MEMORANDUM

◆ フランス文学者というと、今年1月17日、阿部良雄、急性心筋梗塞で逝去。74歳。以下、松浦寿輝による弔辞の一部(《筑摩書房 PR誌ちくま 2007年3月号 追悼・阿部良雄 弔辞──阿部良雄先生を送る 松浦寿輝》)。

◇ 一つ一つの言葉を、単に辞書に載っているその字面の意味が 「判る」 というだけではなく、その重さ、色合い、手触り、匂いまで含めて精密に、厳密に理解しないかぎり、何を判ったことにもならないのだということ。それはひどく手間のかかる困難な営みではあるが、小さな石を一つ一つ積み上げて塔を築いてゆくようなその労苦は必ず報われるのであり、小さな出っ張りに辛うじて指をかけてじりじりと体を引き上げてゆくような忍耐強い作業によって、人は或るとき、それまでより格段に広い地平を見渡すことができる場所に立っている自分に気づいて驚く瞬間を確実に体験しうるのだということ。そうした基本的な読みの労働をないがしろにして威勢のよい主張を繰り広げる批評だの、口当たりのよい通念をほどほどの水準でまとめるというだけに甘んじている研究だのは軽蔑すべきであること。それが阿部先生の教えでした。
www.chikumashobo.co.jp/pr_chikuma/0703/070301.jsp

◆ もうひとつ、《内田樹の研究室》 のブログからの引用。タイトルは 「どうして仏文科は消えてゆくのか?」。

◇ かつては文学部の看板学科だった仏文科の廃止が続いている。
神戸海星女子大に続いて、甲南女子大も仏文科がなくなる。
東大の仏文も定員割れが常態化している。

blog.tatsuru.com/2006/12/01_1257.php

◆ 神戸海星女子大の仏文といえば、そういえば、あのひとはいまごろどうしているだろう、というような、はるかむかしの個人的な思い出はさておき、そういえば、とまた別なことを思い出した。いつだったか、「フランス語は数を勘定できない言語」 だと発言した知事がいて、フランス語関係者が名誉毀損で法廷に訴えたことがあった。あの裁判の判決はどうなったのか? 気になって調べてみると、今月14日、「<石原都知事>仏語侮辱発言で賠償請求を棄却 東京地裁(毎日新聞) - Yahoo!ニュース」 という記事。

◇  石原慎太郎・東京都知事のフランス語侮辱発言で名誉を傷付けられたとして、フランス語の学校経営者や研究者、翻訳家ら91人が知事と都に計2120万円の賠償などを求めた訴訟で、東京地裁は14日、請求を棄却した。笠井勝彦裁判長は「関係者に不快感を与える配慮を欠いた発言だが、原告の名誉棄損には当たらない」と述べた。
 石原知事は04年10月、都立大などを再編した首都大学東京の支援組織設立総会で「フランス語は数を勘定できず国際語として失格」と発言した。都立大のフランス文学教員らが再編に反対したことが背景にあった。

headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071214-00000127-mai-soci

◆ 解体されつつある東京都立大のフランス文学教員のひとりが個人サイト《菅野賢治の研究室》にこう記している。

2007年9月21日(金) 13:30~
 石原都知事フランス語訴訟 原告本人尋問
 霞ヶ関 東京地方裁判所 第627号法廷

○第二次訴訟ならびに東京都に対する国賠訴訟の原告として、勤務先の東京都立大学にはきちんと「欠勤届」を出した上で、原告本人尋問のために出廷しました。
以前にもここに書いたとおり、私は、この訴訟への参加を、ある学術の場で現実に起こった出来事を司法という公の場に知らしめ、公文書として歴史に残すという意味において、一個の歴とした「学術活動」とみなしている。「フランス語は国際的に失格しており、東京都の大学においてフランス語の需要はもはや存在しない」という都知事の公的発言は、純粋なる虚偽であり、そんなものを日本の首都の教育行政史の一ページとしてそのまま放置するわけには絶対にいきません、ということ。
その上で、もう一度、確認しておきましょう。マリック・ベルカンヌ氏が東京で経営を続ける民間学校の長として、明治大の小畑先生が同僚の先生方をまとめあげて、私が東京都立大学(旧制度)の仏文専攻を代表するような形でして、そして、ほかの原告、賛同者の方々が個人の資格で抗議活動を続けてきましたが、東京で(あるいは東京を首都とする、この日本という国で)フランス語に深く携わっている他の機関、組織、団体から、公の場での意思表示はいっさいなされなかったということ。私は、そのことの意味をしっかりと心に刻んで、これからの余生を過ごしていこうと思うわけであります。〔下線は引用者〕

