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◆ はじめてホームページを作ろうと思ったときには、コンテンツをあれこれ考えたりするのが、すごく楽しかった。けれど実際に開設し運営を始めてみると、限られた時間の制約と飽きっぽい自分の性格とで、ありきたりのコトしかできないことに改めて気づかされる始末。まあ、それも予定通りといえばそうなので、やっぱりなあ、と思うほかはない。 ◆ で、ずいぶん以前に思いついて、作りかけのまま放ったらかしにしてあるページのひとつに『漢字展覧会』というのがあったのを、ふと思い出した。製作途中のファイルを久しぶりに見てみると、第一回「魑魅魍魎」展とあって、とすると、この時点では、第二回以降も想定していたのだろうか? よくわからないが、この第一回の『漢字展覧会』のコンセプトは単純で、共通の部首をもつ漢字二字の熟語を「適当に」100、拾い集めて、そのひとつひとつの熟語にかんするコメント、というかエッセーみたいなものを書こうとしていたらしい。この100の言葉も自分で選択したものなので、いま見直してもいろいろ書きたいことはあるにはあるけど、完結させるには何年かかることやら。 ◆ というわけで、気が向いたらすこしずつ書いていくことにしようかなと思いつつ、とりあえずは、これらの漢字を見ているだけでも、イマジネーションがふくらむという殊勝な方々が(存在するのかどうかわからないけれども)おられたなら、『漢字展覧会』をクリック! |
◆ ささいなことが気にかかる。たとえば、楽器の 「琵琶」 と果物の 「枇杷」 はどちらがどちらに似ているのか? 枇杷に形が似ているので琵琶と呼ぶのか? それとも、琵琶に形が似ているから枇杷と呼ぶのか? ◇ 楽器の琵琶は果物の枇杷の形に似ているから琵琶と名づけられた。元祖は果物の枇杷である。 ◆ わたしもそうだろうと思った。いつだって自然(植物)の方が文化(音楽)より古い気がするものだから。 ◇ 枇杷に似た琵琶弾き語る庵かな ◆ でも、どうやら違うらしい。 ◇ 枇杷は楽器の琵琶に似ているので名付けられたというが、葉の形か果実の形か、何れに由来するのかは定かでない。 ◆ ネットで検索してみると、こちらの方が定説であるようだ。おまけに葉の形まで琵琶に似ているとは・・・(そうは見えないけど)。 ◆ 枇杷の産地として知られる富浦町のホームページに、 「地域を支える房州ビワ」 という 「ネット教材」 があって、ビワの語源についても詳しく書かれていた。 ◇ 楽器の琵琶(びわ)の胴(どう)が木でつくられるので木へんをつけて 「枇杷(びわ)」 と書き、のちに琴(こと)の一種(いっしゅ)だというので 「琴(こと)」 の字の上をそろえて 「琵琶(びわ)」 と書くようになりました。 ◆ もともと楽器のビワが枇杷という表記だったのが、果実のビワにその漢字を奪われて琵琶という別の表記になった、というのが真相のようである。 ◇ 植物(しょくぶつ)の枇杷(びわ)が楽器(がっき)の琵琶(びわ)の地位を奪(うば)って 「枇杷(びわ)」 と表記(ひょうき)されるようになったのは、5~6世紀(せいき)ごろではないかと言われています。つまり枇杷(びわ)が栽培(さいばい)されだしたころと同じ時期(じき)です。 ◆ なるほど、栽培とは自然であるよりも、文化(culture)そのものなのだった。 ◆ ところで、この 「地域を支える房州ビワ」、「ネット教材」 というだけあって、たいへん 「勉強」 になりました。植物のビワの学名は eriobotrya japonica で、バラ科。 「ビワの品種」 には、茂木・田中・楠・瑞穂・大房・戸越・房光・里見・房姫・富房・福原びわ・白茂木・・・。ああ、八犬伝の世界だなあ! |
◆ 今日、横須賀の久里浜へ行った。仕事が早く終わったので、辺りを散歩した。ペリー記念公園があった。フェリー乗り場もあった。ペリー (Perry) とフェリー (ferry) がごっちゃになって、ペリー乗り場になった。そこではきっと黒船に乗れるのかしら・・・。 |
◇ 東京ではにわか雨がふりだしたとき数百数千の歩行者がいっせいに傘をさし、街路は傘で満ちる。 ◆ 傘はあまりささない。雨がぼつぼつと落ちてくると、街では徐々に傘が開いていって、その最後に傘を開くひとに属するのではないかと思う。 ◆ 最初に傘を開くひとは、雨がほとんど止んで、少しずつ傘が閉じられていっても、最後まで傘を閉じずにいるひとではないかと思う。 ◆ 雨が止んだなら、一番先に傘を閉じたい。そんな美意識がどこかにある。 ◆ ついでにいうと、黒い日傘もキライである。 ◇ あいるらんどのような田舎へ行こう ◆ 傘はこういう風にこそ使いたい。 |
