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◆ 先日、中国の西北大学というところで、なにやら事件があったそうだが、詳しくは知らない。ただ、西北というのはなんだろうな、ということがふと気になった。この大学は陝西省の省都である西安にあるということなので、「陝西省」あるいは「西安」の北に位置しているのかと思ったけれど、なんだか変だ。では西安市の北西部にあるのかとも思ったが、ますます変だ。で、少し調べてみると、西安のある陝西省は「西北地方」と呼ばれているらしく、どうやらコレが正解かしら。この西北地方というのは、行政単位ではなくて、単純に地理的な分類のようなので、日本でいえば、宮城県の仙台市にある東北大学といったところでしょうか。中国の地方区分を見てみると、 ◇ 華北地方 ◆ といった具合で、知ってたような知らなかったような。行政区分としては、 ◇ 4中央直轄市・23省・5自治区・2特別行政区から成る。 ただし、23省の中には台湾が含まれており、中国政府は「祖国統一」の思想により、台湾を23番目の省としている。 ◆ と、これも、聞いたことがあるようなないような。さらにネット検索を続けると、京都の仏教大学の中国人助教授による「東西南北について」というテキストを発見。 ◇ 例えば、東西南北の四つの方向にさらに四つの方角を入れると、中国の場合は東と北の間は「東北」と呼び、西と北との間は「西北」と表現します。因みに西安は中国においては西北の方向にあたります。だから当校の姉妹校の(西安にある)大学は西北大学というわけです。また、西と南の間は「西南」と言います。同じように東と南の間には「東南」と言います。 ◆ どうも説明が大雑把にすぎる気がするが、それはともかく、この文章を読んで、「都の西北ワセダのとなり」で始まるかの有名なバカ田大学の校歌を思い出した。いうまでもなく天才バカボンのパパが通っていたあの大学である。つぎはおまけ。後半はすこしヒネリが足りないか。 ◇ 我が庵は 都の西北ワセダのとなり 世をバカダ大と 人はいうなり 解釈 : 私の学校は、都の西北でワセダ大学のとなりにあって ◆ もちろん、ハナシとしては早稲田大学の校歌でもよかったわけだが、こちらは知らないという方が意外に多いような、そんな気がしたのである。ワタシも、先に憶えたのはバカ田大学の方だったので・・・。 ◇ 「都の西北」早稲田に、タレントの広末涼子さんが見事合格。さて、ここでみなさん、ちょっと考えてください。なぜ早稲田は「都の西北」で「都の北西」ではないのでしょうか? ◆ この文章もいま読むと、妙に感慨深いものがあるけれど、これ以上脱線すると終わらなくなるので先へ進むと、ワタシの永年の疑問がこれであった。都の西北か、なんだかカッコイイな、と。つまりは言葉に貫禄をつけるために北西を西北とひっくり返してみたのだろうと、単純に思っていたのだった。 ◇ 西北と北西、同じみたいですが、大きな違いがあります。それは、「西北」が東洋地理の表記で、「北西」が西洋地理表記である違いです。 ◆ しかし、永年の疑問だったわりには、それだけのことなのだった。すこし考えればわかりそうなものだが・・・。 ◇ よく「東西両横綱」といいますが、太陽の昇る「東」は別格で最高位、しかし東と西は同格とされているので、東の次に西が来ます。この順序は厳密に決まっているので、例えば日本では「東北地方」や「西南戦争」「東南アジア」などのように、東西南北の中間の方位には、必ず東西の軸が先に表記される仕組みになっています。 ◆ なるほど、なるほど。いろいろ勉強になる。「なるほど」ついでに・・・、 ◇ 余談ですが、「西北」は風水上では「龍脈の源」とされていて、「指導者の方位」という意味があります。「都の西北」には、国や企業のリーダーとなるべき人材を育てる、といった誇りが含まれているわけですね。 |
