◆ 『その英語、ネイティブにはこう聞こえます SELECT』という文庫本を読んでいたら、"My name is Akiko Tanaka." というのがネイティブには「余の名前はア・キ・コ・タ・ナ・カなり」に聞こえると書いてあって、笑ってしまった。ちょっとやりすぎだろう。せいぜい「田中明子と申します」ぐらいのものだと思うが、ネイティブもいろいろ。著者によると、"I'm Akiko, Akiko Tanaka." というのが正解らしい。 ◇ I'm と短縮形で始める。最初にファーストネームを言い、ひと呼吸おいてから、改めてファーストネームとファミリーネームを告げる。 ◆ すると、"My name is Bond, James Bond." なんてのは、二重に不正解なわけだろう。それはともかく、 ◇ 〔映画.com (2010年4月19日 11:52)〕 米映画サイトMoviefoneが、引用されたり真似されたりすることの多い映画のなかの名台詞・決め台詞のベスト10を発表した。 ◆ 第2位とはスゴイな。せっかくだから、《Moviefone》の原記事も見てみると、 ◇ 〔The Moviefone Blog : The 10 Most Over-Used Movie Catchphrases〕 When you hear this phrase, the person is most likely making a fake gun using their pointer finger and thumb. ◆ "you" に "the person" に "their" ときて、わけのわからなくなる英語だが、"... Bond. James Bond." というセリフを耳にすると、思わず体が反応して、人差し指と親指でピストルを作ってしまう、なんてヤツは世界中のどこにでも転がっているというわけなのだろう。すばらしい。 ◆ あるいは、この名セリフを聞いて、またべつの名セリフを即座に思い浮かべるヤツもいることだろう。ただし、こちらは日本にしか転がっていないが。 ◇ >[名前は]ボンド。ジェームズ・ボンド ◇ >「…Bond, James Bond」(ボンド、ジェームズ・ボンド)「007」シリーズ ◆ これまたすばらしい。それから、こんな記事もあったが、いささか旧聞で、その後どうなったのかはよくしらない。 ◇ 〔映画.com (2008年9月24日 12:00)〕007シリーズで悪役などに名前を聞かれたジェームズ・ボンドは決まって姓から名乗り、「ボンド、ジェームズ・ボンド」と答える。過去にボンド役の6人の俳優が言ってきたこの名フレーズが、最新作「007/慰めの報酬」(11月14日全米公開、09年1月日本公開)から消えるようだ。 ◆ 最新作では、復活したのだろうか? |
◆青空文庫で拾い読み。寺田寅彦「電車で老子に会った話」の冒頭。 ◇中学で孔子や孟子のことは飽きるほど教わったが、老子のことはちっとも教わらなかった。ただ自分等より一年前のクラスで、K先生という、少し風変り、というよりも奇行を以て有名な漢学者に教わった友人達の受売り話によって、孔子の教えと老子の教えとの間に存する重大な相違について、K先生の奇説なるものを伝聞し、そうして当時それを大変に面白いと思ったことがあった。その話によると、K先生は教場の黒板へ粗末な富士山の絵を描いて、その麓に一匹の亀を這わせ、そうして富士の頂上の少し下の方に一羽の鶴をかきそえた。それから、富士の頂近く水平に一線を劃しておいて、さてこういう説明をしたそうである。 ◆ つづきの内容はさておき、しかしさておかないのが、「さて」である。さて、ワタシが好きなのはこういうコトバだ。コトバ界にも、大物から小物までいろいろいるが、「さて」はおそらく死ぬまで(コトバもいつかは死ぬのである)、世の注目を浴びることはないだろう。そういえば、そんなやつもいたなあ、となにかの拍子に、ごくまれにその存在を思いだすひとがいるかもしれないが、その直後に、まあ、いなくてもかまわないんだが、と瞬時に忘れ去られる、それくらいが関の山だろうか。個人的には、さてにはたいへんお世話になっているので、さてに気がついたからにはあまり冷たくすることができない。というのも、これまで、この MEMORANDUM でも、無数のことをさておいてきたからで、そのわりには、ワタシがさておいてきたさてというものについて、いっこう無知であったことは、やはり反省しなければならない。 ◆ さて、さてにもいろいろあるようで、漢字にも「扨」「扠」「偖」と3種類もある。さてさてさて、どれも知らない。 ◆ さてにもいろいろあるようで、品詞で分けると、接続詞、感嘆詞、副詞の3種類があると辞書は書いている。以下、「大辞泉」と「大辞林」の「さて」。 ◇ 【接続詞】 ◇ 【接続詞】 ◆ 寺田寅彦のさては、どちらの辞書においても接続詞の2番目のさて。このさては、いまではとんと見かけないから、あるいはお亡くなりになったのではないだろうか? ◆ 感嘆詞3番のさてさんも(おっと、ついさんづけしてしまった)、たまたまなのか引用文も同じだが、じゅうぶん魅力的だなあ。 ◆ こんなことを書いているから、思い出したが、 ◇ アさて、アさて、アさて、さて、さて、さて、さて、さては南京玉すだれ ◇ アさて、アさて、アさてさてさてさて、さては南京玉すだれ ◇ アァ、さて、さて、さてさてさてさて、さては南京玉簾 ◇ アァン、さて、さて、さてさてさてさて、さては南京玉簾 ◆ さて、南京玉すだれのさては、どのさてなのだろう? 1番めのさてが接続詞のさてで、2番めのさてが感嘆詞のさてで、3番めのさてが副詞のさてたっだり、はまさかしないよね? ◆ さて、さいしょにさておかれたさてに戻って、寺田寅彦の「電車で老子に会った話」の末尾はこうだった。 ◇電車で逢った老子はうららかであった。電車の窓越しに人の頸筋(くびすじ)を撫でる小春の日光のようにうららかであったのである。 |
◆ というわけで、反省したハナシを書く。 ◆ それはミョウジのハナシで、ミョウジとカタカナで書いたのは、ミョウジには苗字と名字というふたつの漢字があって、しかし、このコトバを会話で使うときには、あるいはアタマのなかで考えているときには、べつだんどちらの漢字を意識しているというわけでもないので、ふたつの漢字を同時に書くすべがない以上は、カナ(かな)で書いておくしかない。まあ、ミョウ字とは書けるかもしれないが、これもまたミョウなので、とりあえずミョウジと書くことにする。それで、そのミョウジは、似たコトバに姓とか氏とかもあって、その違いがいまひとつはっきりしないのだが、とにかく、英語で family name とか last name とか surname と呼ばれているものハナシがしたい。 ◆ と、書いたあとで、やっぱりミョウジという表記はミョウなので、とりあえず、名字と書くことにする。 ◆ と、いつもながら、前置きが長くなってしまったが、こういうハナシはほとんどのひとが知っているのではないかと思う。つまり、ジョンソンだとかロビンソンだとかニコルソンだとかピーターソンだとかジャクソンだとかトマソンだとかハリソンだとかエジソンだとかローソンだとかエプソンだとか、こういったミョウジの終わりの「ソン」には息子の意味があって、ジョンソンはジョンの息子だし、ロビンソンはロビンの息子だしニコルソンはニコルの息子だしピーターソンはピーターの息子である。ついでに、ハリソンはハリの息子だしエジソンはエジの息子だしローソンはローの息子だしエプソンはプリンターだけれどももしかしたらエプの息子かもしれない。みたいなハナシ。あるいは、ものしりなひとなら、マックドナルドやマッカートニーやマッカーサーのマッ(ク)も息子の意味だと教えてくれるかもしれない。 ◆ で、 ◇ In Sweden they have never, until in later years, been regarded or treated as family names. Peterson meant Peter's son and nothing more. If Peter Anderson had a son by the name of John, he would be known not as John Anderson, but as John Peterson ; and John's son Nels would be Nels Johnson. ◆ という文章をたまたま読んで、このことについて、これまでワタシはなにも考えていなかったんだな、と反省したのだった。いまさらながら思うのだが、たとえばヤコブソンという名字の由来がヤコブの息子だということを知ったとしても、それはたんなる知識にすぎなくて、そこからさらにそのヤコブとはいったいだれなのか、というとうぜん思いついてもよさそうなことさえ考えてもみなかった。「ピーター・アンダーソンにジョンという名の息子がいれば、その息子はジョン・アンダーソンではなくジョン・ピーターソンになる」というごくたんじゅんなことさえ思ってはみなかった。あるいは、娘の場合はどうなるのか、とか。 ◆ ちょっと興味がわいて、調べてみたら、《Nordic Names》という平易な英語で書かれたサイトを見つけた。