◇ 彼女は日本人を生まれてはじめて見たと言った。 ◆ アイルランドの片田舎の街を歩いていたとき、向こうからやってきた老人が、ゆっくりと片手をあげ、はにかんだ面持ちで「Hello」と言った。ただそれだけのことだったが、あのおじいさんも、家に帰ったら、おばあさんに「今さっき街で、なんとアジアの人に会ったぞ。たぶんニッポン人じゃないかな」なんて話を早速してる、そんな自慢げな様子が目に浮ぶようだった。 |
◇ 敏腕プロデューサーは、昭和36年に生まれ、受験戦争が華やかなころに、難関校の一橋大学を卒業。(『夕刊フジ』,10月26日) ◆ これは「視聴率をカネで買った男」のハナシだけれども、「受験戦争が華やかなころ」という表現が気にかかる。華やかな戦争、なんてものがいったいあるのかどうか。この記事を書いたひとの語感や如何。まあそれ以前に「受験戦争」なんて表現がそもそもどうかと思うんだけどね。 |
◇ 六波羅に轆轤町という地名があるが、これは「髑髏町」のなまった名前かもしれない、と思うくらいである。昔からここは、死者生者の行き交うところであり、今でも「六道の辻」という碑が立っている。 ◆ 髑髏(どくろ)と轆轤(ろくろ)か、いいなあ、このイメージは。髑髏の轆轤首なんて化け物がいたら、そいつはやっぱり「髑髏首」かなあ・・・?! |
◆ 京都市左京区の一乗寺竹ノ内町というところに、曼殊院という門跡寺院がある。といっても行ったことはない。門跡とは、「goo 辞書」によれば、 ◇ (2)平安末以降、皇族・公家の子弟などの住する特定の寺院を指すようになり、しだいに寺格を表す語となった。江戸時代には幕府が宮門跡(法親王の居住する寺院)・摂家門跡(摂関家の子弟が居住する寺院)・准門跡(門跡に准ずる寺院)と区別し制度化したが、1871年(明治4)この制度は廃止され、以後私称として用いられる。 ◆ とある。寺というよりも皇族の邸宅と考えた方がわかりやすい。だから、この曼殊院も、そのみどころとしては、 ◇ 緑豊かな庭園の見事さに加えて寄棟造りの書院随所に見られる/瓢箪の引き手/富士の釘隠/縁の梟手水/など洗練された小物が素晴らしい寺院です。 ◆ ということになる。しかし見たことはない。ともかく、この曼殊院は竹ノ内というところにあり、かつ親王の住居であったので、「竹内御殿」とも呼ばれた。さて書きたかったのはここからで・・・・・・ ◇ 小さな地名を冠してよぶこのようなよび方は、よぶたびに山川草木がそこに顕れ出るような感じがしてじつにいい。桂離宮とか大和の帯解の山村御殿といったふうのよび方で、明治以後では早稲田大学、戦後なら一橋大学、お茶の水女子大、虎の門病院というようなものがある。こういう命名法は日本における施設の命名法のおろし問屋だった中国にはなかったかと思われる。中国の寺院や宮殿などは観念的な言葉を冠したものが多く、近代になって、北京大学、燕京大学、黄埔軍官学校といったものが出てくるが、それも広域地名で、所在地のほんの小さな小字(こあざ)の名を冠する重要施設というものはなさそうである。 ◆ その直後に「むろん、日本にもすくない」とあるのを無視すれば、こういったことに思いをめぐらせるのは楽しい。たとえば、目白御殿。 ◇ 相続に絡む物納は東京都文京区の通称「目白御殿」でも行われた。目白御殿の敷地8600平方メートル(一族と長鉄工業で所有)は、相続に絡む申告漏れ発覚後、97年と98年に3区画、約3100平方メートルが物納された。2区画分の約1160平方メートルは00年3月、日本女子大に約7億8500万円で売却された。 ◆ 日本女子大で、別なハナシを思い出した。だれだか忘れたが、ある知識人(?)が講演会でつぎのようなことをしゃべったらしい。大学の名前というのは、その地名が大きければ大きいほど偏差値が下がる傾向にある。たとえば東京大学から日本大学、亜細亜大学の順にアタマが悪い、云々。で、ここで笑いをとるはずが、聴衆からはなぜだかブーイングの嵐。というのも、講演会場が関西大学だったから、というのがこのハナシの落ちだった。このハナシは、だから、日本女子大でもできないわけで・・・。 |