◇ 昨日(10月31日)、田中真紀子元外相が佐渡において行った応援演説で、「(被害者に)耳触りのいいことを言うべきではない」「(帰国した5人の拉致被害者の)家族の国籍は国際法上は北朝鮮籍。外務省も知っているはず。(日本帰国は)難しいとはっきり言うべき」という暴言を吐いたことが報道された。 ◆ まったくこの元外相は話題に事欠かない人で、今朝の新聞(といっても『日刊スポーツ』)にも、「真紀子さん夕食食って40分遅刻」なる記事が載っていたが、それはともかく、上記の引用の「耳触りのいい」というコトバが気になったので調べてみた。《NHK放送文化研究所》の「放送と言葉ことばQ&Q」の解説によれば、 ◇ 「耳ざわり」は「耳障り」と書くように、本来は聞いて不愉快に感じたり、うるさく思ったりする場合に使われることばです。「目障り」も同じです。しかし、最近では「歯触り」「舌触り」などの連想からか、「耳ざわりのいい音楽」「耳ざわりのいいことば」などと使われる例も増えています。[・・・・・・]ちなみに、「耳ざわりがいい」という言い方について、「おかしい」と答えた人が、1980年の有識者アンケートで89%、また世論調査では1989年が59%、1992年が47%となっており、「おかしい」と思う人がしだいに減ってきています。 ◆ また 《道浦俊彦の平成ことば事情》によれば、 ◇ また国語辞典では、「大辞林」「新明解国語辞典」には、「俗用」として「耳触り」は載っていますが、「広辞苑」や「日本語大辞典」は採用していません。(つまり載っていない。) ◆ ワタシが「耳ざわりのいい」というコトバをはじめて聞いたのは、谷山浩子の『夢半球』というレコードのなかだった。このアルバムは曲と曲の合間に本人のモノローグをはさむ構成になっているのだけれど、そのモノローグのひとつに、本人がふと「耳ざわりのいいことば」というコトバを使ってしまったあとに、 ◇ 「耳ざわりのいいことば」だなんて、ホントに「耳ざわりのいいことば」。こんなことば、どこで憶えたのだろう。 ◆ といった内容だったと思うのだが、現物は実家にあるので、不正確かもしれない。ところで、この「耳ざわりのいい」ということば、ワタシはあまり抵抗がない、つまりさほど「耳障り」ではないのでありますが、 ◇ どうも、「耳ざわりのいい」という“耳障り”なことばは、 「聞き心地がいい」系のことばにはない、 「偽善的な」というニュアンスをもたせるために使われている、 ということが見えてきたように思います。 / そういう点からすると、 「耳障り」的な要素を含んでいるために、 「聞き心地」でも「耳心地」でも「聞き触り」でもなく 「耳ざわり」ということばが用いられるのじゃないか、 というようにも思われるのです。 ◆ といった意見もみられるように、実際の「耳ざわりのいい」の用法としては、ウサンクサイもの(政治家の発言など)を対象にして用いられることが多いようで、「耳ざわりはいいが、しかし」となる例がもっぱらかもしれない。けれども、純粋に「耳触りのいい」ものもあるはずだろうから、どうせ使うのなら、もっと積極的な意味でこの「耳ざわりのいい」を使いたいと思う。いつも「キレイな薔薇にはトゲがある」式の発想をしていると、つまらない人間になっちまうよ。 |
