MEMORANDUM

◆ いましがた北海道日本ハムファイターズが、プレーオフでソフトバンクを下し、25年ぶりのリーグ優勝を決めた。北海道で暮らしたことのあるワタシとしては、めでたい、まったくめでたい。なかでも、新庄効果はめざましいものがあった。

◇ かつて長嶋茂雄は記録より記憶に残る選手と言われたが、新庄は成績は長嶋の足もとにも及ばないが、記憶に残るという意味ではまったく同じだ。これほど野球を面白くした男はいない。超ド派手なパフォーマンス、最初は眉をしかめるも、段々とそれがおもしろおかしくなってくる。なんという得な男だろう。何をやっても憎めない奴。それが新庄剛志だ。
news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2507328/detail

◆ 大社(おおこそ)義規前オーナー(享年90)は、この世を去る直前に、見舞いに訪れた新庄にこう言ったという。

◇ 「君はたいした男だなぁ」

◆ これまでプロ野球とは縁の薄かった北海道を熱くした新庄は、まったく 「たいした男」 である。

◇ 冬の寒い日だった。他界する約3カ月前、昨年1月22日。2年目のキャンプイン直前だった。病床に伏す同オーナーの兵庫・芦屋の自宅を志保夫人と一緒に訪問。本拠地移転元年を盛り上げた功績を評価されて招待された。「君はたいした男だなぁ」。左腕をいたわるように何度もさすられ、労をねぎらわれた。「大きいなぁ、でっかい手をしてるな」 「奥さんきれいで新庄さんは幸せだね」。最後にはリーグ制覇、日本一の夢を託されたという。

◆ まだ中日との日本シリーズが残っている。あと数試合は 「たいした男」 のプレーを見ることができるわけだ。テレビはないけど、パソコンの前でニュース速報を見ながら応援することにしよう。ガンバレ新庄、がんばれファイターズ。

◆ 10月に入ると、さすがにセミの声も聞こえない。けれど、耳のなかには、夏のあいだじゅう、響いていたその声のカケラがまだ残っているらしくて、ときおり夜中に、夏の思い出のように鳴いては、ポロリとこぼれ落ちる。そんなことが何度か繰り返されて、ある日、夏が完全に終わる。

◆ 作家の川上弘美が、《ほぼ日刊イトイ新聞》の 「虫は好きですか」 という座談会で、こんな発言。

◇ 私、最近、耳鳴りがするんですが、これがジーッというから、セミが夜に鳴いているのかと思っちゃって。音が一緒で区別がつかないんです、耳鳴りとアブラゼミ。困りますね。(笑)
www.1101.com/fujin-ido/262.html

◆ 同じ座談会で、昆虫学者の矢島稔が、こんな発言。

◇ 上野動物園で昔、ドイツのハーゲンベック動物園からゾウを買い、飼い方の指導のためドイツ人の飼育係が2ヵ月ほど日本に滞在したんです。いよいよ帰国というとき、園長さんが 「お礼を差し上げたい」 と言うと、彼はアオギリの木を指して、「あの鳴く木をください」 と答えたんですよ。夏中、木から何かの鳴き声が聞こえていた。だけど鳥の姿はない。それで彼はてっきり、木が音を出してると思ったんですね。
www.1101.com/fujin-ido/261index.html

◆ 似たようなハナシに、こんなのもある。

◇ 細菌学者のコッホが日本に来たとき、歓迎会の席上、彼が日本の学者らに奇妙な質問を発した。「クリハマ」 というのは一体どんな鳥か、その姿が見たいというのである。列席の学者中にもそんな鳥の名を知る者はおらず、コッホ博士に詳しく問いただしてみると、浦賀で船を降りて東京に来る途中、松林を通りかかると、大きな声で鳴く鳥を聞いた、人力車夫にその名を問うと、
「くりはま」
とのみ答えたという。おりしも夏の事で、久里浜の松林に蝉が盛んに鳴いていたのであったが、ドイツ人のコッホ博士には、小さな虫があんな大声を発するとは想像もできぬ事であった。

奥本大三郎 『虫の宇宙誌』 (集英社文庫)