www17.plala.or.jp/kenjikanno/katsudou.html

◆ この明らかな 「負け戦(いくさ)」 を誠実に戦っておられる方々に心からの賞賛を。

◆ メモ。《内田樹の研究室》のブログからの引用。フランスの格差社会について。

◇ あまり言われることがないけれど、「システムについての知識」の多寡がフランスのような社会では階層格差の拡大に大きくかかわってくる。
フランスは日本のように「かゆいところに手が届く」ような情報提供サービスはない。
システムの変更やシステムの利用法についてのアナウンスメントは必要最低限しか行われない。
だから、「システムについての知識」はフランスでは重要な文化資本である。
そして、その知識の差はそのまま階層格差に拡大される。

blog.tatsuru.com/archives/001913.php

◇ これが「フランス的」ということだと私は思う。
「システムについての知識」を持たない人間と持っている人間を同一システムに放り込んで、これは「平等な自由競争」であるというのである。
パリについたばかりのときに、「カルト・ミュゼ」という美術館の割引券を買うために11箇所の窓口をたらいまわしにされたという話をした。
そのとき私がもっとも驚いたのは、地下鉄公団の職員たちが、自分たちが販売している(はずの)割引券について、それがどこで売っているのかを言えなかったということである(正解は「それは発売中止になっているので、もうどこでも売っていない」だったのだが)。
システムの内部にいる人間でさえ、システムについての知識を欠いている。
そして、そのことを知らなかった(あるいは知りたくないと思っていた)。
たいへん失礼ではあったが、「彼らは一生この窓口勤務から出られないだろう」と私は思った。
フランスに少しいると、ここでは「自分の属しているシステムの構造や機能がわかっている人間」と「わかっていない(けど、そのことに気づいていないあるいは気づきたくない)人間」の間に超えがたい階層差があることがわかる。
そのようにして階層差は「システムについての知」という文化資本差を経由して、拡大再生産されている。
彼らをその階層に縛り付けているのは「システムについての無知」なのであるが、「自分は無知である」という事実を認めることを耐え難い屈辱だと思っている人間はおのれの無知から構造的に逃れることができない。

Ibid.

  悪循環

先日、銭湯に行こうと思っているうちに、うたた寝してしまい、11時過ぎになってから出かけた。風呂上りにタバコを一服しようとポケットを探ると、一本もなかった。11時を過ぎると、自動販売機でタバコは買えない。タバコを売っているコンビニも近くにはない。さてどうするか? 明日の朝まで我慢すればいいだけのハナシだが、いま吸いたいのだから、しようがない。24時間営業のデニーズの店内にタバコの自販機があったのを思い出し、タバコだけ買うのも、なんだか悪い気がして、それならビールの一杯でも飲んで行こうかと思った。デニーズでビールを飲むにも、話し相手がいるわけでなし、なにか読むものがあった方がいいかと思い、タバコの売っていないコンビニで適当に時間がつぶせるようなものをと物色した結果、雑誌1冊と文庫本2冊を購入。合計1680円。デニーズに入って、生ビールの中ジョッキを注文。ビールを飲むとつまみも欲しくなるので、つまみになりそうなものを2品追加。合計、正確な金額は忘れたが、2000円ぐらい。結局、タバコを一本吸いたいがために、4000円弱の出費。まったく悪循環だなあ、と思ったが、こういう状況を表現するのに「悪循環」よりも適切なコトバがあったような気がして、しばらく考えてみたが、ワタシのアタマの辞書では見つからなくて、ちょっとストレス。

◆ 暑い。と書いてからひと月がたったが、相変わらず暑い。夜になってもまだ暑い。

◆ さきほど、渋谷駅ですれ違いざまに、ふと耳にした会話の断片。若い女性がふたり。片方がもう片方に、

◇ 「わたしは、お金持ちのひととしか結婚しないの」

◆ と言った。このコトバを帰りのバスの車内で反芻しながら、あれこれ考えてはみたが、だからといって、もちろん少しも涼しくはならなかった。

  道行

◆ 暑い。「暑い、暑い」 と言っても、涼しくなるわけはないのだから、なるべく言わないようにしようとは思うのだが、暑い。

◆ セミもアチイ、アチイと鳴(泣)いている。昨日、セミのなく木立で休んでいて、たわむれにセミを探してみると、何匹もいる。その何匹もいるセミのうち、2匹のセミがゆくっりと、相前後して幹を上っていくのが見え、道行(みちゆき)という言葉を思い出した。一瞬、あたりが涼しくなったような気もしたが、すぐにまた汗がふきだした。

◆ 東京に住んではいても、ヒルズ族であるわけでもないので、六本木にはほとんど縁がない。ときたま仕事で行くくらいだ。よく知られているように、六本木界隈には外国人が多い。

◆ 昨日、六本木で仕事があった。六本木通りにとめたトラックのそばを、若い金髪の白人女性が歩いてくる。彼女がワタシの前を通り過ぎるまさにそのとき、彼女は手にしたケイタイに向かって、こう叫んたのだった。

◇ Roppongi fuckin' dōri!

◆ ロッポンギ・ファッキン・ドーリ。たぶん ケイタイの向こうで 「いまどこにいるんだい?」 とでも聞かれたのだろう。で、彼女は答えたのだろう、「六本木ファッキン通りにいるわ」。