こんなことが書いてある。 ◇ From 1901 onwards, this tradition has been forbidden and children have had to inherit their fathers' surnames. Our example children would become Arne Eriksson and Astrid Eriksson, even though Arne is not the son of Erik and even though Astrid is not a "son" at all. ◆ 引用部分だけでは、なんのことやらわかりずらいかもしれないが、これ以上引用すると、よけいにハナシがややこしくなるので(というか、ワタシもまだあんまり理解していないので)、興味のあるかたは原文にあたってほしい。とにかく、お父さんはエリクの息子(ソン)だから、エリクソンという名字でもなんの問題もないけれど、そのこどもたちのアルネとアストリッドにとっては、父の名字というのは、おじいちゃん(エリク)の息子(ソン)という意味なので、アルネは男の子だから、おじいちゃん(エリク)の息子ではないにしてもとりあえず息子(ソン)であることには変わりはない。けれど、アストリッドは女の子なので、おじいちゃん(エリク)のこどもでもないうえにそもそも息子(ソン)でさえない(娘である)。ほんとなら、女の子にはソン(息子)ではなくドッター(娘)がつくはずなのに。 ◆ それから、もうひとつ。さいしょに引用したテキストが発行されたのが1901年。ちょうど、「ピーター・アンダーソンにジョンという名の息子がいれば、その息子はジョン・アンダーソンではなくジョン・ピーターソンになる」ことが法律で禁止され、「ピーター・アンダーソンの息子ジョンはジョン・ピーターソンにはなれなくて、ジョン・アンダーソンになることになった」年。それほどむかしのことではない。それから、スウェーデンの1901年の法律は、ふたつめのテキストの続きを読むと、再び変わったらしい。 ◇Nowadays, it is possible again to use real patronyms/matronyms, as the name laws have changed again. ◆ いかん、いかん。やっぱり反省がどこかへ飛んでしまった。こうやって次から次から文章を読むからいけない。宿題ひとつ。いつかどこかで、「ソン」がつくひとに出会ったら、聞いてみよう。あなたの名字のなかにいるおじいちゃんはいったいだれですか? |
◆ 書きたいハナシがあったので、アタマのなかであれこれ考えていると、タイトルもついでに降ってきた。降ってきたというしかない。これも考えてみれば、不思議なもので、いつでもいつの間にか、タイトルがアタマのなかに用意されている。まあ、タイトル欄があるからタイトルを考える習慣になってしまっているだけなんだが、それはそれでおもしろい。 ◆ それはそうと、さきほど降ってきたコトバはなにかというと、「反省」というコトバなのだった。反省、このコトバはまったくの不意打ちだった。それで、そのことを考えてみると、驚いたことに(というしかないと思うが)、このまえ反省したのはいつだったっけ、という問にたいする答がいつまで考えても出てこない。まちがいなく、ワタシはここしばらく、数年だか、数十年だか、反省したことがないのだった。 ◆ もちろん、それに類したことはあったかもしれないが、ここしばらく、それはワタシにはまったく縁遠いコトバだった。とりあえず、そのことをいま、反省している。それで、この文章のタイトルは、考えるまでもない、「反省」だ。 |
◆ 新聞でセシウムというコトバを見ない日はない。のではないか、と思うが、新聞を読まないのでよくわからない。かわりにこんなコトバを見ている。 ◇ セシウム百三十三の原子の基底状態の二つの超微細準位の間の遷移に対応する放射の周期の九十一億九千二百六十三万千七百七十倍に等しい時間 ◆ 意味がわからなくても、もう一度、じっくり読んでみてほしい。いや、だいじょうぶ、心配しなくても。これは、セシウム137ではなくて、セシウム133だから。 ◆ このコトバはなにかというと、計量法(平成四年法律第五十一号)に基づいて制定された計量単位令(平成四年十一月十八日政令第三百五十七号)という政令の別表第一(第二条関係)というところに記載された秒の定義。 ◆ この、わずか1秒の定義を、しかし1秒以内で読み終えることはできそうにもない。そのことになぜだか妙に感動してしまった。 |