◆ まず、スティーヴン・ジェイ・グルードの科学エッセー 『干し草のなかの恐竜』 からの引用。

◇ 最後に、私自身の子供時代にあったことをお話しよう。第七四中等学校を卒業した一九五五年のことだ(ニューヨーク市では、中等学校にも番号がついている)。地元のバスの運転手に、混雑した都会の公共機関の従業員にしては珍しく、生徒に特別親切な人がいた。彼は学生をとても丁重に扱い、丁寧な言葉で話しかけてくれただけでなく、驚くべきことに、バスに向かって走ってくる生徒がいると、目の前でドアを閉めたりはせずに、ドアを開けたまま待ってくれていた。私は、彼の名前すら知らなかったのだが、ある朝、卒業サイン帳にサインしてくれと頼んでみた。すると彼は、乗車しようとしていた大人の通勤客を待たせたまま、サインをしてくれた(待たされた客の大半は、その出来事をおもしろがり、たった一度の若干の遅れをがまんしてくれたように記憶している)。彼は、「幸運を。ただのバス運転手。マーティー・ブラジス」 とサインした。ブラジスさん、もしまだご健在なら、遅くなりましたが、あなたの親切に対してみんなからの感謝の念を捧げたいと思います。あなたの親切はすばらしかった。
スティーヴン・ジェイ・グルード 『干し草のなかの恐竜(下)』 (早川書房,p.358-359)

◆ ついでにその原文も。

◇ I am led, in conclusion, to remember an event of my youth, as I graduated from Junior High School 74 on 1955 (middle schools also have numbers in New York City). A local bus driver had been particularly kind to us, a rarity among municipal employees in this harried city; he treated students with respect, deigned to speak with us, and even, wonder of wonders, waited when he saw us running, rather than shutting the door in our faces. I didn't even know his name, but one morning I asked him to sign my graduation autogragh book, and he kept a busload of adult commuters waiting. (Most of them seemed charmed by the incident and, for once, didn't begrudge the slight delay.) He signed his page, "Good Luck. Just a Bus Driver. Marty Blazis." Mr. Blazis, if you are still around, may I offer this belated thanks from all of us for your kindness; it mattered a great deal.
Stephen Jay Gould, Dinosaur in a Haystack (Penguin Books, p.456-457)

◆ グールドのサイン帳には、ステキな 「ただのバス運転手」 マーティー・ブラジスさんのこんなコトバが書き添えられている。

◇ A man of words and not of deeds
is like a garden full of weeds.
(有言不実行の人は、
雑草だらけの庭のようなもの。)

◆ この種のエピソードは大好きなので、ワタシにも似たようなことが何度かあったはずだと記憶をたどってみたくもなるが、さしあたって別なことを書く。

◆ ブラジスさんの書いた “Good-Luck” の文字。そのなかの大文字の “G”。ワタシはこの手書きの “G” の文字をみてなんとも懐かしい思いがした。中学校に入って、英語を習い始めると、まずはアルファベットの練習。ペンマンシップと呼ばれる練習帳を使って、ブロック体それから筆記体を書けるようにする。「続け字」(筆記体)で、自分の名前が書けるようになると、なんともうれしくて、ところかまわず自分の名前をサインしてまわる、そんな時期がだれにでもあったのではないかと思う。ワタシの場合は(左利きということもあって?)、結局のところ、努力の甲斐もなく、自分で満足できるようなキレイな筆記体を書くことができずに終わったので、そのうち、筆記体で書くことを止めてしまったのだったが・・・。

◆ ところで、この筆記体の “G” だが、ワタシはこのような 「ちょっと変わった(とワタシには思われる)」 字体で書かれた “G” の文字を、教室以外で実際に使われているのを、これまで一度も見たことがなかった。といって、アメリカ人と文通した経験があるわけでもないので、たいしたサンプルがあるわけでもないが、ときおり目にするネイティブの生の字は、きまってブロック体をくずした感じの(たいていは下手くそな)筆跡だったように思う。

◆ というわけで、「ただのバス運転手」 マーティー・ブラジスさんの肉筆の字を見て、「ああ、ホントにこんな風に “G” の文字を書くひともいたんだな」 と妙に感激してしまった次第。

◇ 「英語の筆記体ってサインや手紙に使うとカッコイイ!」 ということで、非常に人気がありますよね。しかし、いつ頃からか学校では筆記体を学習することがなくなってしまいました。そんな英語の筆記体・・・。アメリカではどういう扱いになっているのでしょうか?以前ネイティブに聞いたら、こういう返事をもらいました。ちなみに、筆記体は英語で "Cursive"、ブロック体は英語で "Print" といいます。
★Don't write in Cursive!! (Cursive is the opposite of Print.) Some people can't read cursive. I dunno why, but it's just too difficult for some people! We usually only write in cursive when signing our names on important documents.
つまり、筆記体はアメリカでも読めない(書けない)人がいるということですね。また、筆記体は、通常重要な書類にサインをする時しか使わないと言うことです・・・。

haradakun.cool.ne.jp/penpal/cursive_hikkitai.html

◆ 「しかし、いつ頃からか学校では筆記体を学習することがなくなってしまいました」って、あれれ、今ではそうなの? まったく知りませんでした。

◆ アメリカでも、学校で筆記体の練習をすることが減りつつあるらしい。こんなタイトルのニュース記事を見かけた。“Penmanship: A Dying Art?”

