MEMORANDUM

  関東煮

◆ 大阪の食堂の看板。「釜めし」の「し」の字に点はないが、かわりに「関東煮」がある。カントダキと読む(カントウニと言う地域もある)。

◇ その関西ではおでんのことを関東煮と言っていることでもおでんがもとは関東のものだったことは明かで、そういう考証をしなくても確かに昔は東京におでん屋というものがあった。併し、東京がどこのどういう性質の町か解らなくなり、そこに住む得体が知れない人間がおでんのような安くて旨いものを喜ばなくなった現在では歴史の上ではどうだろうとおでんを食べに関西まで行かなければならない。
吉田健一『私の食物誌』(中公文庫,p.67 [中央公論社,1972])

〔おでん屋「たこ梅」:おでんの歴史〕 関西では、昭和40年ころまで、おでんを普通に「関東煮(かんとだき)」と呼んでおりました。いまでも、「関東煮」とおっしゃる年配の方は、多いようです。
www.takoume.co.jp/rekishi.html

◆ 直前の引用は、大阪日本橋の関東煮の名店「たこ梅」のサイトから。関東煮の語源については、こんな説もあるそうで、

〔おでん屋「たこ梅」:おでんの歴史〕 広東(中国の地方)の人たちが食べていた鍋から生まれた煮込み料理なので広東煮(かんとんだき)と言い、それを縮めて「かんとだき」になったと「たこ梅」で言い伝えられています
www.takoume.co.jp/rekishi.html

◆ この《たこ梅》は、関東煮とともに「たこ甘露煮」が名物で、織田作之助の『夫婦善哉』にもその名が出てくる。

◇ 柳吉はうまい物に掛けると眼がなくて、「うまいもん屋」へしばしば蝶子を連れて行った。彼にいわせると、北にはうまいもんを食わせる店がなく、うまいもんは何といっても南に限るそうで、それも一流の店は駄目や、汚いことを言うようだが銭を捨てるだけの話、本真(ほんま)にうまいもん食いたかったら、「一ぺん俺の後へ随(つ)いて……」行くと、無論一流の店へははいらず、よくて高津(こうづ)の湯豆腐屋、下は夜店のドテ焼、粕饅頭から、戎橋筋そごう横「しる市」のどじょう汁と皮鯨汁(ころじる)、道頓堀相合橋東詰「出雲屋」のまむし、日本橋「たこ梅」のたこ、法善寺境内「正弁丹吾亭」の関東煮(かんとだき)、千日前常盤座横「寿司捨」の鉄火巻と鯛の皮の酢味噌、その向い「だるまや」のかやく飯と粕じるなどで、いずれも銭のかからぬいわば下手(げて)もの料理ばかりであった。芸者を連れて行くべき店の構えでもなかったから、はじめは蝶子も択(よ)りによってこんな所へと思ったが、「ど、ど、ど、どや、うまいやろが、こ、こ、こ、こんなうまいもんどこイ行ったかて食べられへんぜ」という講釈を聞きながら食うと、なるほどうまかった。
織田作之助『夫婦善哉』(青空文庫

◆ 「たこ梅」は吉田健一の『舌鼓ところどころ』にも出てくる。

◇ 道頓堀の、湊町駅の方から行けば、大分歩いてから左側、高津神社の方からならばすこし歩いて直ぐ右側にたこ梅というおでん屋がある。
吉田健一『舌鼓ところどころ』(中公文庫,p.51 [文藝春秋新社,1958])

◆ この「湊町駅」は、現在のJR難波駅。

〔おでん屋「たこ梅」:「たこ梅」の歩み〕 この頃、作家の織田作之助さんや開高健さん、池波正太郎さん、吉田健一さんなどが、よくお店においでになり、その小説や随筆にしばしば「たこ梅」が登場いたします。
www.takoume.co.jp/ayumi.html

◆ 「関東煮」のハナシがなんだか「たこ梅」のハナシばかりになってしまった。機会があれば、一度行ってみたい。

関連記事:

このページの URL : 
Trackback URL : 

POST A COMMENT




ログイン情報を記憶しますか?

(スタイル用のHTMLタグが使えます)