MEMORANDUM

◇ 人の顔を、まっすぐに見られないのだ。自分の子供に向かっては、「話をするときは相手の顔を見て」なんてびしびし言うくせに、自分では人の顔を正視できない。正視をしているふりはするのだ。顔も目もまっすぐ相手を見る姿勢になる。ところが、目の芯が相手をとらえていない。相手の目と自分の目が出会った瞬間、目は何も見なくなってしまうのだ。そんな器用なことができるはずないとお思いになるかもしれないが、できるのですね、これが。
川上弘美 『なんとなくな日々』(新潮文庫,p.50-51)

◆ ちょっとまえ、ああ、いま、たしかに目を見て話しているな、と思ったことがあって、そう思ってしまったのは、これまで、ふだん人の目を見て話しているかどうかについては自覚的ではなかったということなのだろう。考えてみても思い出せない。人に「ちゃんとこっちを見て話せ」と言われたこともあまりないから、いちおうは相手の顔を見ていたのだろうとは思うけれども。そのもっと以前には、意識的に相手の目を見て話そうとしていた時期があった記憶はあるが、そんなエネルギーもいまはない。たぶん、相手の目を見て話すというのは疲れることなんだろう。だから、おそらく、ふだんは川上弘美のように器用に「見て」いるんだろう。そして、ごくまれに、目を見て話しても疲れを感じさせないようなタイプのひとがいて、そのようなひとと話す機会があったときには、「ああ、いま、たしかに目を見て話しているな」と、ふと自覚したりもするのだろう。

◇ 駅の掲示板に貼ってあるニュース写真を見るのが好きだ。

◆ と、川上弘美が書いている。

◇  ときどき私は、息苦しくなる。知らないということによっておかされるあやまちは多いのだから、情報は多いにこしたことはないのだが、こんなことは知らなくてもいいのに、というような情報までが満ち溢れているようにも思うのだ。むろん数ある情報の善悪を勝手につけるつもりは、毛頭ない。情報というものは薬と一緒で、使う本人のやり方次第で役にも立ち毒にもなるのだろうから、どんな情報だって、それが特定の個人をはなはだしく傷つける場合以外は、どんどん流れるべきものには違いない。ただし、この情報過多の時代にどうにも息苦しさを感じてしまうのも、事実なのだ。
 そういうときに見る掲示板のニュース写真は、いい。そこにただある写真。ほんの少しの文章。むろんそこにも無限の物語が隠されているはずだが、あえて物語を語り起こそうとしない潔さが、掲示板のニュースにはあるように思う。

川上弘美 『なんとなくな日々』(新潮文庫,p.134-135)

◆ 駅の掲示板の写真ニュース、ワタシもときどき見るが、ほかに見ているひとをほとんど見かけない。

◆ 「ブドウ畑のカブトムシ」のハナシで、レッサーパンダの風太のことを思い出した。

〔Zaggle.co.uk〕 In May 2005, the Red Panda gained a surge of popularity in Japan when Futa (風太) a member of the species living in the Chiba Animal Park (千葉市動物公園) was found to be able to stand on his hind legs like a human for up to 30 seconds at a time. Not to be outdone, another zoo, the Yokohama Zoo Zoorasia (よこはま動物園ズーラシア) in Yokohama, Kanagawa recently found another "gifted" red panda within their confines, Dale (デール) who is capable of walking a considerable distance bipedal.
zaggle.net/content/education/r/Red_Panda.php

◆ なにも英語の文章を引用することもないのだが、千葉で風太が直立すると、"not to be outdone" (負けてはならじと、負けじとばかりに)、横浜ではデールが直立するだけでなくそのまま歩行までしてしまう。かくして、各地の動物園で、"not to be outdone"、つぎつぎとレッサーパンダ(red panda)が直立し始める。というようなことがあったのが、2005年5月だった。その後についてはなにも知らないが、おそらくいまでも、直立したり直立歩行したりしているのだろう。風太やデールが、直立にかんして、"gifted"(天賦の才能のある)な個体であったことはまちがいないだろうが、そもそもレッサーパンダには直立しうる潜在能力があるのだし、風太以前にもその能力を顕在化していた個体も数多くいたことだろう。けれど、記事にするさいには、物語化の誘惑というものがつねにあって、おもしろそうなお話に仕上げてしまいがちになる。そういう意味で、"not to be outdone" はじつに便利なつなぎのコトバなのだった。