◇ In many classrooms, traditional cursive script is on its way out. So many students have trouble with it that teachers are increasingly adopting a simpler style known as Italic or "print cursive."
www.cbsnews.com/stories/2003/06/09/national/main557572.shtml

◆ 最後に、ブラジスさんの字は、つくづく立派だと思う。

■追記 [2006/12/23] ■

◆ 話題にした大文字の “G” の筆記体は、イギリスでは使われていないらしい。

◇ Gの大文字の筆記体(Sの大文字の筆記体の左肩をとがらせてつり上げたような文字)を読めないイギリス人の青年(大卒)に出会ったことがあります。こんな文字は英語じゃないという彼に、これはアメリカ人が使うGの筆記体だよ、と言っても、そんなことは信じられないという態度でした。(後日彼はアメリカ人に尋ねて、自分の無知を認めましたが)
www.seg.co.jp/cgi-bin/kb7.cgi?b=sss-old&c=t&id=2379

◆ とある喫茶・軽食といった類の飲食店の店頭メニュー。

◇ オムライス ¥820
 スパゲテイ ¥750
 焼魚(煮)定食 ¥900より
  煮物 新香 みそ汁つき
 牛もやし定食 ¥940

◆ 「焼魚(煮)定食」 とあるのは、意味不明なので、もしそうならば、「焼(煮)魚定食」 と正確に書くべきではないか、と思ったり、「牛もやし定食」 とあるのは、巷の定食屋に飛び込んで 「肉野菜定食」 を注文したはいいが、出てきたのが 「もやしたっぷり肉少量定食」 だったりすることがしばしばのワタシにとっては、JAROに表彰状を進呈するように進言したい気にもなったり、はたまた、いかんせん、専門店でもあるまいし、これでは総じて値段が高すぎるだろう、と不満になったりして、結局のところは、入ってみるのを躊躇したのだったが、さて、750円の 「スパゲテイ」 も捨てがたい。この 「スパゲテイ」 なるもの、はたして、なにものだったのだろうか?

◇ 小学生のころ、スパゲティは給食の人気メニューだった。にゅるっと軟らかい麺(めん)にタマネギ、ニンジン、ピーマン、ハムを入れたケチャップ味のナポリタン。ミートソースのひき肉もケチャップで煮込んでいた。スパゲティといえば家庭でも店でも、この二つだった。
osaka.yomiuri.co.jp/ajinakansai/aj50519a.htm

◇ スパゲティといえば、ミートソースを連想する人も多いのではないでしょうか。学校給食でスパゲティといえばミートソースだったりして、このときの記憶がスパゲティとミートソースを不可分のものとしたのでしょう。トマトベースの挽肉のソース、イタリアではボローニャ風――ボロネーゼといいます。
www.kototone.jp/mangeretvin/manger/bolognese.html

◇ ナポリタン以外のスパゲティがあると知ったときの驚きは今でも忘れない
kotonoha.cc/no/22283

◇ 昔スパゲッティといえばナポリタンかミートソースくらいしかなかった時代、初めて食べたのが喫茶店のナポリタンだったような気がします。
kinton.exblog.jp/3529319

◇ 小生が子どもの頃のスパゲティといえば、ゆで上げた麺にひき肉入りのソースをかけた 「ミートソース」。もしくは、ケチャップ炒めの 「ナポリタン」 しかなかった。スパゲティ料理が、たったの2種類だけ。後にも先にも、これで終わり。(それが数十年でこの変わりよう。いつの間に、日本人はこんなにスパゲティ好きになったんでしょう?)
orangepage.blog.ocn.ne.jp/diary/2005/10/post_022e.html

◇ 10年くらい前までは、スパゲッティを食べるといえば喫茶店のランチや洋食のレストランでミートソースやナポリタンを食べるということだった。今ではそういう所でスパゲッティを食べる人は少ないのではないだろうか。
homepage2.nifty.com/trentanove/napolitan.htm

◇ そう、かつて日本には 「アルデンテ」 など存在しなかった。日本のおかん達は 「マ・マースパゲティ」 をうどんのように芯まで茹で、ケチャップで味付けをしてナポリにはないというナポリタンを作ったりしていたわけだ(あんかけスパゲティの項で書いたように、名古屋のナポリタンは特殊らしいが)。ナポリタンでなければミートソースだ。この二つ以外のスパゲティは 「アルデンテ以後」 になるまでごく限られた人々の口にしか入ることはなかった。
www.so-net.ne.jp/e-novels/yomimono/ousyuu/032.html

