◆ 金玉火鉢は金魚鉢には似てはいないが、先週、週刊文春の福岡ハカセの連載エッセーに目を落としたとたん、愕然とした。
◇ 先日、たまたま三軒茶屋の裏道を歩いていて愕然とした。細道の角にあった釣り堀が閉店していたのだ。
福岡伸一「パラレルターンパラドクス」(『週刊文春』2010年4月8日号,p.65)
◇ 釣り堀といっても大きな池でもなんでもなく、小屋の中にある。
Ibid.
◆ ワタシは外からガラス窓越しに覗いてみたことがあるだけで、残念ながら(興味はありながら)、中に入ったことはなかった。中はこんな風だったようだ。
◇ ガラス戸を引いて、薄暗い室内に入るとちょっと生臭い。部屋はそんなに広くなく、六、七メートル四方だろうか。中央に池があり(池というより銭湯の湯船のようなもの)、黒い水が張ってある。ここにいるのは、赤や白の小型の金魚。魚が見えないように、わざと水を黒くしているのである。そのぐるりが細い通路になっており、釣り人はそこに一定の間隔をおいて陣取る。いつも二、三人は先客がいる。
Ibid.
◆ 金魚だったのか、そう思って写真を見直すと、たしかに赤い魚が写っている。金魚か。
◇ 久しぶりに訪れた店はシャッターが閉まり、張り紙に、四十五年にわたる営業に終止符を打つことになりました、とあった。昭和四十年から。そんなに長いあいだここでがんばっていたのだ。かつて、まだ陽も高いのにほの暗い屋内の黒い水面を黙って見ていたおじさんたちはいったいどんな人たちだったのだろう。
Ibid.
◆ ワタシは金魚の行方が気にかかる。あるいは、赤井赤子と名乗って、室生犀星の『蜜のあわれ』に登場していたりもするか。