MEMORANDUM
2013年03月


◇ 前々から思っていたが、オサマ・ビンラディンという人は立派な風格をしている。哲学的かつ知的で姿が優美静謐で目が深い様に見えてしまう。世界中から憎悪されているが。
 ブッシュの顔を見ると、とても恥かしい人類の顔だと思う。ビンラディンがどの様な悪党か知らぬが、私たちは本当の事など何も知らない。考えるべき基準など、少なくとも私にはない。9・11で三千人位の人が死んだが、アフガニスタン、イラクでは四万人以上の市民が死んでいる。こういう事って正義なのであろうか。正義の話ではない。人の外見のことである。あの大胆なテロを実行させたアフガニスタンのテロ集団の内情などわからない私であるがアフガニスタンで国民は何を食っているのか、どんな風が吹きどんなほこりが流れるのか、私は知らない。
 しかしビンラディンが細長い顔とひげとターバンと質素に見える民族衣装をつけて立っているのを見ると好もしい外見であると私は思ってしまう。
 北朝鮮の金正日は解りやすくて安心である。安心しておおいやだ、とんでもない奴だと思えて嬉しい。
 多分ビンラディンはインドの乞食と同じムードがある。インドの乞食はどうしてあの様に哲学的に見えるのだろう。
 五十過ぎたら自分の顔に責任を持てと云うがどんなものだろう。韓国の整形美女たちは、整形医師に責任を持ってもらうのだろうか。

佐野洋子『役にたたない日々』(朝日文庫,pp.193-194)

◆ 下線部分の文章がちょっと変だが、それはさておき、上の文章から他人(ひと)がどのようなことを読み取り、感じ取るのか、私は知らない(この文章を読みながら、ビンラディンやブッシュの顔をじっさいに思い浮かべるひとはどれくらいいるのだろう)。ワタシは最初、この「私は知らない」について書こうと思ってこの文章を書き写したのだが、気が変わった。やはりこれは顔のハナシだろう(9・11のことかもしれないが)。

養老 それをブータンでものすごく感じた。坊主がみんな違う顔をしてるんですよ。同じ坊主で同じ服装をして同じところに暮らしているにもかかわらず。顔が全部違う。僕は、「面魂」とか「面構え」という言葉が、日本では死語になっていると気がついた。なぜみんながそういうふうに個性的なのかと考えたときに、各人その所を得ているからだなと思った。生まれたまんまの性格が伸びていって、それぞれが所を得るような形で僧院が運営されているんです。
奥本 僕もブータンの男の人たちがみんな立派な顔をしているのに感心しましたね。何かこう、正しい生活をしている、というような。うしろ暗いところがないんですね。日本の場合、会社員がみんな同じ顔をしているとかいうのは、やっぱり強いものに「擬態」してるんだね(笑)。代議士でも顔を見るとだいたいその所属する党がわかる。
池田 小学校からやることがみんな同じとなると、生態的地位がひとつしかないといった感じになるわけです。そこに収斂した人は活き活きとしているけど、あとは全部駄目になっちゃうんですね。
養老 所を得て生きていると、見ていて気持ちがいい。僕が思い出したのは、黒澤明の『七人の侍』です。ブータンであの映画をつくろうとしたら、なんの苦労もない。坊主から七人、ランダムに選んでくれば、七人の侍ができてしまう。百姓は全部そのまま使えばいい(笑)。

養老 孟司,池田 清彦,奥本 大三郎『三人寄れば虫の知恵』(新潮文庫,pp.36-37)

◆ それで、あれこれ考えてみたが、顔について個人的になにか書きたいことがあるかというと、とくにない。そのことに気がついた。そういえば、人の顔にはあまり関心がないのだった。

◇  「チャーリー・ブラウン。たったいま信じられないようなフットボールの試合を見たよ」。ある日曜日、ライナスがこう言う。
 「見事な反撃だった。ホームチームは6対ゼロで負けていて、残り時間は3秒。ボールは味方の1ヤードのラインの上……クォーターバックがボールをとって味方のゴールポストの後ろヘフェードバックして、完璧なパスをレフトエンドに送った。彼は4人の相手をかわして独走しタッチダウンさ! ファンは気が狂ったようになったね。きみにも見せたかったよ! みんな、飛んだり跳ねたりしてた。エキストラポイントを入れたら、何千人もの観客が笑ったり叫んだりしながらフィールドになだれ込んだ。ファンも選手たちもうれしさのあまり、地面を転がりまわるわ、抱き合うわ、踊るわ、の騒ぎさ! ほんとにすごかった!」
 チャーリー・ブラウンの答え。「相手チームはどんな気持ちだったかな」(引用は谷川俊太郎訳)