◆ 「耳触りのいい」をキーワードに検索していたら、こんなのがあった。 ◇ 浜崎あゆがアジアの歌姫だそうだ。女王だけ? どっちでもいいけど、首絞められた鶏みたいな歌声なのに、何で歌姫なのかね。歌詞も薄いし。 / ある評論家が、宇多田ひかるを天然物に、浜崎あゆを養殖物にたとえていた。 / 浜崎あゆの歌は作ったもので、「きみ」とか「永遠」とかヒットに結び付く、耳触りのいいキーワードを巧みに組み込んであるという。歌声も訓練で作り出した人工的なもの。 / 宇多田ひかるは天性の感性から出てきた歌詞で、歌声も生まれつきもっているものだという。 ◆ なるほど、養殖のアユか。 ◇ アユには天然ものと養殖ものがあることは言うまでもありませんが、その違いはどこにあるのか、少しご説明しましょう。まずスタイル。天然ものはスラッとしてどこか精悍な感じさえします。養殖もののアユは、ずんぐりむっくりしたおデブさん。色も養殖ものは黒ずんでいて、天然ものは脂びれのところがピンク色をしています。また顔つきもどことなく異なり、自然の厳しさを知っている天然のアユたちは、なんとなく賢そうな気さえします。 ◆ はたして、ワタシにこの違いがわかるだろうか? |
◆ 東京は今年「江戸開府400年」とかで、盛り上がっているのかいないのかよく知らないけれども、京都では十年ほど前に「平安建都1200年」を祝った。日本の文化の中止は今も昔も京都であることは、つとに周知の事実であって、あらためて再確認する必要はないだろう。そんな京文化の一端をご披露することにしよう。 ◆ 「だるまさんがころんだ」なる子どもの遊びがある。あるけれども京都ではそんな野暮ったいコトバは使わない。すなわち、 ◇ 坊さんが屁をこいた ◆ と云うのである。坊さんは「ぼンさん」と発音すべし。京都では石を投げればお坊さんに当たるので、別段「坊さん」が出てきたところで驚くには当たらない。たたし、ひとつ注意しておくべきなのは、この「さん」づけである。 ◇ 他府県の方の目には奇妙に映るかもしれませんが、京都ではものに対しても「さん付け」をします。 / この「さん付け」の対象となるのは主に「飴さん、あげさん(油揚げ)、ふーさん(麩)」など食べ物や、「八坂さん(八坂神社)」や「お稲荷さん(稲荷大社)」など寺社仏閣に関するものが多いようです。まあ中には「うんこさん」などという変わり種もありますが……。 / この「さん付け」に類似する丁寧表現としては、「おこた、おだい(大根)、お寺」のような、語頭に「お」をつける言い方や、その「お」と「さん付け」を併用した「おかい(粥)さん、おまめさん」という言い方があります。 / ただし「お」にしても「さん」にしても、どの言葉にでもつくのではなくて、それぞれつく言葉とつかない言葉が暗黙の了解のうちに決まっています。 ◆ どうだ、参ったか! なんと「うんこさん」であるぞ。なんと雅な表現であろう。これを低俗なアニミズムと混同しては、それこそ罰(バチ)が当たる。ただ「屁さん」とは云わない。ウンコは固体であるが、屁は気体であって目に見えないからである。見えないものまで敬う必要はない。 ◆ ところで、なぜ「坊さんが屁をこく」必要があるのか、と訝しがる方もなかにはおられるかもしれないが、仕方がないではないか、坊さんも人の子である。生理現象まで修行で克服するわけにはいかない。仏教の五戒(不殺生・不偸盗・不妄語・不邪婬・不飲酒)にも「屁をこくな」の文字は見当たらない。お釈迦さまも時には菩提樹の陰でご放屁しあそばれたことであろう。 ◆ さて京の文化はまだ続く。なにしろ奥が深いのである。もし京の人が「坊さんが屁をこいた」ではなく、「だるまさんがころんだ」という鄙びた掛け声をどこかの田舎で耳にする機会があったとすれば、必ずやこう尋ねるはずである。「で、続きは?」。京都と姉妹都市のパリジャンならば、「エ・アロール(Et alors)」と云うところである。「だるまさんがころんで、それからどうなったのか?」と。そして答えを聞いて、愕然とするのである。「続きはありません」。これを京都とこれまた姉妹都市のアメリカはボストンから来た交響楽団の一員がたまたま聞いたなら、「アンビリバボー」と肩をそびやかしたに相違ない。だから間違ってもその答えをこれまた姉妹都市の西安市民に告げてはならない。暴動が起きる。 ◆ 紙面が尽きた。つづきは次回。 |