MEMORANDUM

◇ 彼等はすべて著しく無智であったが、親切で鷹揚で、狡猾懶惰(らんだ)な我々中年の兵士をかばってよく働いてくれた。彼等は体力を調節して使うことを知らず、病に遇うとすぐ斃(たお)れた。
大岡昇平 『俘虜記』(新潮文庫, p.54)

◆ 引越屋はもちろん兵士ではなく生命の危機にさらされることがあるわけでもないので、深刻さにおいてかなりの程度の差があるけれども、この文章にはまったく頷かされる。

◆ ワタシの働くのはトラックが十台にも満たない小さな引越屋だが、最近は作業員の募集をすると、集まるのはきまって四十代で、それはそれで昨今の景気を反映していたりもするのだろうが、いかんせんみな体が動かない。四十を過ぎて慣れない力仕事に応募してきたそれぞれのさまざまな事情についてはいろいろと同情しないわけではないし、作業にしても手を抜こうとしているわけではないと信じもするが、彼等はすでに 「体力を調節して使うこと」 を全身で身につけており、ややもするとそれが 「狡猾懶惰」 に見えもするのだ。気がつくと姿が見えないことがある。探すと自主的に休憩をとっている。もう少しで休憩にしようと思っていたのに。ふだんは休憩を入れないところだが、彼の体力を考慮して、もう少しで休憩にしようと思っていたのに。

◆ それにしても若者はどこにいるのだろう。「体力を調節して使うことを知らず」、われわれのいうがままに体力の限界まで作業をして 「すぐ斃れた」 若者たちは。そんな彼らには、「ちょっと休んでていいよ」 と優しく言ってやることもできたのだが・・・。

◆ かくいうワタシも四十代で、「狡猾懶惰」 になる日もそう遠くないだろうと思う。

  俘虜記

◇ 俘虜とは一般に捕えられた兵士であり、ただ祖国へ帰る日を待って暮していると考えられている。しかし私の見たところによれば、俘虜は 「兵士」 でもなければ 「待っている」 わけでもない。彼等は既に戦闘力がないという意味で兵士ではなく、俘虜収容所の生活の必要は彼等に 「待つ」 ことを許さない。彼等は生きなければならぬ。
大岡昇平 『俘虜記』(新潮文庫, p.146)

◆ FURYO と聞いて思い浮かぶのは、ワタシの場合、大岡昇平の 『俘虜記』 を措いてほかにはない。そもそも 「俘虜」 というコトバを知ったのがこの本からであり、それ以降にしても、このコトバにどこかで出会ったという記憶がほとんどない。書評は苦手なので一切を省略するが、一読をお薦めする。

◇ 飛魚が航海の友であった。彼等は群をなして、舷側から飛び立ち、我々の期待より少し長く飛んで着水した。多分鮪(まぐろ)であろう、長さ一間以上の巨大な紡錘形の魚が、驚いたように、左舷百米ばかり先の海面から、半身を垂直に突き出し、また没し、また突き出して、片眼で我々を窺うようにしながら、どこまでも随いて来た。
Ibid., p.441

◆ 昭和二十年十二月、大岡昇平は、レイテ島での約十ヵ月におよぶ収容所生活を終え、復員船信濃丸にて約二千の俘虜ともども日本に帰還した。

  FURYO

◆ 大島渚監督 『戦場のメリークリスマス』 がふと観たくなって、レンタルDVDでも借りようかと思ったが、あいにく近くのレンタル屋には置いてなかったので、それではと、ネットショッピングなど一度もしたことないのに、あれこれ調べていると、見つけたのがこれ、フランス版のDVD。タイトルはなぜだか 『FURYO』。

◇ 坂本龍一の「戦場のメリークリスマス」を発見。ところが仏語タイトルが「FURYO」・・・。ふりょう?不良?はて?
members.jcom.home.ne.jp/michikowolf/trip/20020210.htm

◇ 戦メリのイタリア語タイトルが、「FURYO」であった。不良だと思うが、なぜだ?
kpd.cside.com/italy/ir6.html

◆ フランスのみならずイタリアでも 『FURYO』。要するに英語圏(『Merry Christmas Mr. Lawrence』)以外はみんな 『FURYO』 ということらしい。