リタ・グリムズリー・ジョンソン『スヌーピーと生きる ― チャールズ・M・シュルツ伝』(越智道雄訳,朝日文庫,p.67)

◆ これも、とくに書き加えることはなにもないのだが、せっかくだから、すこし書く。スリルとサスペンスというようなことで考えると、ライナスのセリフは長ければ長いほどいい。これをさらにさらに延長して、どんな本でも、その本の最後にチャーリー・ブラウンの「相手チームはどんな気持ちだったかな」というセリフを勝手に付け加えてみるのはどうだろう。小説を書く人なら、書き終わった小説の「完」のページのその裏に、「相手チームはどんな気持ちだったかな」というセリフに相当する、その小説に合った適当なコトバを考えて、1行さりげなく記しておく。小説を書かないふつうの人なら、買ってきた本を読み始める前に、自分でそのようにする。まあ、そんな具体的なことまで考えなくてもいいのだけれども、とにかく、このチャーリー・ブラウンのコトバには、それ以外の一切合切をひとつの大きな「カギカッコ」に封じ込めてしまう、とんでもない威力があるだろうと思う。そういえば、

◆ と思い出してしまったのだが、高校生のころに『エンドレス・ラブ』という映画(いま調べると、日本公開は1981年12月5日)をカップルで観に行った同級生がいた。そういえば、ワタシがはじめて女性と観に行った映画は、なぜだか『がんばれ!! タブチくん!!』だった(1979年11月10日公開)。で、『エンドレス・ラブ』を見終わったあとに、男が女にこういったらしい。「終わらない恋愛なんてない」(正確なセリフは関西弁なので「~あらへん」だったかもしれないが)。女がどういう返事をしたのかはしらない。そもそも男のほうも冗談のつもりだったのだろう。あるいは大人の振りをしてみたかったのかもしれない。その男はワタシの友人だったが、その後その女性と別れて、自らのコトバを実証した。その女性がその次につきあったのがワタシで、ワタシはエンドレスラブというものを信じていたのだったが、これはもうチャーリー・ブラウンとはなんの関係もないハナシである。いやはや、妙なことを思い出してしまった。

◆ 先に『役にたたない日々』という本からの引用をしたが、この佐野洋子というひとについては、さきほどまで名前以外ほとんどなにも知らなかった。で、谷川俊太郎の配偶者だった時期があるということを知って驚いた。ついでに言えば、さきほどまでは、なんとなく佐野量子(たんに名前が似ているというだけで)似の顔をイメージしていたのだったが、それはさておき、

〔nikkansports.com〕 日本サッカー協会は18日、女子の国際親善大会アルガルベ杯(3月6~13日、ポルトガル)に参加するなでしこジャパン23選手を発表した。昨年までの中心選手のMF澤穂希(34=INAC神戸)MF宮間あや(28=岡山湯郷)を外し、19歳のMF田中陽子(INAC神戸)、18歳のFW田中美南(日テレ)ら6人を初選出するフレッシュな陣容。佐々木則夫監督(54)は、今年9月の親善試合までは若手中心のメンバーで戦う意向を示した。〔中略〕 アルガルベ杯に向け、ロンドン五輪で平均年齢25・83歳だったなでしこジャパンが、23・04歳と大幅に若返った。
www.nikkansports.com/soccer/japan/news/p-sc-tp2-20130219-1087140.html

◆ 洋子ではなく、19歳の陽子さんである。画像は所属チームの《INAC神戸レオネッサ》のページから拝借。趣味は読書だそうだ。ヨーコのハナシになると、思い出にひたる時間も必要になる(かもしれない)ので、これはまたべつな機会に考えることにして、「役にたたない数々」のハナシにしよう。

〔FNNニュース〕 3月に行われる女子サッカーの国際大会、アルガルベカップに向け、なでしこジャパンが合宿をスタートさせた。澤穂希選手(34)や宮間あや選手(28)をあえて外し、10代の選手など、若手を多く起用。フレッシュな「新生なでしこジャパン」が誕生した。その平均年齢は、ロンドンオリンピックでおよそ26歳だったのに対し、今回のメンバーは23歳と、3歳近く若返った。中でも注目は、19歳の田中陽子選手。
www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00241164.html

