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◆ 珍しいことに、ブログで SaturnianCafe を紹介してくださった方がいる。《ランボー・ブログ》 の門司邦雄さん。 ◇ 2007年6月19日の 「アナログからデジタルへ」 の記事に書いた SaturnianCafe (サチュルニアン・カフェ)のご紹介です。 ◆ で、2007年6月19日の記事というのを見てみると、 ◇ 私が興味を持って見ているサイトに、運送屋さんのフォトダイアリーサイトがあります。日本各地が彼なりの視点で撮影されていて、興味を引きます。 ◆ と、たったこれだけだが、妙にウレシイ。続けて、2007年6月19日の記事の末尾。 ◇ 今の写真は巨大設備を使ったスケールメリット的なコマーシャル画像と、きわめて撮影しやすい日常の写真に分化が進行しているように見えます。滅多に無いような決定的瞬間は、確かにあるでしょう。でも、カメラの発達により、小さな決定的瞬間でも、誰にでも手の届くものとなりました。現在、私は、ひたすら匿名の撮影を求めています。 ◆ 門司さんはフリーカメラマンであるらしい。だから、写真にたいする洞察が素人のワタシなどよりはるかに深いのは当然といえば当然だろう。「現在、私は、ひたすら匿名の撮影を求めています」 という一文に込められた思想がどのようなものかはにわかにはわからないし、そもそも匿名であるのが撮る人なのか撮られる人なのかもワタシには判然としない。あるいは、写真家という写真にかんしては特権的な存在とはまったくかかわりのないところで流通する無数の写真の総体のことだろうか? それでも、日記代わりに写真を撮っているだけのワタシにも、「小さな決定的瞬間」 と呼ぶべきものははたしかにあって(それはたいてい、不意に猫が目の前を横切ったといった類の他愛もないものだが)、そんなときには、平凡な日常もまんざら悪いものではない、と少しだけ気持ちが軽くなったりする。「小さな決定的瞬間」 に立ち会うにさいして、カメラが必ずしも必要であるとも思えないが、ワタシの経験からは、カメラを携えていることで、「小さな決定的瞬間」 にめぐりあう機会が著しく増しているような気がする。まったく不思議なものだ。 ◆ ところで、門司邦雄(もんじくにお)さんがブログで使用されているハンドルは、Parolemerde2001。これはなんだろうか、とすこし考えた。parole(パロール) と merde(メルド)。フランス語で、言葉と糞。よくわからないが、あるいは、「もんじくにお」 の翻訳でもあるか? とはいえ、parole が 「もんじ(文字)」 であるというのは、やや苦しいかもしれない。parole は言葉であっても、むしろ話し言葉を指す語であり、「もんじ(文字)」 の訳語には、書き言葉を指す écriture(エクリチュール)がよりふさわしい気がする。「くにお」 が 「くそ(糞)」 というのはさらに苦しいかもしれない。門司さんのブログはフランスの詩人ランボーをテーマにしたものだから、あるいは、ランボーが詩のなかで、parole-merde という造語を使っているのかもしれない。 |
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◆ あの日の天気をあなたは知っているだろうか? たとえば、あなたの生まれた日の天気。 ◆ 天気の話をあれこれ検索していて、すてきな文章に出会った。 ◇ 生まれた日の天気の話ってのは、力をくれる。雨でも雪でもくもりでも、どんな空の日に、母が頑張り、周囲が支え、自分やみんなが生まれてきたのか、想像すると涙がでたり、穏やかなキモチになる。子どもが生まれたらその日の天気のことを書いておこうと思ってた。大きくなって、これを読めるようになったら、自分やほかの誰かが生まれた日のことを想像してみてホシイ。ソレはすごく大切なことを教えてくれると思う。 ◆ ワタシは自分が生まれた日の天気を知らない(さらには、生まれた時刻も、生まれた病院も知らない)。今度、実家に帰ったら、少々恥ずかしい気もするが、尋ねてみることにしよう。でも、母も父も、憶えてなかったらどうしよう? |
