MEMORANDUM

  町工場

◆ 『田宮模型の仕事』を読んでいると、こんな文章。

◇  さて、いちばんの問題は金型屋です。木製模型を作っていたわが社にとっては、まったく付き合いのない分野でした。どこで金型を作っているのかを、調べることからはじめました。これまた付き合いのなかったプラスチックの材料屋さんに飛びこみ、業界のようすを訊(き)き、その人のコネで東京の金型工場を訪ねることにしました。工場といっても、いわゆる町工場(まちこうば)です。床は土間で、機械が置いてあるところだけコンクリートで固めていました。
「戦艦武蔵」の図面とアメリカ製のキットを見本として見せ、「なんとか引き受けてもらえないでしょうか」とお願いしましたが、「ウチは今、手いっぱいだから」と、ていよく断られてしまいました。たしかに金型屋は大忙しの時代でした。プラスチック製品の需要が急激に高まっており、どこの金型屋も引っぱりだこだったのです。
〔中略〕
 会いに行くたびに金型屋がリッチになっていくのが、よくわかりました。腕時計にしろライターにしろ、舶来の高級品を身につけるようになっていったのです。ある日訪ねてみると、工場の前にピカピカのキャデラックがとまっていました。親方が出てきて「よおっ」と、うれしそうに手をふっています。
「いいだろう、この車」と、あれこれ自慢話を聞かされたあと、「じゃあな」と女連れで出かけてしまいました。職人に「親方はどこに行ったんですか」と聞くと、「ゴルフ場だよ」。
 もう、こうなってくると、金型屋はまじめに働かなくなります。どんどん遊びをおぼえ、電話しても連絡がつきません。競輪の日なんて絶対にいません。
 そのころ、発注していた金型屋は七、八軒ありましたが、いいかげんにやっていたところは、今はもう存在していません。新しい工作機械の導入が遅れて、時代の波に押し流されたのです。

田宮俊作『田宮模型の仕事』(文春文庫,p.50 et p.93)

◆ 町工場に金型屋。さいきん読んだもう一冊にも、町工場に金型屋。

◇  うちは小さな町工場だった。幼い私の遊び場は工場(こうば)だった。
 房総で漁師の六男として生まれた祖父は十四歳で上京し、東京じゅうの町工場を転々としながら仕事を覚え、現在実家のある場所で独立した。その工場を長男である父が受け継いだ。私が小さい頃、つまり日本が高度経済成長に沸いていた頃には数人の工員のお兄さんたちが工場の二階に下宿していたが、一九八一年からは完全に父一人となり、そして一九九七年に閉鎖した。
 業種は、町工場界隈の語彙でいうところの「金型屋(かながたや)」。様々な工業部品の金型を作ったり、あるいは旋盤やフライスでネジを加工する仕事を請け負っていた。工場は、子供にとってはおもちや箱のようなものだった。年子の姉や私は機械に触ることは許されなかったが、切り終わったネジにテープを巻いたり、それを古新聞で包んで木箱に詰めて数を数えたり、また放金粉(ほうきんこ)(旋盤で金属を削った時に出る金属の粉)を吹き飛ばすための空気銃で遊んだり、おびただしい数の、ピンク色の納品書の裏におえかきをしたり、意味もわからずに「納品」「請求」「決済」などのハンコをそこらじゅうにペタペタ押して遊んだ。
〔中略〕
 父の目には、世の中のすべての物体が金型という視点で映っているらしい。居間でお茶を飲んでいる時、父はよくクッキーの缶を開けてプラスチックの箱を中から取り出しては、一人でプラスチック容器をひっくり返したり、容器の裏の突起に見入っている。お菓子におまけがついていれば目はらんらんと輝き、「こりゃあすごい手間だ」「ずいぶん不良も出しただろうな」と感嘆し、頭の中ですでに金型の設計図を描いている。
〔中略〕
 一人プラスチック容器をしみじみ見つめるそんな父を、私は羨ましいと思う時がある。傍から見たら、道を歩きながら、クッキーを食べながら、電車に乗りながら、目に入る物すべての金型を想像しているただのへんなおじさんだろう。しかし父は金型というドアから、社会の仕組みを見ている。金型から生まれた物すべてに愛着を持っている。そんな揺るぎないドアを持っていることが、私には羨ましい。

星野博美『銭湯の女神』(文春文庫,pp.44-46)

◆ 2冊の本から長々と引用したが、金型屋はさておいて、とりあえずは、以下の各1行だけでもよかった。

1) 工場といっても、いわゆる町工場(まちこうば)です。
2) うちは小さな町工場だった。幼い私の遊び場は工場(こうば)だった。

◆ それぞれ1箇所、原文にルビ(縦書きで漢字の右側に添えるふりがなのこと。引用文ではカッコで示した)がふってあるのが気になった。では、その前のルビのふってない「工場」「町工場」はなんと読めばいいのか? 1の「工場」は「こうじょう」と読むのだろう。2の「町工場」は「まちこうば」だろうと思うが、そうすると、どうしてこちらにはルビがないのか? 理由はわからないでもない。ルビをふったひと(いったいだれ?)が、「町工場」は「まちこうば」と読むのが一般的だが、「工場」は「こうじょう」と読むひとも多いだろうから、この場合は「こうじょう」ではなくて、「こうば」と読んでほしいと考え、わざわざルビをふったのだろう。

◆ 出版業界のならわしに詳しくないので、よくわからないけれども、なんとなく、こうしたルビは原作者ではなくて、校正者が(読者の便宜をはかるために)ふっているような感じがする。こうしたルビには、校正者が原作者に「これはこの読み方でいいんですよね? だとすれば、この場合は、べつな読み方をする読者もいると考えられるので、念のため、ルビをふっておきますがいいですか?」といったやりとりの跡が、なんとなく(気のせいかもしれないが)感じられて、読んでいると(ちょっとだけ)違和感がすることがある。

◆ この箇所にルビがなかった場合はどうなるだろう? まず確実に言えるのは、ルビがなければ、こんな記事を書いてはいないうことで、「工場」の読みが「こうじょう」か「こうば」のどちかなのかと考えもしないで、読み飛ばしていたことだろう。黙読の場合は、そのようなことが可能で、いまあらためて、音読ではない「黙読」の不思議さに思いいたったというわけなのだった。

◆ 「牧場」は「ぼくじょう」あるいは「まきば」? 「市場」は「いちば」あるいは「しじょう」? 黙読の場合に、読者はいちいちその解答を要求されはしないけれども、いったん考え始めると、これはそれぞれなかなか難しい問題だろうと思う(ので、とりあえず、いちいち考えない)。

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