◇ 封切りは1983年。ボクは大学生。友達と二人でヨーロッパ一周貧乏旅行をしている最中で、スペインのバルセロナで 「FURYO」(俘虜)というポスターがあちこちに貼ってあったのをよく覚えています。「Merry Christmas Mr. Lawrence」 というわかりやすい英題名があるのに、なぜわざわざ 「俘虜」 という難しい名前で封切るのか、とても不思議に思ったなぁ。
www.satonao.com/cinema/christmas.html

◆ そうそう、FURYO は不良ではなく俘虜なのだった。浮虜ではないよ。

◇ 大島渚監督の 「戦場のメリークリスマス」 は、フランスでは、何故かFURYOと題されていた。始めは 「不良」 のことかと思ったが、映画館の前のポスターをよく見ると、漢字で 「浮虜」 と書かれていた。どうしてよりスタンダードな日本語のHORYO、すなわち 「捕虜」 にしなかったのか一瞬疑問に思ったが、よく考えるとフランス人はHの文字を発音しない。従ってHORYOは当然 「オリョ」 となってしまうので、音声学的見地から同義語の 「浮虜」(FURYO)が選ばれたのであろう。
www.res.kutc.kansai-u.ac.jp/~kamei/senmeri.htm

◆ 「音声学的見地から」 云々は、まったく関係がないと思うけど、そもそもタイトルを日本語から選んだのはどうしてかなあ? 原作で furyo がキーワードになってるんだろうか? まあ、フランス語でしゃべる David Bowie を見てもしようがないから、フランス版の 『FURYO』 を購入するのはやめにして、代わりに原作の Laurens van der Post, The Seed and the Sower を購入してみようか・・・と思ったり。

◆ 一昨日のスポーツ新聞に、クマが出た。

◇ 黒い影が木立の間でぬっと動いた。ぎょっとして立ち止まると、こっちを向いた。真っ黒だ、クマか。冗談じゃない、風呂に入りに来たぐらいで食われてはたまらない。サラリーマン稼業を生き延びて、定年まで残り4カ月。こんなところでクマ死にできるか。
「59歳後藤新弥のスポーツ&アドベンチャー」(『日刊スポーツ』2006年2月5日付)

◆ なにもわざわざ引用するほどでもないけれど、行きがかり上つい引用してしまったのは、標高2150メートルにある八ヶ岳の本沢温泉の露天風呂をめざした編集委員の記事の一部だが、いくらんでも 「クマ死に」 はないだろう。とても定年まで残り4カ月の記者が書く文章とは思えない。さらには 「黒い影」 がクマではなくて、カモシカだったというオチまでついて、続きを読む気が失せた。その代わりに、別なことを思い出した。

◆ 以前ここで 「熊旅館」 のハナシを書いた。その後、ある本を読んでいたらそこにも熊旅館が出てきたので、そのことを書こうと思って忘れていたのを思い出した。去年の夏、新潟発小樽行フェリーの船内で読んだ堀田善衛の 『ミシェル 城館の人 第三部 精神の祝祭』(集英社文庫)がその本で、三部作の第一部も第二部も読んでないのに、なぜかしら第三部だけが手元にあって、旅支度をしていたときに、たまたま目について旅行カバン(といってもデイパックだが)に放り込んだ。ミシェルというのは、『エセー』 で名高いミシェル・ド・モンテーニュのことで、第三部では、モンテーニュも旅に出る。

◇ われわれのミシェルは、一五八〇年六月二十二日に彼の城館を出て、北東フランス、ドイツ、スイス、オーストリアを経てイタリアへの、十七ヵ月にもわたる旅に出た。
堀田善衛 『ミシェル 城館の人 第三部 精神の祝祭』(集英社文庫,p.7)

◆ この旅の記録は後年発見され 『旅日記』 として出版されるにいたったが、ドイツのバイエルン地方のケンプケンで、熊旅館に泊まったことが記されている。堀田善衛訳を引用すれば、

◇ 〈町の大きさはサント・フォアくらいで、美しく人口も多く、にぎやかで立派な家が多い。われわれは 「熊屋(ウルス)」 に泊まった。まったくきれいな宿屋である。この宿では、わが国の上流の家でも滅多に見られないような、各種の大きな銀盃が出された。〉
Ibid.,p.56

