◆ そうだ、蕎麦屋に行こう。そう思って、街へ出かけたのは、杉浦日向子が、
◇ ずっと以前、東京には、こんなソバ屋が、銭湯の数くらい、どこにでもあったはずだ。変わりソバや大吟醸はなかっただろうけど、ソバ屋で過ごす、こんなぽっかりとした午後が、ありふれた日常のなかに、いつもすぐそこの卑近さで、あったはずだ。
杉浦日向子とソ連編 『もっとソバ屋で憩う』(新潮文庫,p.38)
◆ と書いていたから。とくに蕎麦が好きなわけでもないけど、彼女のいう「こんなソバ屋」にちょっと行ってみたくなったわけ。それから、
◇ ソバをズズッと、あからさまな音をたてて食べるようになったのは、どうやら、ラジオ普及以降のことらしい。
ソバ関連の落語を放送でかける際、仕方噺(しかたばなし)のSEとして噺家がズズッとやった。それを聴いたひとたちが、達者な擬音を、オツだねえとマネたのではないかという。
従来我が国ではおおむね濁りを忌み、麺なら、つるつるは良いがずるずるは下品として、唇をすぼめて食べていた。
ただしソバは、晩秋から春先にかけてズズズッが公認された。俗に、「きくやよい」=「聴くや善い」=「菊弥生」と云って、菊(十一月)から弥生(三月)までがズズッ公認期間とされていた。つまり新ソバの時期で、新ソバの薫りはかそけきものだから、空気を撹拌させ、口腔から鼻腔へと増幅してこそ、存分に堪能できるのだ。高座のソバは新ソバであるわけだが、いつしかそれが通年の慣習として定着したのだろう。
Ibid., p.79
◆ とこんなことも書いてあった(念のため、SEというのは、サウンドエフェクト、つまり音響効果のことで、システムエンジニアのことじゃないよ)。それで、「こんなソバ屋」に行って、苦手だけれども、ズズッとやってみたくなったのだ。あるいは、自分ではうまくできなくても、蕎麦好きたちが奏でる楽しげなズズズッを聞いてみたいと思ったのだ。そう思って街に出たのだけども、悲しいかな、「こんなソバ屋」がどこにあるのかがわからない。駅前あたりをうろちょろして、「こんなソバ屋」風の蕎麦屋なら、あるにはあったけれど、いまひとつ確信がもてずに、さらにうろちょろ。ちょっと寒い。カラダは冷たい蕎麦よりも温かい蕎麦を欲しているようだ。温かい蕎麦なら、なにも「こんなソバ屋」に行かなくても、駅前の立ち食いで十分な気もしてきた。それで、面倒なので、立ち食いにしようかと思ったが、立ち止まってよく考えると、とくに蕎麦が食べたいわけではない。「こんなソバ屋」に行きたかっただけなのだ。そんなこんなで、けっきょく、新しくできたらしいうどん屋を発見して、うどん屋に入った。それで、注文したのがよりによって「明太子うどん」。「明太子蕎麦」なんてのはないだろうな、と思いつつ、いったいなにがしたかったのやら。