|
◆ 洗濯にも選択が必要である。洗濯といってもいまでは全自動洗濯機に放り込むだけだが、その際いつも選択に悩んでしまう。この靴下は、洗濯したほうがよいのか、ゴミに出したほうがよいのか。で、たいていは洗濯することを選択して、穴が開くまではき続ける。 |
◆ まったく蒸し暑い。年を経るごとに暑さが耐えがたくなってゆく。暑い夏は来なくていい。 ◆ で、涼を求める方向はいつでもふたつ。海と山。あなたはどちらが好きか? ◆ ワタシはだんぜん山派なんだけど、山らしい山には久しく登ってない。その代わり、毎日階段を登ってる。今日は3階だった。もちろん、蒸し暑さが増すばかりで、いっこうに涼しくはならない。300階ぐらいの階段を登れば、すこしは涼しくなるだろうか? (あるいは?)まさか。無限の階段を登り続けるうちに、いつしか森林限界を越えて・・・、だが、そんな奇跡があるはずもなく。 ◆ 森林限界。口にするだけで、耳にするだけで、ひんやりとする不思議なコトバ。 ◇ しんりん-げんかい 【森林限界】 高緯度地方や高山において、森林が成育しうる限界線。本州中部の高山では2500メートル付近、水平分布では北緯六〇~七〇度付近である。 ◇ 山に登ると、標高が高くなるにつれて周囲にあらわれる樹木や他の植物の種類が変わることに気付きます。特に夏、高山(本州では標高2,500m以上)を目指して登山をすると、ずっと山道の周囲にあった森林が途切れ、草花だけの“お花畑”に出会い、その美しさに目を奪われた方々も多いとおもわれます。つまり、山に育つ植物は標高が異なると種類がかわること、そしてある高さ以上になると森林がなくなり、そこでは大きな木が育たなくなってしまいます。この境を森林限界と呼びます。 ◇ 気候の厳しい高所では、背の高い樹木が生育できなくなる標高ラインのことを森林限界(ティンバーライン)という。本州では標高約2500m、北海道では緯度が高いので標高約1200~1500mが森林限界となります。森林限界以上は高山帯といい、そこでは地を這うように枝を広がるハイマツが生育できます。 ◆ 最後のは、ちょっと 「てにをは」 がおかしい。森林限界を越えると、視界を遮る樹木はもうない。そこでは、ハイマツ(這い松)が地を這うように枝を広げて、足元で邪魔をしてたりもするけれど、となりには可憐な高山植物の 「お花畑」。 ◆ 森林限界、ハイマツ、お花畑。涼しげなコトバを並べてみたけれど、う~ん、やっぱり下界は蒸し暑い。 |
◇ 小学生の頃、たいていはみんなから好かれていない同級生に向かって、「おまえなんかカビだ」 という残酷なののしり言葉がよく発せられたものだ。するとまわりから、決まって 「ふえる前に殺しちゃえ」 という合唱が起こった。 ◆ いじめられっ子にたいする侮蔑のコトバはアメリカでも日本でもそう変わりはないらしい。個人的な記憶では、高校においてさえ、同級生にカビとあだ名をつけるバカがいた。「おまえなんかカビだ」、これは英語ではどういうのか? そんなことが気になって、原文にあたってみると、 ◇ I well remember a common schoolyard taunt of my youth, often cruelly directed at unloved classmates: “There is a fungus among us” ― a cry that always inspired the ritualistic retort, “Kill it before it multiplies.” ◆ “There is a fungus among us.” カビに当たる単語が fungus で、これはどちらかというとキノコではないかと思ったけれど、よく考えてみると、カビもキノコもたいした違いはない。 ◇ ところでカビとキノコとはどう違うかというと、ほとんど似たようなもので、「類」としては同じ。唯一の違いは、カビが子実体(キノコ)を作らないのに対し、キノコが子実体を作るってことなんだ。言い方を変えれば、子実体を作るタイプのカビが一般に 「キノコ」 と呼ばれるわけ。 ◆ たいした違いはない。ないけれども、「おまえなんかカビだ」 と言われるのと 「おまえなんかキノコだ」 と言われるのとでは、受けるダメージがかなり違う(と思う)。カビとキノコではイメージがかなり違う。どちらかを選ばなければなならないとすれば、ワタシは断然、キノコと言われたい。バカにされてるのだとは知りつつも、キノコだと許せなくもない気がする。 ◆ で、“There is a fungus among us.” に戻って、この文は、読んでみると、「ファンガス・アマンガス」 とキレイな脚韻を踏んでいるのがわかる。だから、この侮蔑のコトバを日本語に置き換える際にも、やはり脚韻を踏むことにして、「あのコはキノコ」 とでもした方がいい。 |
