木等が「無責任」を連呼しつづけ「こつこつやるやつァごくろうさん」と衝撃的なテーゼを提出していた。
 オリンピックのあった月に「アンコ椿は恋の花」は発売された。わずか二か月あまりで大きなヒットとなり、都はるみはレコード大賞の新人賞を獲得することになった。田舎から都市ヘ、ダサいところからいまふうのところヘ、パチンコ屋からテレビへというスタイルで都はるみのうなり節は攻めのぼってきた。わたしは自分がかなり都市の側に近いと考えたがっていたから、はるみの歌がムシロ旗のように思え、まったく愉快ではなかった。彼女が巧みに小節をまわす姿をたまたまテレビで見ると、ブスは引っこめと内心でののしった。

関川夏央『東京からきたナグネ』(ちくま文庫,p.219-221)

◆ 1964年1月3日、石原裕次郎主演の日活映画『赤いハンカチ』公開。3月10日、都はるみ、「困るのことョ」でデビュー(16歳)。10月5日、都はるみ、「アンコ椿は恋の花」(作詞:星野哲郎、作曲:市川昭介)発売。10月24日、東京オリンピック閉会式。12月26日、都はるみ、レコード大賞新人賞を「アンコ椿は恋の花」で受賞。

◆ どうして、自動車のナンバープレートなんかを撮ったのかというと、その数字がワタシの生まれた年と同じだったから、という単純な理由。

◆ ワタシの生まれた1964(昭和39)年は、東京オリンピックの年だった。東海道新幹線が開通した年でもある。ほかにもいろいろ。たとえば、

◇ 一九六四年(昭和三十九年)、京都の養蜂業者が新しい蜜源植物としてセイタカアワダチソウに注目し、その種子や苗を全国の希望者に配布したことがあったという。
草野双人『雑草にも名前がある』(文春新書,p.112)

◆ これは数日前に読んだ本で見つけた記述。こんな些細な歴史的事実であっても、それが自分の生まれた年に起こったことだというだけで、気にかかる。こんな風にたまたま読書やなにかで目にした「1964年」を、記録しておくのも悪くはない、そのように思ったことがあったのを、すっかり忘れていた。なんの意味もないのだけれど。