◆ また、ローマでも、

◇ 一行は、はじめ熊屋(ウルス)なる宿に泊まり、十二月二日に、に、サン・アンジェロ橋の袂にあるスペイン人の家に部屋を借りている。
Ibid.,p.97

◆ 書きたかったのはこれだけ。熊旅館が16世紀後半のヨーロッパにもあちこちにあった、ということを知ってうれしかったというわけ。参考までに 『旅日記』(Journal de Voyage)の当該箇所を原文で。

◇ KEMPTEN, trois lieues, une ville grande corne Sainte-Foi, très belle & peuplée & richemant logée. Nous fumes à l’Ours, qui est un très beau logis. On nous y servit de grands tasses d’arjant de plus de sortes, (qui n’ont usage que d’ornemant, fort labourées & semées d’armoiries de divers Seigneurs), qu’il ne s’en tient en guiere de bones maisons.
humanities.uchicago.edu/orgs/montaigne/h/lib/JV1.PDF

◇ ROME, trante milles. On nous y fit des difficultés, come ailleurs, pour la peste de Gennes. Nous vinmes loger à l’Ours, où nous arrestames encore lendemein, & le deuxieme jour de décembre primes des chambres de louage chés un Espaignol, vis-à-vis de Santa Lucia della Tinta.
Ibid.

◆ 16世紀のフランス語がネットで読めるというのにも驚いた。

◇ 初めての土地で、バスに乗ることはとても勇気のいることです。
www.geocities.jp/jdy07317/1021.html

◆ まったくその通り。というのも、路線を把握するだけでも苦労することが多いのに加えて、

◇ そのバスが 「前乗り」 か 「後乗り」 か。「整理券」 か 「均一料金」 か。均一料金ならいくらか。今、さいふにいくらの小銭があるか。
Ibid.

◆ といったことをあれこれ乗車前に考えておく必要があるからで、そういったことが面倒だから、すこし時間がかかっても電車に乗り、駅から目的地まで歩くというひともおられるかと思う。

◆ で、小銭のハナシ。ワタシのいつも乗るバスは均一料金の前乗りで、ワタシのお気に入りの座席は(先に書いたように)左側の最前列なので、乗客と運転手とのやりとりが逐一目にはいるのだが、昨日も始発のバスターミナルでこんなことがあった。

◇ 乗客:(一万円札を出しながら)これ、両替して。
運転手:一万円は両替できないんですが。
乗客:じゃあ、どうすりゃいいんだよ。
運転手:次回お乗りいただいたときに、2回分お支払いください。
乗客:そうなの。ちゃんと書いとかなきゃわかんないだろ。(と言って、そのまま乗車)

◆ 乗客は50がらみの中年男性。これはしばしば見かける光景で、小銭のない乗客にたいする運転手の対応も、この運転手の場合のように、次回に2回分払ってもらうようにするというのが、もっぱらで、おそらくバス会社のマニュアルにはそう書かれているのだろう。でも、なかには、他の乗客に 「1万円分、両替できるかたはおられませんか」 とアナウンスする運転手がいたり、「とりあえずあるだけの小銭を払ってください」 と言う運転手がいたりもして、きちんと料金を払って乗車しているものとしては、規定の料金を徴収するのにそれぐらいの努力をしてもらわないとすっきりしない。まして、この乗客の場合は、始発から乗るわけだから、乗車前にどこかで両替してきてもらうようにお願いしてもなんの問題はないと思うのだが。

◆ バスに乗るには小銭が必要というのは、常識の範囲内ではないのだろうか? それとも、2chで見かけたこんな感覚のひとが増えているのか?

◇ なんで金払って乗るのに、へこへこ媚びにゃいかんのだ。金貰って乗客運ぶのが仕事だろ、なんで釣り銭用意しとくくらい気が付かないの?
yasai.2ch.net/company/kako/990/990679479.html

◆ 車掌がいるなら釣りを用意しておくのが当然かもしれないけれど、ワンマンカーの運転手は運転に専念してもらいたい、と客として思う。

◇ バスに乗るには220円。財布には1万円札と100円ちょっとしかない。車内で1万円札の両替はできないから、コンビニで何か買ってくずそう。そう思ってコンビニでお茶を買ったのだが、財布を見ると小銭がぴったり出せることがうれしかったのか普通にそれを出していた。おかげでもう1度いらないものを買ってバスを1本逃した。きっとコンビニに入った時点で安心してしまったことが今回の敗因だろう。
new-cocts.269g.net/article/1383371.html