◆ 『東電OL殺人事件』 の著者である佐野眞一が、この事件に関心をもった理由をこう語っている。 ◇ なぜこの事件に関心をもったかとのお尋ねですが、少し難しくいえば、ありとあらゆる出来事が瞬時のうちに忘れ去られ、過去にとりこまれてしまういまという時代の異常な風潮に、私なりに抵抗したかったからです。すべてがあわただしく過ぎ去るという意味のドッグイヤーという言葉がありますが、この事件の発端から現在までを考えると、その意味がよくわかります。 ◆ ワタシはこの文章で、はじめてドッグイヤーというコトバを知った。 ◇ ドッグイヤー 【dog year】 情報技術分野における革新のスピードを表す概念。通常7年で変化するような出来事が1年で変化すると考える。〔人間の7年が犬の1年に相当することから〕 ◆ 犬の年にならえば、「十年ひと昔」 というコトバも 「一年二年ひと昔」 と言い直す必要があるだろう。 ◆ ドッグイヤーというコトバでワタシが思い出すのは、カミュの 『異邦人』 に出てくるサラマノという老人とその飼い犬のハナシ。 ◇ 暗い階段を登りながら、同じ階の隣人、サラマノ老人とゆき会った。彼は犬と一緒に住んでいる。八年前から犬と一緒にいる。そのスパニエル犬は、(赤むけだと思うが、)皮膚病にかかり、そのためすっかり毛が抜けて、はげと褐色の瘡蓋(かさぶた)だらけなのだ。この犬と一緒に、狭い部屋に二人きりで生活したため、サラマノ老人はついに犬に似てきた。 ◇ 女房が死ぬと、ひとりぼっちになった気がした。そこで、犬を一匹工場の仲間に頼み込み、ほんの子犬のうちに、あれを引きとった。はじめはミルクで育てなければならなかった。ところが、犬の寿命は人間より短いから、ふたりは一緒に老いぼれることになった。 |
◆ ついでに、『異邦人』 からもうひとつ。 ◇ 長いこと私は――なぜかはわからないが――ギロチンにかけられるには、階段をのぼって断頭台へあがらねばならぬ、と信じていた。〔中略〕 現実には、機械は、ごく単純に、地面にじかに置かれていて、思ったよりずっと幅が狭かった。〔中略〕 機械はそれに向かって歩いてゆく人間と同じ高さに置かれている。男は誰かに出会うとでもいった調子で歩いて行き、それにぶつかる。 ◆ 先日、祖母が他界して、京都市の斎場で最後のお見送りをした。京都市の火葬場は東山の山中にあるので、そこへ行くことを 「お山へ行く」 と言う。京都人にとっては、死者を荼毘に付すことと山に登ることとは分かち難いイメージで結びついている。だから、 ◇ 東京で、町のど真ん中の葬祭場に火葬場があるのを知った時には吃驚しましたが、考えたら山ないもんね。 ◆ というコメントにはまったく同意する。山がなければ仕方がない。山がない地域のひとたちは、京都とはまた別の葬送のイメージをもっているのだろう。でも、山があるなら火葬場は山にあったほうがいい(と思う)。つぎは小田原市のサイトから。 ◇ 昭和8年に建設された従前の火葬場は市街地内にあり、周辺の宅地化、敷地の狭隘性、老朽化により、市街化の見通しの少ない山岳部に新たに計画決定しました。 ◆ もちろん、今の時代に新しい火葬場の候補地に山岳部が選ばれるのは、そこが死者を見送るにふさわしい静寂さや荘厳さを備えた聖なる空間であるからではまったくない。たんに市街地にあると迷惑だと思うひとが多いので、できるだけ人里はなれた場所を選択しただけのことである。 ◇ 火葬場の改築・移転には当該地域の住民による反対運動がおこりやすい。そこでいくつかの自治体が集まって広域行政組合を設立し、広域斎場を設けることで、そのリスクを低減することを図る傾向がある。同様の事情から、住宅地から離れた場所に立地しようとするのが一般的だが、日本の住宅事情を考慮すると、必ずしもそのような場所に作れるとは限らない。そのため都市部のような場所においては、周辺を森で囲む・ぱっと見ただけでは火葬場とはわからない外観など、周辺地域に配慮した立地となっている。乗り入れる霊柩車も、派手な宮型・寺院型のものは自粛するようになっている。また、名称も 「~斎場」 「~聖苑」 などが多く、「~火葬場」 とする施設は激減している。 |