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◆ 大地震に見舞われればひとたまりもないような木造アパートに住んでいる身にとっては、まったくの他人事であることのひとつに、「結露」 というコトバがあって、ときおり冬場のマンションに出かけて結露という現象を見かけると、「ああ、家が汗をかいている」 などと思ってしまい、そのすぐあとに、古代人のようなアニミズム的発想にわれながら恥入りもするのだが、当の住人にとっては、たんに対策を講じるべき物理的問題であるかもしれない。 ◇ 結露問題は、いつも不動産屋さんを悩ます原因の一つです。入居者側から言わせると、建物の構造が悪いから結露が出ると言う事になるし、大家側に言わせると、他の部屋からは結露は出ていないので、入居者の使用の仕方が悪いと言う事になる。 ◆ 結露の責任の所在をめぐる攻防については、ワタシは不動産屋さんではないので、なんの関心もないけれども、結露にたいする人間の感情については、多少の関心がないでもない。たとえば、 ◇ 窓ガラスがまるで汗をかいたように水滴でじっとり・・・ なんとも不快な結露の代表例ですね。 ◆ といった文章に見られるような、結露にたいする不快感というもの。その起源はいったいどこにあるのだろう? 「窓ガラスがまるで汗をかいたように水滴でじっとり」 しているから不快であるというのなら(これはワタシの発想とたいして変わりがない)、人間のかく汗がそもそも不快なものであるということが前提になっているわけだろうけど、「・・・ですね」 と同意を求められても、ワタシは困る。ワタシは、少なくとも自分の汗を不快だとは思っておらず、そのことから、自分の汗も他人の汗も同じではないかと思ってしまうので、さらに拡げて、部屋の汗を不快だと単純に思う思考回路ができてはいない。たんに、この部屋は 「どうしたんだろう?」 と思うだけである。 ◆ いや、実をいえば、結露の問題にとどまらず、マンションに住みたいというひとびとの思考のすべては、あれやこれやのことごとを考えるにつけ、ワタシの想像力の限界をはるかに超えている、ということをいまさらながらにいちいち思い知らされるので、やはりワタシは古代人なのであるなあ、と自嘲気味につぶやいてみたり。 |
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◆ ホリエモンは、中学時代に 「父の勧めで早朝の新聞配達のアルバイトをし」 ていたそうだ。当時を知る新聞販売店の関係者によれば、 ◇ 「一般紙・スポーツ紙合わせて六、七種類あったんですが、七十軒分、すべての組み合わせを一日で覚え、二年間誤配がなかった。」 ◆ と、こんな記事を引用したくなったのは、ワタシも中学生で新聞配達をしていたからで、高校生なら新聞少年も少なくないだろうが、中学生というのは珍しいのではと思ったのだった。ワタシの場合は、中学1年のクラスメイトに販売店経営者の息子がおり、そのツテで始めることにしたのだが、中学校では基本的にアルバイトが許されておらず、なにか特別な許可が必要だった記憶がある。担任の理解もあったのだろう。始めてからは、雨の日にはユウウツになりもし、寝坊もよくしたけれども、それが日常の一部になってしなえば、とくに止める理由も見あたらずに、高校を卒業して地元を離れるまで続けた。 ◆ さきに三上(さんじょう)のことを書いたが、新聞配達のときの 「自転車上」 というのも、なかなかのお気に入りだった。早朝の一時間、まだ眠っている街を自転車で走るというのは気持ちのいいものだった。澄んだ空気と静けさのなか、じゃまするもののないもない場所で、自転車を漕いでいると、自然とあれこれ考えが浮かんだ。中学生の考えることだから、たいしたことではなかったろうが、ちょっとは 「哲学的」 なものだったかもしれない。憶えているのは、その内容ではなくて、そのときの気持ちのよさだ。五感で考えているような、そんな気持ちのよさだ。 ◆ 人ごみは嫌いだけれど、街は好き。そんなタイプの人間に、新聞配達の仕事はぴったりだった。ひとりぼっちであることには変わりないにしても、部屋のなかにひとりでいるよりは、街のなかでひとりでいるほうがいい。心身ともども、そのほうがいい。 ◆ (まったく関係がないが、犬の散歩は朝したほうがいい。人犬ともども、そのほうがいい。ちかごろは夜中に犬の散歩をしているひとを見かけることが多いものだから。) ◆ 新聞配達の仕事というのは、ポストに(あるいはドアの隙間に、あるいはシャッターの下に)新聞を入れるだけだから、その家のひとと顔を合わせることはめったにない。だから、その家にどんなひとが住んでいるのかもほとんど知らない。でも、ポストに入れた直後に、玄関を開ける気配が背後ですることはままあって、そんな時には、ああ待ってたんだな、と思う。