◇ 今でこそ、パスタの種類はぺペロンチーノやカルボナーレ、ボンゴレなど数多くあるけれど、私が高校生だった頃(さて、何年前でしょう?)は、専門店のメニューにミートソースとナポリタンのたった2種類しかなかった。しかも、呼び名はスパゲッティしかなく、パスタなんて言葉が普及するのはずーっと後の話である。
wada.alicesha.co.jp/?eid=22660

◆ 手当たり次第にあれこれ引用してみたが、まとめるのが面倒なので、『スウィングガールズ』 の井上君に倣って、「全てのスパゲティは2種類に分けられる。ミートソースとナポリタンだ」。たしかにそんな時代があったのだった。ちなみにワタシの小学生時分の記憶では、給食のスパゲティはナポリタンでしたね。ミートソースなど出された覚えがありません。

◇ 全ての人間は2種類に分けられる。スウィングする者と、スウィングしない者だ。

◆ とは、映画 『スウィングガールズ』 (矢口史靖監督)のなかで、高校球児の井上君が発したセリフ。この井上君、ことあるごとに 「全ての人間は2種類に分けられる…」 とのたまうが、その二分法の基本は、××する者と××しない者式のものであって、Aでなければ非Aであるのは当たり前だから、分類遊びとしてはいささかおもしろみに欠ける。それならば、まだ

◇ All people can be divided into two groups. Tomatoes and Cucumbers. He and I are both Tomatos . All the successful relationships he knows are composed of one Cucumber and one Tomato.
(全ての人間は2種類に分けられる。トマトとキュウリだ。・・・)

unsustainedfocus.blogspot.com/2004_12_01_unsustainedfocus_archive.html

◆ といった分類の方が、なにを言ってるのかよくわからないにしても、まだおもしろい(トマト+キュウリ=全ての人間?)。

◆ 「全ての人間は2種類に分けられる。ネコ好きとネコ嫌いだ」 という排中律にしたがう真っ当な分類よりも、「全ての人間は2種類に分けられる。ネコ好きとイヌ好きだ」 という大雑把な分類の方が、論理的には杜撰であっても(では、ネズミ好きはどうなるのだ?)、おもしろいと思う。そんな例をあとふたつ。

◆ 全ての人間は2種類に分けられる。並列型と直列型だ。

◇ で、ほら、先生が並列と直列の二種類で、電球の明るさを確認させるでしょう? まず並列つなぎをして、それから直列にする。ぱあっと電球が明るくなる。その瞬間、生徒たちから賛嘆の声があがり、先生は自分の発明でもないのに得意げな顔をする。そこまでは、いいですね? ええ、と彼はほとんど機械的に言葉を継いだ。たしかに、おおっという声があがって、教室がしばし華やいだ記憶が彼にもあったのだ。でも、ぼくには納得いかなかったんです、ぼくがびっくりしたのは、並列のつなぎのほうだったんですよ、足し算が足し算にならない、そんな不思議なことが起こるのかって。ところが並列つなぎに魅せられたのは、クラスでぼくひとりだった。それが不可解でね。考えてみれば、明るくなるほうがやっぱり見栄えもいいし、わかりやすいし、まあ華やかなんです。並列はすなわち現状維持ってやつですよ。直列の夢に毒されて容量を度外視し、やみくもに足し算をつづければコイルが焼き切れる。それなら電池を節約しながら現状を維持したほうがいいのではないかと思うんです。だからあの基礎的な実験でどちらに声をあげるかが、ひとを判断するぼくのごく個人的な基準になってるんですよ。怒るかもしれないけれど、きみは並列でしょう?
堀江敏幸 『河岸忘日抄』 (新潮社,p.71)

