◆ 「そうそう目にするとも思えない」と書いたばかりの「赫」という漢字を、はや、また目にしてしまった。いや、目にしたのは、正確には、「火」+「赫」の「爀」という漢字で、バンクーバー五輪で日本が銀銅の2つのメダルを獲得したスピードスケート男子500メートルに、李奎爀(イ・ギュヒョク)という韓国の選手が出場していた。世界ランキング2位の実力者だそうだが、本番では15位。「爀」、火が赤赤と燃える。よくは知らないが、そのような意味なのだろう。日本語の音読みでは「カク」。「火」のない「赫」も「カク」と読む。 ◆ 「赫赫」(かくかく、かっかく)を辞書でひくと、 1 赤赤と照り輝くさま。「―たる日輪」 ◆ とある。「赫赫たる日輪」。赤赤赤赤と照り輝いた太陽。「赫く」で「かがやく」とも読むらしい。この「赫赫たる日輪」を、もっと日常的なコトバに訳せば、「真っ赤に燃えた太陽」になるだろう。ところで、これは真昼の太陽だろうか? それとも、朝日だろうか? 夕日だろうか? ♪ まっかに燃えた太陽だから ◆ 真っ赤なんだから、夕日(あるいは朝日?)だろう、という連想が当たり前のことなのかどうか、そんなことを考えてしまったのは、 ◇ 『万葉集』によく出て来る有名な枕詞に「あかねさす」があります。「茜さす」なんだから「赤くなる」のはずなんですが、この枕詞は、「日」「昼」「照る」にかかる枕詞です。「紫」にもかかりますし、「光って美しい」という意味で「君」にもかかります。なににかけてもいいようなもんですが、「茜さす」が光に関係あるんだったら、まず「夕焼け」じゃないでしょうか? 子供が太陽の絵を描くと、「真っ赤」にしますが、太陽が真っ赤になるシチュエイションは、やっぱり夕方でしょう。太陽=赤が夕方にあって、でも「あかねさす」はいつの間にか「昼の光に輝く」になってしまう。「あかねさす」という表現を作り出した人は当然夕焼けを見ていたと思われるのに、いつの間にか「夕焼け」がない。 ◆ という文章を読んでしまったからで、橋本治によれば、日本には古来、王朝文学にも北斎や広重の浮世絵にも、夕焼けを愛でる文化はほとんど存在せず、「夕焼けの美」といったものが認識されるようになったのは近代以降のことだそうだ。 ◆ 美空ひばりの「真赤な太陽」は、個人的には真夏の真昼の太陽のような気がしているのだが、これは夕陽をイメージしているひとのほうが多いかもしれない。 ◆ 「赫赫たる日輪」はどうかというと、「赫赫たる」は「あかねさす」と同じく枕詞のようなもので、日の光であれば、朝日から夕日まで、幅広く使われるようだが、真昼の太陽の場合が多いようにも思う。以下、《青空文庫》から、「赫々」の使用例を、(分かる範囲で)時間順に列挙してみると、 ◇ 朝のうちに富之助は客を送つて海岸傳ひに半里ほどの小村落へ行つた。〔中略〕 昨日と違つて日は赫々(かくかく)と海、波、岸の草原を照射した。 ◇ 翌朝、眼の覚めたときは、もう十時過ぎでしたろう。枕もとの障子一面に、赫々(あかあか)と陽がさしています。 ◇ 今朝山を下りて來る時分には、どうかと氣遣つた天氣は次第に晴れて大空の大半を掩(おほ)つてゐた雲は追々に散らけ、梅雨上りの夏の來たことを思はせる暑い日が赫々と前甲板の上を蔽ふたテントの上に照りつけた。 ◇ しかも盛夏の赫々(かっかく)たる烈日のもとに、他の草花の凋(しお)れ返っているのをよそに見て、悠然とその大きい花輪をひろげているのを眺めると、暑い暑いなどと弱ってはいられないような気がする。 ◇ 強烈な日光の直射程痛快なものは無い。日蔭(ひかげ)幽(ゆう)に笑む白い花もあわれ、曇り日に見る花の和(やわら)かに落ちついた色も好いが、真夏の赫々(かくかく)たる烈日を存分受けて精一ぱい照りかえす花の色彩の美は何とも云えぬ。 ◇ 時正に未後(びご)。西方の秩父山にはかに陰(くもり)て、暗雲蔽掩(へいえん)し疾電いるがごとし。しかれども北方日光の山辺は炎日赫々なり。 ◇ 空はもうからりと晴れ上ってすばらしいお天気になり、暖かい太陽が斜め上に赫々と輝いていた。 ◇ それから夕陽が赫々(かくかく)と赤耀館の西側の壁体に照り映えるころを迎えましたが、 ◇ おもひ出せば、或時は夕暮の夏の、赫々たる入日に、鋼線(はりがね)が焼き切れるやうな、輝やきと光沢を帯びて、燃え栄つてゐたのも、是等の山々であつた、 ◇ 夕日はまだ消えやらず芝生を赫々(あかあか)とはでに染めていた。そしてごい鷺もまたしきりにボコポンボコポンと啼いていた。 |
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