◆ いまでも、街の片隅で 「どもりは治ります」 などと書かれた貼り紙をみることがある。その貼り紙に記された住所では、いったいなにが行われているのか、ワタシには皆目わからない。以前読んだ本にこんな一節があった。
◇ 自分を明確に人に伝える一つの方法として、ものを言う時に吃ってみてはどうだろうか。ベートーヴェンの第五が感動的なのは、運命が扉をたたくあの主題が、素晴らしく吃っているからなのだ。
武満 徹「吃音宣言」『音、沈黙と測りあえるほどに』(『武満徹著作集1』所収,新潮社,p.69)
◆ コトバが急にあふれ出た時期があった。はたちのころだった。考えるよりも先にコトバがつぎからつぎへと口から出てしまう。しゃべっているのが自分ではないような気がした。もっと落ち着いてしゃべりたかった。そんなコトバの氾濫 (叛乱?)を止めようとして、意識的に吃ろうとしたことがあった。この努力が功を奏してか、コトバは思考の速度を待つようになり、やがてはコトバの方が一歩遅れるようになった。要するに意識しないでも吃るようになった。現在はどうかというと、あまり吃ることはない。物事を深く考えなくなったからだと思う。
◇ 意味が言葉の容量を超える時におこる運動を名附けて私は吃音と呼んだ。
◇ 吃音者はたえず言葉と意味とのくいちがいを確かめようとしている。それを曖昧にやりすごさずに肉体的な行為にたかめている。それは現在を正確に行うものだ。
Ibid., p.87