◆ 橋本治の夕焼けの思い出。小学校4年ぐらいまで、友達があまりいなかった彼は、母親に「外へ行って遊べ」と言われても、特にすることがない。仕方がないので、ひとりで近所の庭の花を見たりして、ぼんやりと時間をつぶして家に帰ってくる。 ◇ 家に帰ってもまだまだ日は高く、そして辺りが生活の慌しさを宿し始めた頃、夕焼けが現れます。夕焼けの美しさはわかっています。でもそれは、「一日を充実して終えることが出来た者を祝福するための美しさ」のような気がします。だとすると、自分にはその祝福を受ける資格がないのです。「また一日、なんとなくごまかして昼間を終わらせてしまった」と思う私は、夕焼けを「美しい」と思って、でもその美しさとは一つになれません。夕焼けは、まだなんとなく遠かったのです。 ◆ そんな彼にも、いつしか友達ができ、 ◇ その内に友達と外で遊ぶことが多くなって、早く訪れた冬の夕方、友達と一緒に「空一面の夕焼け」の下にいました。 ◆ ワタシは外で仕事をしているので、いまでも夕焼けの下にいることができて、とびきりキレイな夕焼けの日には、それだけで「今日もいい一日だった」と単純に思ってしまい、ときには、ひとにそのことを伝えたくもなるのだけれど、そんなことを聞いてくれそうなヒマなひとはあまりいそうにないので、あきらめる。 ◇ 子供が夕焼けの中で喚声を上げていられる時代が終わって、人間の暮らしから夕焼けが遠くなりました。日本中のあちこちに高いビルが建てられ、町というところは、密集した建物で埋め尽くされるようになりました。犇(ひし)めくビルを繁栄の指標とするような「経済」の自己顕示欲が、人の暮らしから夕焼けを遠ざけました。それは、以前と同じように人の上に現れ、でも、ビルを仰ぐことを日常としてしまった人間達は、もう夕焼けを目で追わなくなりました。夕焼けは、もう人の上に現れなくなったのです。 |
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