だから、寝坊したときには、ちょっと心苦しい。待ちきれずに、玄関の前に顔を出してたりもするのだから。おそくなってごめんなさい。新聞配達でひとに会うというのは、たいていはそんな具合だから、できればだれとも会いたくない。でも、6年間にほんの数回、例外があった。一度は、玄関で待っていた 「おばさん」 にリンゴをもらった。一度は、「おじさん」 にご祝儀袋にはいった千円をもらった。こどもだから、そんなものをもらっていいものやら、悩みもしたが、そのときのうれしかったことといったら! ◆ などなど、思い出すことあれこれ。そしたら、なんという偶然だろう、今朝5時50分、おともだちの 《みたにさん》 が書いていた。 ◇ 新聞屋さんにチョコを新聞受けに用意しておいたけど、今朝は新聞がまだきません。遅いぞ。あ、もしかしてチョコ持ちきれないで一回置きに行ってるとか? ◆ それにしても早起きだね。全国の新聞少年に代わりまして、遅れたお詫びとチョコのお礼を。ありがとうとごめんなさい! |
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◆ 結婚するなら、生涯ひとりのひとと添い遂げたい。などと柄にもなく思ってしまったのは、 ◇ 57歳男が「一夫多妻」女性10人と同居 東京都東大和市の無職男性(57)が結婚と離婚を繰り返し、離婚した女性を含む20代~50代の女性10人、乳児1人と同市内の民家で集団生活をしていることが25日、分かった。 ◆ というニュース記事を目にしたからで、同時に何人もひとを愛するエネルギーは(残念ながら)ワタシにはない。うらやましいとも思わない。 ◆ 鵠は白鳥のことだと書いたが、中国では天鵝とも言うようだ。 ◇ 鵠 名詞:動物名。鳥綱雁形目。體形似雁而較大,頸長,腳短。行走不便,但在水中能迅速划行,姿態優雅。能高飛,且鳴聲洪亮。俗稱為天鵝。 ◇ 天鵝是屬於鳥綱、雁形目、雁鴨科的大型水禽,天鵝常棲息於河川湖沼 ◆ 俄羅斯はロシア、柴可夫斯基はチャイコフスキー。そうして、白鳥は一夫一妻制を厳格に守っているという。 ◇ 黑天鵝一生嚴守一夫一妻制,若一方死亡,另一方則不食不眠,一意殉情,所以人們把黑天鵝比喻成忠貞愛情的象征。 ◆ 黑天鵝は 「黒い白鳥」、つまりはコクチョウ(Black Swan)のことで、オーストラリアに分布している(この記事は観光案内の一部なのだった)が、これまた白黒の違いかかわりなく、一夫一妻制で、もし一方が死ねば、もう一方は食わず眠らず、ついには死んでしまう、とか。ホントかどうかは知らないけれど、こういうのをオシドリ夫婦と呼ぶが、 ◇ 鳥類の場合、一夫一妻と言っても、生涯同じ相手と添い遂げる種はイヌワシやハクチョウなどむしろ少ない。仲良し夫婦の代名詞、オシドリも繁殖期にはカップルで行動する一夫一妻だが、冬の間は群れで生活し、翌年は別の相手を見つける。 ◆ 以下、おまけ。 ◇ 「おしどり夫婦」 というのは、どんな夫婦ですか?意味が分からないのです。GOOの国語辞典で調べても駄目でした。母に聞くと、「知らんけど、にわとりの夫婦のことかもしれん。」 と言っておりました。 |
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◆ おともだちの霧さんが書いている。 ◇ 「ねずみにひかれんごて」 ◆ ねずみにひかれる、というコトバは、このようにカギカッコつきで使われてこそ生き生きする。カギカッコに封じ込められたさまざまな人間の思い。なつかしい人の声の調子がよみがえる。 ◆ 文学作品から探してみると、 ◇ 「浅吉さん、弱い人ね、もう少し強くならないと、鼠に引かれちまいますよ」 ◇ 「商売に出たら最後、途中で酔っぱらって、三日も四日も家へ寄りつきゃアしない。この極道者めがッ! お母(ふくろ)なんか、鼠に引かれてもかまわないっていうのかい」 ◆ 『大菩薩峠』 に 『丹下左膳』 か、すごいな、これは。 ◆ 井上靖の 『しろばんば』 にも印象的なカギカッコがあるらしい。 ◇ この作品を愛するもう一つの理由が、この小説の女主人公と言っても過言ではない、おぬい婆ちゃの存在である。自分も洪作同様お婆ちゃん子として育ったため、こういう人物には特に深い共感と懐かしさを感じる(『銀の匙』 の伯母さんや 『楡家の人々』 のばあやなどもそうである)。「婆ちゃが鼠に引かれるで、あすになったら、早く帰っておいで。」 というおぬい婆ちゃの言葉があるが、こういう言葉も自分にはどうにも懐かしく、祖母を思い出してしまう(今はこういう言い方は無くなってしまったかもしれないが)。 ◆ 残念ながら、ワタシ自身はこのコトバがじっさいに発話されるのを一度も聞いたことがない。だからカギカッコのついたこれらのコトバがうらやましくて仕方がない。 |