◆ カブトムシに戻って、ふたたび《2ちゃんねる》のスレ(【長野】「聞いたことがない」ブドウ襲うカブトムシ 出荷直前、果汁吸われる被害)から。

◇ 368:ブドウの味を覚えてしまった。もう、カブトムシたちの間に口コミで伝わっているから、いくら退治しても無駄だねw

◇ 490:今までおいしさを知らなかったんだろ。きっと1匹が試しに吸ってみたらうまくて、カブトムシみんなに広がって話題になってるんだと思う。

◆ カブト虫も負けず嫌いなのかもしれない。

◆ 長野県でこんなニュース、「ブドウ襲うカブトムシ 出荷直前、果汁吸われる被害」

〔信濃毎日新聞:8月5日〕 県内有数のブドウ産地・松本市里山辺で、出荷を控えたデラウエアに大量のカブトムシが集まり、果汁が吸われてしまう被害が発生している。一部の畑では7月下旬から毎朝数十匹が見つかり、専門家は「聞いたことがない」とびっくり。子どもたちには人気のカブトムシが“害虫”になる事態に有効な対策は見当たらず、地元の松本ハイランド農協も困惑している。〔中略〕 カブトムシなど甲虫類に詳しい日本甲虫学会会員の****さんは「落果し、発酵した果実にカブトムシが引き寄せられることはあるが、(木になっている)フレッシュな果実を餌にする例は聞いたことがない」と驚く。
www.shinmai.co.jp/news/20090805/KT090804FTI090001000022.htm

◆ (「デラウエア」とはいったいどんな高級ブドウだろうかと思ったら、ふつうの種なしブドウのことだったのね。「デラウェア」とも。知らなかった。)

◆ で、ブドウ畑のカブトムシ。これは驚くべきことなのだろうか? 《2ちゃんねる》で、このニュース関連のスレ(【長野】「聞いたことがない」ブドウ襲うカブトムシ 出荷直前、果汁吸われる被害)が立っていたので、読んでみた。

◇ 27:山形では普通にブドウについてたぞ、カブトムシ。あまり、話題になったことはないから、被害はたいしたことなかったのかもしれんが。
tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1249450797/

◇ 45:元葡萄農家の娘だけど、普通にかぶと虫が葡萄のしる吸いに来てたよ。ナメクジの方が被害がデカイ。今年は雨が多かったから、玉割れして汁が出たから、かぶと虫が寄ってきたんでしょ。

◇ 47:普通にカブトムシはブドウを吸汁するのに、専門家じゃなくてただの学会平会員なんかに聞くから、こういう恥ずかしい記事を世に出してしまう。

◇ 68:ガキの頃よくぶどう園でカブトムシ貰ってたぞ。元気よくぶどうの汁吸ってた。

◇ 119:え??? 昔、うちの葡萄の木によくカブト虫が集まって来てたけど、めずらしい事だとは思ってなかった・・・

◇ 136:昔からカブトはぶどうには、害虫です。みつけたら首むしって退治してました。

◇ 234:10年以上前から祖母の巨峰畑ではカブトムシは害虫だ。小学生の頃から畑でカブトムシ見つけたら踏み潰せと教えられてきたわ。

◇ 236:山梨県でも普通かな。子供の頃にブドウや桃の畑に取りに行った。落ちた桃の中にいたりする。

◇ 269:カブトムシは普通にぶどう食うよ、急にぶどう畑に来るようになったのは付近の樹液出す木を切り倒し過ぎちゃったからでしょ…

◇ 283:これはむかしから普通によくあること。って、さっき知り合いのデラウェア農家の人が言ってたよ。最初からハウスをネットで覆うのは最近常識のことらしい。

◇ 296:子供の頃だったから20年ほど前になるが、山梨でぶどう狩りに行った。親はぶどうをとっていたが、わしはカブトムシとミヤマ、ノコギリクワガタを大量にとってかえった。おそらく大昔から、ぶどうにはカブトムシはつくはず。

◇ 355:別に不思議なことではないのでは。果実に群がるカブトなんて数えきれんほどみてきたよ。

◇ 367:聞いた事無いだと? 30年以上前の俺が子供の頃には近くの葡萄畑にカブトをとりに行くのが日課だった。関東での話しだがな。昔からカブトは葡萄に集る事は俺らガキには常識だったぞw

◇ 388:昔から葡萄園にはカブトムシやクワガタさんがよく来てましたが? いまさら何をニュースにしてんだ?