◇ 奈良朝では瑠璃とか玻璃とかという玉なみの呼称でよばれ、戦国末期にはビードロ(ポルトガル語)というふうに南蛮風でよばれ、江戸期はギヤマン(オランダ語の転訛)と、紅毛風でよばれた。 ◆ ・・・ものはなあに? こたえ、ガラス。って、べつになぞなぞじゃないんだけど、いろんな呼び方をこんな風に並べてみせられると、なるほどこれも「歴史」だなあという気がする。 ◆ というわけで、ガラスについてなにか書いてみようと思った。・・・のだが、よく考えてみると・・・、ガラスという素材があんまり好きではないことに、今さらながら気がついた。器ということでいえば、(日本の)やきものの方が数段好きである。切子なども観賞用としてはキレイだとは思うけれど、欲しいとは思わない。触りたいとは思わない。触ると指紋のあとがつくような感じがイヤだ。概してツルツル系は好みではないような気がする。植物でいえば、照葉樹のあのテカテカした葉っぱがキライだ。透き通った色というのも、あまり好みではないような気がする。どちらかといえば、くすんだ色合いに惹かれる。宝石なんてものにはそもそもエンもユカリもないけれど、強いて好きな宝石を挙げよといわれれば。翡翠(ひすい)かなあ。ヒスイといえば、富山にヒスイ海岸(宮崎海岸)というところがあって、海水浴に行ったついでにヒスイ拾いをしたことがあったなあ・・・。というわけで、ガラスのはなしはどこへやら、あいかわらずなんのまとまりもない文章になっちまった! |
◆ 電車に乗るときなど、なにも読むものがないと困るので、旅行のパンフレットやら自治体の広報誌やら各種のフリーペーパーやらを、駅付近で調達してから改札を通ることが多い。先日、東急用賀駅から乗車する際には、近くの書店から『月刊仕事の記録帖』(文明出版社)という冊子を頂戴した。置いてあったのは2002年の3月号で、表紙のタイトルの上には「自己を磨く喜び・お客様に喜ばれる喜び」とあり、どうやら店員向けの雑誌のようである。中身は日記の体裁で、その日の目標その他を書き込むように作られていて、毎日のコラムも付いている。電車内でパラパラ読んでいると、3月12日は「心を明るくした店員さん」という文章だった。以下はその全文。 ◇ Fさんは、テレビが古くなり映りが悪くなったので、新しいテレビを買うことにし、近所でも評判の電気店に頼みました。 ◆ 汚れて暗くなった蛍光灯を拭くのはFさんの仕事であって、なにも電気屋さんがすることはないと思うのだが、まあそれもサービスの一環だと考えるなら、それはそのひと次第で、他人がとやかく言うことではないのかもしれない。私が電気屋ならそんなことはしないが、私は電気屋ではなく、引越屋なのだった。「すみませんが、お湯をちょっといただけませんか」という台詞は使わないけれど、似たような台詞はよく使う。その言葉は「ぞうきん、ありませんか?」。このハナシはまたのちほど。 |
◇ 永観堂で1番奇麗だったのは、この時は、近くの永観堂幼稚園のモミジでした。色鮮やかに紅葉していました。 ◇ この絵を描いた右側に永観堂の幼稚園があります。お迎えの車がこのあたりに駐車するんですが、高級車ばかりでした。 ◆ ワタシも「**寺保育園」というところに通っていたんで、検索してみたんですが、やっぱりホームページはありませんでしたね。ハナシを永観堂に戻すと、 ◇ 永観は「えいかん」と読まれるが、正しくは「ようかん」と言う。私は小さいころ「ようかん堂の紅葉見に行こうか」というのを聞くといつも「羊羹堂」という文字が頭をよきってしまい、混乱していた記憶がある。 ◆ ・・・ハナシを永観堂に戻そうと思ったのだが、ヨウカンが出てきたので気が変わった。永観堂については「永観堂ホームページ」を。本尊の「みかえり阿弥陀」の逸話などは興味深い。 ◆ で、ヨウカンといえばウイロウである(個人的にヨウカンよりウイロウが好きなだけだが)。「goo 辞書」によれば、 ◇ 〔「うい」は唐音〕 ◆ とある。「白黒抹茶小豆コーヒー柚桜」の青柳ういろうのCMが懐かしい。ご覧になりたい方は「青柳ういろうのCM」をどうぞ。このウイロウ、子どものころはウイロと言っていて、それが本当はウイロウ(外郎)であることを知ったのはそれほど昔のことではなかった。それから、とまたハナシが逸れるが、植物のケイトウ(鶏頭)のこともケイトと言っていた。 ◇ 「ケイトウ」を私の田舎では「ケイト」と短く言ってました。なので子供の頃は、この花が毛糸のように温かそうだから「ケイト」と言うんだろう、と思っていました。本当は「鶏頭」の花。鶏のトサカにそっくりなので名付けられたとか。 ◆ そうそう、この方と同じように、ケイトは毛糸からだと思っていたのだった。それから馬喰町と神保町、これは伸ばせばいいのかよくないのか、いまだによくわからない。またまたよくわからないところに着地してしまったようで・・・。 |