◆ これは同じ題材を扱った違う記事。ワタシには、日刊スポーツ(上)の「ロンドン五輪で平均年齢25・83歳だったなでしこジャパンが、23・04歳と大幅に若返った」という表現にちょっとびっくりしてしまった。下のFNNニュースでは、「その平均年齢は、ロンドンオリンピックでおよそ26歳だったのに対し、今回のメンバーは23歳と、3歳近く若返った」という表現。ワタシには、これがふつうの書き方に思える。「25.83歳」と「23.04歳」の小数点以下2桁の数字は、かなり異様ではないかと思ったのだ。小数点以下2桁の数字などというのは、100メートル走のタイムならいざしらず、年齢には不必要ではないだろうか? 思わず、ワタシははたしていま何歳なのだろう、と考えてしまった。5月20日で49歳になるので(なるのか?)、いまは――ちょっと電卓で計算してみるが――48.78歳ということになるのだろうか? 「25.83歳」と「23.04歳」は平均だから、問題ないのでは? と思うひともいるだろうが、この平均はそもそも、ワタシが今したように、誕生日に基いて計算されたものなのだろうか? それとも、たんに「34歳+28歳+19歳+…」とふつうに使う年齢を足して人数で割っただけのものなのだろうか? 後者だとすると、この平均値の小数点以下2桁の数字には、見た目ほどの正確さはないということになる。あるいは、ワタシの「48.78歳」を「48.7835616438歳」と書けば、それだけ正確さが増したということになるだろうか? そこまでの細かさに対応するには、誕生日だけでは到底足りず、さらに誕生時、誕生分、誕生秒までのデータがあったとしても、まだ足りないということになるだろう。生まれてまる1日の赤ちゃんは、約0.00273976歳ということになる。ロンドンオリンピックの開会式の日に生まれた赤ちゃんは、16日後の閉会式には、約0.04385616歳になっているだろう。なでしこジャパンのメンバーも、オリンピックの期間中に、同じだけ「年を取る」わけで、「ロンドン五輪で平均年齢25.83歳だった」などという記述は、これが開会式の時点での数字だとすれば、閉会式の時点では、はやくも約25.87歳に書き換えなければいけないことになる。こんな数字に意味はないだろう。

◆ というようなことを考えていたら、もう十年以上も前に、質問サイトの《教えて goo!》で、「人間が1.36人って変ですか?」という質問をしたことがあったのを思い出した。もう十年以上も前に、と書いたが、この質問の投稿時間は、「2002年4月17日の午前0時21分」で、これも計算すれば、もう10.8767年前に、と書くこともできるだろう。書くこともできるが、なんの役にも立たないだろう。10年10ヶ月前なら、ちょっとはましか?

◆ せっかくだから、十年前の質問をいま読み返してみたが、なんの進歩もない、というか、十年前よりだいぶ堕落した気がしないでもない。とくに数字には弱くなった。2桁以上の数字をずっと憶えている自信はない。いまも電卓の数字を引き写すのに2つずつ憶えて書いた。

◆ 先日、引越の仕事に行った山際の一軒家に猫がいた。薄いキジトラの上品そうな猫だった。作業を始めたときには、食卓の下で不安そうにこっちを見ていたが、そのうちどこかに姿を消した。しばらくして、二階の子供部屋の整理をしているときに、なにげなく出窓の開ききっていないカーテンのうしろをのぞいてみると、そこに猫がいた。かくれんぼで見つかったみたいに困った顔をしていた。もうほかに隠れる場所を思いつかないのか、恐怖で足が動かないのか、じっとこちらを見つめていた。子どもは「猫をダンボールに入れよう」などと言っている。カーテンをはずすのは最後にすることにして、その場を離れた。数時間後、すべての搬出が終了したので、猫の写真でも撮らせてもらおう、と思い立った。しかし、肝心の猫がいない。どこにもいない。名前を読んでも返事がない。けっきょく、最後まで猫は見つからなかった。裏山に隠れてしまったのだろうか? いまでも?

◆ カーテンのうしろに隠れていた猫の表情が忘れられない。画像の猫にちょっと似ていた。そういえば、この猫も引越のときに、はずして立てかけてあったフスマの陰に心細そうに隠れていたのだった。