◆ 全ての人間は2種類に分けられる。ヘビ嫌いとクモ嫌いだ。

◇ 世には蛇型と蜘蛛型と二つの原型があると聞く。性質ではない。人が最も嫌惡する禽獣蟲魚の、特に蟲の類を大別しての呼名である。蛇は他の爬蟲類一切を含み、蜘蛛は一廳昆蟲すべてをも含めての大別である。私は蛇は寫眞を見ても鳥肌立つが、蜘蛛や蛾など身體に觸れてゐてもさして氣にならない。對照的に妻は蝶でも燈火に迷ひこんで來ようものなら、徹底的に追ひ拂ひ、私には見えない鱗粉の痕跡を氣の濟むまで清拭する。そして、蛇や蜥蜴(とかげ)は別に好みもしないが、たとへ目の前に來ても悲鳴を上げるほどではないと言ふ。親しい友人の一人は蟷螂(かまきり)を見るとそれから三、四時間食慾を喪ひ、蟬も蝗(いなご)も沙汰の限り、蜚蠊(ごきぶり)が怖ろしいので貧乏質に置いて家を新築し、書齋に使ふべき金を廚房の完全武装用に廻したといふ。一人一人去り嫌ひは異にし、蜘蛛を愛育しながら蛞蝓(なめくじ)一匹に腰を抜かす美丈夫もゐるし、錦蛇に手づから餌を與へるくせに、蚰蜒(げじげじ)が出たと言つて顫へる髭男もゐる。
『塚本邦雄全集 第十三巻』 (ゆまに書房,p.270)

◆ ネコはいつでも救世主として登場する。毎日なんらかの写真を撮ることを日課にしているが、日がな一日あちこち歩き回ったあげく、それでもシャッターを押す気に一度もなれず、今日という一日はなんだったんだろう、と意味のない反省し始め、まあ仕方がない、と諦めかけたところで、こちらの窮状を見透かしたかのように、きまって現れるのがネコだ。ああ助かった、と思いつつレンズを向ける。これまで何度ネコに助けられたことだろう。

◇ 「猫って、逃げるまえにかならずキッ、とこっちにらむよな。そこが好きだなあ」
「必ず一度目を合わせる」
「向こうから寄ってこないよな。たいがいこっちに寄っていかせる。そのくせこっちが行かないよーっていうと、こないのーって振り返ってこっち見るんだよ。いいよな、やっぱり」

荒木経惟・杉浦日向子 『東京観音』 (筑摩書房,p.142)

◆ タイトルを思いついたままに、「ネコの恩返し」 としたはいいけれど、よくよく考えてみると、ワタシにはネコに何かをしてやった、恩を売ったという記憶がさらさらないのだった。それでも、ネコは見かけによらず律儀に恩返しをしてくれるのだから、ワタシが忘れているだけで、あるいは知らず知らずのうちに、ネコが一生の恩に着ると思ってしまうような何かいいことをしているにちがいない。

◆ 野中広務は33歳で園部町長に当選すると、町民には不便きわまりない役所特有の縦割り組織の弊害を改善しようとして、役場の玄関につぎのような掲示をさせた。

◇ 窓口には仕事のもちばに違いはありません。何でも相談に応じます。
窓口と相談係には聞き捨てにするクズかごはありません。
窓口と相談係にはくさいものにするふたはありません。
窓口と相談係にはたらいまわしにするたらいはありません。
町行政上の疑問は何でも遠慮なく相談係にたずねてください。

魚住昭 『野中広務 差別と権力』 (講談社文庫,p.98)

◆ 役所とたらいまわしは、いまもむかしも、切っても切れない関係だろうと思うけれども、それとは別に、「たらいまわし」 という慣用語を使うときに、現実の 「たらい」 のイメージが脳裏に浮かぶひとはどれぐらいいるだろうか?(ほとんどいないだろう。盥製造業者くらいだろうか?) さらに、アタマのなかで、たらいがぐるぐるまわって目を回してしまうようなひとは?(さらに、ほとんどいないだろう) いないだろうけれど、こういうことを想像するのは楽しい。想像しているあいだに目がぐるぐる回ってくる。(それは酒のせいでもあるが) 

◆ で、ワタシが目を回した 「たらいまわし」 のイメージは、曲芸の皿回しのように、盥自体がぐるぐる回っているといった状況で、よく考えると、これでは、「たらいまわし」の意味をなさない。では、「たらいまわし」 とはいったい何なのか?

◇ 本来は、仰向けに寝て足で盥を回しながら受け渡す曲芸のことであったが、回る盥の方はちがっても、それを回す方の足は変わらずに同じであるところから、馴れ合いで順番に回す意になったものと考えられる。歌舞伎 『伊勢平氏栄花暦』 に、「嫌だ、盥回しめ、無くなりゃあがれ」 という例が見える。
山口佳紀編 『暮らしのことば語源辞典』 (講談社,p.414)

◆ なるほど。でもいまひとつイメージがつかめない。仰向けに寝ている人は何人くらいいて、どのような隊形になっているのか。大人数で円形に寝て盥を回すのだろうか? とにかく、盥自体も回っていることは間違いない。それに加えて、さらにその回っている盥が人の足から足へと回っていくということなのだろう。地球が自転しつつ、太陽のまわりを公転しているようなものだろうか? 盥を回すのもたいへんなことなのだろう。