MEMORANDUM

  赫が焼き付く

◆ 画家・斎藤真一の「赫」が気になるので、先に引用した文章をもう一度引く。

◇  「赤」より「赫(あか)」という字に惹かれてならない。
 「赤」だと、何か、絵具のチューブから出したままの色彩に思えるが、「赫」はもっと火のように鮮やかで、ぱちぱち音たてて眼底に焼き付いているような、滲みの余韻をもってくるから妙である。それは赤を二つ横に並べただけで、色が増幅し深い広がりをこの文字から感じさせてくれるからであろう。

斎藤真一 「赫の幻想」(『風雨雪』所収,朱雀院,p.164)

◆ この「眼底に焼き付いているような」赫は、画家が知り合った瞽女(ごぜ)の記憶の色と重なりあっている。

◇  かつて私が、赤に取り付かれ、あらゆる色彩の中で何故か赤が根源の色のように思えたのは、ふとしたことで瞽女さんという盲目の女旅芸人を知ってからである。
 ある時、彼女達に遠い想い出話を訊ねた時、次のようなことを語ってくれた。それは、六歳の時、はしかで失明した瞽女さんの色に対する記憶であった。
 「目の見えていた幼い頃の一番はっきりした記憶は、越後の平野に沈んでゆく真っ赤な太陽でした。大きなお日さまが、とてもきれいで、まぶたの中に今でも焼きついています」

Ibid.,p.164-165

◆ 「眼底に焼き付く」というのは、なんともインパクトのある表現であると思ったが、より「ふつうの」言い方であるだろう「まぶたの中に焼き付く」も、考えてみれば、身体的な感覚を伴った強烈な表現であることには変わりがない。陽の光を直視すれば、どのような機構によるのかは知らないが、だれだって、その残像がしばらくは眼に「焼き付く」。ただ、それが「しばらく」ではない場合があって、どうしたわけだか、越後平野に沈みゆく「真っ赤な太陽」は、六歳の少女のまぶたの中に(あるいは眼底に)、永遠に「焼き付」いてしまった。

◆ このコトバを聞いて、赤は画家にとって特別な色「赫」になったらしい。瞽女を描いた絵のタイトルにも「赫」の字が多い。画像は「赫い雪」。

◇ 同じ赤にしても目で見える外観上の行き詰まった色ではけっしてなく、実に鮮やかで、純度の高い、むしろこの世ではもう見ることの出来ない、透明度のある「赫」のようにも思えたからである。そしてその赫は得体の知れない生きもののような、ねっとりとした魂の色の塊りにも思えた。
Ibid.,p.165

◆ 時機を逃すのが得意なワタシにしては珍しく、武蔵野市立吉祥寺美術館で《斎藤真一展:瞽女と哀愁の旅路》が開催中であるのを、タイミングよく、いま知った。2月21日まで。ネットもたまには役に立つ。

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COMMENTS (2)

rororo - 2010/02/18 04:49

この画家といえば「吉原炎上」を思い出します。絵の写真を借りに訪問したことも。

Saturnian - 2010/02/19 08:46

rororo さん、

そうですね。ワタシも入り口は「吉原炎上」でした。訪問された話も機会があればぜひ詳しくお聞きしたいものです。