◇ 今日はバスに乗る為の小銭が無かったので、行きがけに万札を崩してから行かなくてはならなかった。コンビニに入ったところまでは良かったけど、そのまま雑誌を読んでしまい、バスが着たらお金を崩す事無く乗りそうになってしまう始末。コンビニに戻ってもどうにか発車に間に合ったけど、慌てたぁ。
yoffy.dyndns.org/2004/11/post_65.html

◆ こんなエピソードを読んでほっとする、というのもなんだか悲しい。

◆ 風呂屋の帰り道にはアタマがさえる、ということを書いているときに、寺田寅彦の文章を思い出したけれど、朋ちゃんのヒューヒューのあとにつなげるのもむずかしくて、あたらに書く。

◇ 「三上(さんじょう)」という言葉がある。枕上(ちんじょう)鞍上(あんじょう)厠上(しじょう)合わせて三上の意だという。「いい考えを発酵させるに適した三つの環境」 を対立させたものとも解釈される。なかなかうまい事を言ったものだと思う。しかしこれは昔のシナ人かよほど暇人でないと、現代では言葉どおりには適用し難い。 // 三上の三上たるゆえんを考えてみる。まずこの三つの境地はいずれも肉体的には不自由な拘束された余儀ない境地である事に気がつく。この三上に在(あ)る間はわれわれは他の仕事をしたくてもできない。しかしまた一方から見ると非常に自由な解放されたありがたい境地である。なんとならばこれらの場合にわれわれは外からいろいろの用事を持ちかけられる心配から免れている。肉体が束縛されているかわりに精神が解放されている。頭脳の働きが外方へ向くのを止められているので自然に内側へ向かって行くせいだと言われる。
寺田寅彦 『路傍の草』(青空文庫

◆ この三上、ワタシにとってはどうかというと、まず枕上は除外。すぐ寝てしまうからだ。厠上は多少、当てはまる。以前はトイレで本を読むということはしなかったけれど、最近はけっこう利用している。とはいえ、枕上にしても厠上にしても、それが意味をなすのは家族で広い家に住んでいる場合のように思われるから、六畳一間に一人暮らしをしている人間にとっては、さしたる効果はないだろう。もともと狭い空間である。どこにいてもたいした違いはないし、だれがじゃまするわけでもない。

◆ だから、残るのは鞍上だけだが、競馬は好きでも乗馬の趣味があるわけではないから、これはワタシの場合、「バス上」 に置き換える必要がある。「電車上」 でも 「トラック上」 でもいいかもしれないが、「バス上」 が一番しっくりくる。それも夜のバス。お気に入りは左の最前列の一人がけの座席。だれにも視界をさえぎられないところ。始発から乗るのでかならず座れる。仕事で適度に疲れたからだを、そこに落ち着けて三十分ほどのんびりと過ごす。あまりに道路が空いていると、すっとばすバスの運ちゃんもいるから、適当に渋滞していたほうがいい。早く着きすぎてもつまらない。乗車して発車までのあいだは本を読んだりもするけれど、動き出してからは適度な振動ですぐにうつらうつらして、あとは夢心地。といって、完全に寝てしまうわけでもない。窓のそとは夜だから、刺激も少ない。そんな状態が一番心地よい。あれこれ勝手にアタマが働き出すのは、そんなとき。アナタはいかが?

◆ 年が明け、さらにはその12分の1が過ぎても、ワタシのアタマは正月休みのままいっこうに働こうとしない。そんなぐうたらなアタマだけれども、よく観察すると、一日のなかではそれなりの濃淡があるようで、たとえば風呂屋からの帰り道には、ややアタマがさえているような気がしないでもない。だから、そんなときには、ちょっと遠回りをしてから家に帰ったりもする。

◆ ・・・というようなコトを銭湯から帰る道すがらぼんやりと考えていたら、もう家の前に着いた。今日は寒いから、遠回りはよそう。

◆ 風が吹いている
  音を立てている
  華原朋美みたい
  ヒューヒュー!

◆ さえたアタマがしたことがコレ。ワタシは詩人だろうか? ほんとに風が強い。