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◆ 天気のハナシばかり書いているが、まだ飽きないので、もうひとつ。 ◆ あの日の天気をあなたは憶えているだろうか? たとえば、1945年8月15日。 ◇ 〔MSN毎日インタラクティブ:東京彩人記 反戦と平和テーマ「日本の青空」監督・大澤豊さん〕 僕はね、敗戦のとき10歳だった。群馬県の高崎という地方都市ですが、空襲が毎晩あって逃げ惑った。玉音放送のことは、リヤカーを引いておふくろの着物を農家で食べ物に換えた帰りに知った。「戦争が終わった」と大人たちが言い、そのときに空を見たら、確かに米軍の飛行機が飛んでいない。8月15日は抜けるように空が青かった。それで映画のタイトルも「日本の青空」にした。 ◇ 〔JanJan:松岡陽子マックレインのアメリカ報告〕 1945年8月15日、私達津田塾専門学校(現津田塾大学)の学生は、屋内体操場がその1年半ほど前に早変わりした学校工場で戦闘機のピストンを作っていたが、間もなく校庭に呼びだされ、敗戦を知った。今でも青空の下で玉音放送を聞いた日が忘れられない。 ◇ 〔明和会:あの日あの時私の昭和20年8月15日(大坪禎夫)〕 あの八月十五日、私達家族は信州松本郊外の山村にいた。青空が拡がり、高原特有の空気が澄み、爽やかな日であった。何故かその日の情景は今でもはっきりと思い浮かべることが出来る。 ◇ 八月十五日、空はぎらぎらと晴れあがり、盛夏という言葉がぴったりする暑い日であった。 ◆ あの日、日本の多くは晴れていた。抜けるような青空が、ひとびとを悲しくさせたか嬉しくさせたか、それはわからない。もしかすると、喜びあるいは悲しみが、空の青にいっそうの彩度を加えたのかもしれない。 ◆ 写真の用語で、「記憶色」というコトバがある。 ◇ 〔ASCII24〕 人の色の記憶は、その色の特徴を誇張して憶える傾向がある。特に顕著なのが、青や赤、緑など原色系で、たとえば晴れた空や澄んだ海の青、夕景や紅葉に色づいた木々の赤色、森の緑などで、これらは実際よりも鮮やかな色として記憶される。ただ、これはあくまでも記憶の中の色、つまり記憶色であって、実際の色とは異なっている。風景を写真で撮ると、実際よりもくすんだ色のように感じるのは、この記憶色と実際の色に差があるためだ。 ◇ たとえば、撮影者が綺麗な「南国の青い空とエメラルドグリーンの海」に感動して写真を撮ったとします。その時、撮影者には感動という主観が加わる事でより誇張された青い空とエメラルドグリーンの海が脳に記憶されるのです。もし、その時撮影された写真が実際のものにより近い色で再現されると、ほぼ例外なく「この写真は、なんか違う。全然感動が伝わって来ない」とガッカリするのです。そこで、青や緑を誇張(彩度を上げ、コントラストを強調)すると「まさにこの写真のような青い空とエメラルドグリーンの海だった!」と感動的な記憶が蘇るのです。”記憶色”とはこのように作られた嘘の色なのです。 ◆ 嘘の色かもしれない。だが、人は機械(カメラ)ではないのだから、なんの感情もなしになにかを注視することなどできはしない。それが、なにげなく見上げた空であっても。 ◆ というわけで、ワタシの「PhotoDiary」の写真の色も、多くの場合、彩度とコントラストを調整している。それはともかく、あたりまえだが、1945年8月15日の青空をワタシは見ることができない。セピア色の記憶などというけれど(そんなものがほんとうにあるのだろうか?)、記憶そのものがないので、色褪せることもない。ワタシの想像上の8月15日の青空はあくまでも澄み切った青だ。 |
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◆ 「二人のイギリス人が出会うと、まず天気の話を始める」 と、ジョンソン博士は言った。 ◇ It is commonly observed, that when two Englishmen meet, their first talk is of the weather; they are in haste to tell each other, what each must already know, that it is hot or cold, bright or cloudy, windy or calm. ◆ イギリス人はいつでも天気の話をしているそうだ。 ◇ 〔All About:ロンドンで暮らす〕 「イギリス人はよく天気の話をする」……これはよく言われることですね。確かにイギリスでは、会話のきっかけとして、よく天気の話題が出ます。知り合いはもちろん、バス停で隣に立った人なんかとも 「今日はいいお天気ですね」 「雨ばかりで憂鬱ですね」 なんて一言から会話がスタートします。ただし、ここで注意しなくてはならないのは 「天気の話しは、単にキッカケであって、意味のあるものではない」 ということ。「寒いですね~」 と話しかけられたら、いくらあなたがそう思ってなくても 「そうですね~」 と返すのがお約束です。もし 「いや、昨日よりは暖かいですよ」 なんて反論してしまったら、相手は驚いてしまうこと間違いなしです。 ◆ イギリス人の国民性の実際についてはほとんど知るところがないので、どうして天気の話をするのが好きなのかはわからないが、上記の引用の 「単にキッカケであって、意味のあるものではない」 という箇所を読むと、やっぱり 「営業トーク」 の一種にすぎないのか、とちょっとがっかりもする。 ◆ イギリス人の国民性と天気の話の関連については、《Icons of England:Just Making Conversation》 に多少詳しくまとめられているので参考になったが、そこでも、 ◇ 〔Icons of England〕 There are rules to weather-related conversations, however. All writers on the subject agree that you must never contradict anybody when discussing the weather, as this would be very bad etiquette. Even if it is snowing outside and someone says, “Nice weather, isn’t it?” you must reply, “Yes, it is!” ◆ と似たようなことが書いてある。「外は雪でも、いい天気ですね、と言われたら、そうですね、と応えなければならない」。それがエチケットであるそうだ。これではつまらない。 ◆ イギリスは雨が多い(ところが多い)そうだ。 ◇ 神鞭〔常泰〕 英国あたりでもお天気のことはよく云いますね。ブライト・サンシャインなどと云うと大騒ぎだし、田舎へ帰る奴を霧のシーズンにロンドンから送る時に、「太陽に会ったらよろしく」 なんて云うのはいいね。 ◆ いいね。そういえば、東京もここしばらく太陽が姿を見せない。 |
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◆ 「天気の話」を書いたら、ユーミンの 「悲しいほどお天気」 を思い出した。 ♪ いつまでも ◆ この歌詞はちょっと複雑で、悲しいほどお天気の青空は、個展の案内ハガキをくれたかつての美大の仲間が描いた風景画のなかにあるのかもしれないし、その仲間がむかし学生時代に描いた風景画のなかにあったのかもしれない。また、絵のなかの青空であるにとどまらず、仲間たちと過ごした青春時代の思い出の青空であるかもしれず、あるいは、なつかしい日々をふと思い出させた今日の青空であるかもしれない。それにしても、「悲しいほど」 のお天気とはどんなだろう。 ◇ 朝、雨戸を開けたら、まぶしい太陽が燦々と輝いていました。真っ青な空。そして何故か、突然の脱力感。ユーミンの歌に「悲しいほどお天気」というのがあります。聴いたことがないので、内容はわかりませんが、自分の心境と、歌のタイトルだけが妙にオーバーラップしました。 ◆ 悲しみは人それぞれで、お天気もそれぞれだろうけれど、たしかに「悲しいほどお天気」というのにふさわしい日があって、それは「悲しみ」という心の琴線に触れている以上、当たり障りのない「営業トーク」のお天気話ではおさまりきらないだろう。
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