◇ 392:ブドウ農家に聞いたらカブトがブドウに集まるのはよくある事なんだって。何らかの原因でブドウに傷が付いて汁が漏れたら匂いを嗅ぎつけてやって来る。他の虫や飛び石のような外的要因だけじゃなくて、果汁が多すぎて皮が耐えきれずに裂ける事もあるんだって。

◇ 418:田舎で葡萄作ってたけど、普通にカブトムシきてたみたいだが・・・

◇ 437:ブドウにはよく集まるよ。皮が裂けて汁が漏れると匂いに引き付けられてやってくる。

◇ 452:うちは祖父母がブドウ畑やってたけど、昔からカブトムシは害虫として知られてたよ。30年以上昔のはなしたけど、優しい祖父母は当時小学生だった僕ら兄弟のために、害虫なのに、カブトムシを育ててくれてた。

◇ 459:何を今さらって感じだな。カブトだけじゃなくクワガタもな。桃やイチゴもやられるんだぜ。

◇ 475:あれ? 毎年うちの裏手にあるブドウ畑に巨峰買いに行くと、いつも一緒にカブトムシも売られているよ? 沢山ブドウを買うと、欲しかったらタダでもっていっていーよーって言われてるけど。カブトムシがブドウを好きなのは当たり前だと思ってた。

◇ 525:カブトムシが葡萄に集るのは普通だと思ってた。知り合いのところの葡萄には毎年たくさん来てる。子供が小さい頃はよく昆虫採集させてもらった。ちなみに関東の南の方です。

◇ 545:実家が果樹農家だけど、この時期はモモ、ブドウ(巨峰)はカブトムシやクワガタムシが毎朝頭突っ込んでるけどね。ブドウは実が太りすぎて表面が割れてしまっていたりすると確実にやられる。桃は果実に袋被せていようが木にネットを張っていようがやられてる。昔からオスのカブトムシやクワガタムシは近所の子供行きだけど、メスのカブトやクワガタ、カナブンたちはどこの農家でもその場で踏み潰されてるw

◆ 複数の意見によれば、ブドウ畑にカブトムシがやってくるのは、それほど珍しいことではないようだ。で、まとめ。

◇ 607:何か変わったあると、「聞いたことない」と言う人が多いけど、改めてリサーチをすることはない。自分の知識や経験なんて極めて限られてることを覚えておいた方がいいよね。

◆ このアオドウガネが葉っぱを「食害していた」(いや、こいつが葉っぱを蝕んでいるのを目撃したわけではないので、たんなる状況証拠による推測)のもブドウだったが、残念ながら、カブトムシは見かけなかった。もしかしたら、ネットに覆われたブドウの房にうまくたどりついてかぶりついていたのが、1匹くらいはいたかもしれない。

◆ さいきん、虫のことをあれこれ調べるようになって、はじめて「食害する」というコトバがあるのを知った。たとえば、「柚子坊」をネット辞書で引くと、『大辞林』では「ユズやカラタチなどミカン科植物を食害し」とあり、『大辞泉』では「ユズ・カラタチなどの葉を食べて育ち」とある。園芸に縁のないワタシなどには、『大辞泉』の表現のほうが中立的で好ましいように思えるけれども、趣味であれ仕事であれ、じっさいにユズやカラタチなどを育てているひとには、「食害する」というのがまっさきに思い浮かぶ最適なコトバなのだろう。

◆ さいきん、身近な虫をあれこれ写真に撮っていて、その虫について調べるたびに、「~を食害する」などと書かれていて、ちょっと気がめいる。

◆ たとえば、クロウリハムシ。

◇ ウリ類の害虫で、とくにヘチマの花を好んで食害する。幼虫は根を加害するが、ウリハムシに比べて数は少ない。
『日本農業害虫大事典』(梅谷献二・岡田利承 編,全国農村教育協会,p.221)

〔昆虫エクスプローラ〕 カラスウリ類の葉を好んで食べ、他にダイズ、エノキ、シソなども食べる。幼虫は地中にいて、ウリ類の根を食べて育つ。
www.insects.jp/kon-hamusikurouri.htm

◆ たとえば、アオドウガネ。

〔昆虫エクスプローラ〕 成虫は、いろいろな植物の葉を食害する。灯火にもよく飛んでくる。幼虫は、地中で植物の根などを食べて育つ。
www.insects.jp/kon-koganeaodougane.htm

〔キッズgoo:図鑑〕 幼虫は植物の根を食べ、成虫も、葉っぱがぼろぼろになるまで食べつくすので、農家や園芸家などから害虫とされている。
kids.goo.ne.jp/zukan/infozukan.php?category=5&id=8

◆ どちらの例も、ひとつめの引用が「食害する」というコトバを用い、ふたつめの引用が「食べる」というコトバを用いている。クロウリハムシもアオドウガネも、好物の植物を食べた結果、「害虫」と呼ばれるわけで、それは仕方のないことだが、「食べる」を「食害する」と表現するのは、どうだろう? 虫の立場と人間の立場が混交していて、ちょっとわかりづらい。食べられた結果を食害というのは気にならないが、それに「する」をつけると、アタマがちょっとねじれる。アタマがねじれることなくすんなり理解できるのは、最後の《キッズgoo》の文章。

◆ とはいえ、「食害」はもともとは「蝕害」と書いたようで、それならしっくりくるかも。そういえば、「蝕む」は「虫食む」だったなのだなあ。

◆ くるくるしてるものはなんだろう?

◆ くるくる。たとえば、蝶のストロー。たとえば、葡萄のつる。それから? くるくるくる。くるくるしてるものが、くるくるしてるのは、なんでだろう? くるくるくる。頭のなかがくるくるくる。そういえば、「る」の字もちょっとくるくるしてる。

  柚子坊

◆ 2009年8月3日の「天声人語」。

◇  待っていた坊やが今年もやってきた。とは言っても人間ではない。わが家の鉢植えミカンに姿を現した柚子坊(ゆずぼう)のことだ。葉っぱと見まがう保護色も鮮やかな、アゲハチョウの幼虫をそう呼ぶ▼芋虫、と聞いただけで総毛立つ人もいる。蝶(ちょう)よ花よの成虫にくらべ、幼虫の人気は散々だ。その芋虫も、柚子坊と呼べば愛らしい赤子のように思われてくる。わが柚子坊は、すでに葉を何枚もむさぼり、健康優良児よろしく丸々と肥えている▼柚子坊が1匹育つのに、何十枚も葉を食べるそうだ。何年か前に、1本だけだったミカンが派手にやられた。そこでユズやハッサクを増やした。今なら5、6匹は養える。それでも果実は育つから、収穫の楽しみもある▼〈二つ折りの恋文が、花の番地を捜している〉と蝶をなぞらえたのは、『博物誌』のルナールだった。のどかな春の蝶のイメージだろう。片や炎天に影を落として舞う夏のアゲハは、身を焼くかのように情熱的で美しい▼わけても日盛りの黒アゲハは神秘的だ。その姿を、宙を舞う喪章にたとえた人もあった。幽明の境をひらひら飛ぶ。そんな想像だろうか。精霊の戻り来るお盆の頃にふさわしい、飛翔の姿かもしれない▼さて、わが柚子坊である。羽化まで今しばらく、鳥たちから逃れなくてはならない。あの大きな目玉の模様は敵を威嚇するためにあるらしい。それを見て徳川夢声は「団十郎のような立派な目」と驚いたそうだ。武運つたなく餌食(えじき)にならぬよう、名優の威にあやからせたい。案じつつ願いつつ、夏の日がゆく。
www.asahi.com/paper/column20090803.html

◆ 柚子坊、こんなコトバがあるとは知らなかったが、辞書にも載っていた。

ゆずぼう【柚子坊】 アゲハチョウ・クロアゲハ・カラスアゲハなどの幼虫の俗称。ユズやカラタチなどミカン科植物を食害し、刺激すると頭部から突起を出し独特の臭気を放つ。
三省堂 『大辞林』

ゆずぼう【柚坊】 アゲハチョウ・カラスアゲハ・クロアゲハなどの幼虫。ユズ・カラタチなどの葉を食べて育ち、初め黒色で、成長すると緑色になり、触れると頭の後ろから黄色や朱色の肉角を出す。
小学館 『大辞泉』

◆ 柚子坊の写真はなかったかと探したが見つからない。キアゲハの幼虫の写真ならあったが、これはユズにはつかないので、柚子坊とは呼べない。柚子坊の画像は、たとえば、《アゲハの幼虫の見分け方》を参照。

◆ 黒アゲハを「宙を舞う喪章にたとえた人」というのは、日野草城。

◇ 炎天に黒き喪章の蝶とべり