◆ 川崎記念を見た帰り、堀之内のソープ街を抜けて、京急川崎駅までのんびり歩いた。駅のすぐわきにお寺の屋根が見えたので、寄ってみた。曹洞宗宗三寺。川崎市による説明板を読むと、その末尾に、
◇ 〔……〕 今、墓地には大阪方の牢人で、元和元年(1615)川崎に土着した波多野伝右衛門一族の墓や、川崎宿貸座敷組合の建立した遊女の供養碑がある。
◆ とあって、波多野伝右衛門はとりあえずどうでもいいが、「遊女の供養碑」というのが気になって、墓地のなかを歩きまわってやっと見つけた。墓地の片隅に、寺の本堂からもっとも離れた角っこに、ひっそりと建っていた。台座には、「川崎貸座敷組合」の文字。目を上げると、塀越しにラブホテルが見えた。
◇ 〔川崎市川崎区ホームページ:かわさき区の宝物〕 江戸時代、旅籠には「平旅籠」と「飯盛旅籠」があった。飯盛旅籠は、旅人に給仕をしたり床を共にしたりする飯盛女(めしもりおんな)を置く旅籠のこと。飯盛女とは年季奉公で近郷から売られてきた女性たちで、一般旅行者の増えた江戸後期には旅人を留めて宿場の財政を支える大きな役割を果たしていたが、多くは体を壊し、墓にも入れずに打ち捨てられた。供養塔はそんな女性たちの冥福を祈って、大正初期に川崎貸座敷組合によって建てられたものである。台座には、吉田楼、三浦屋、高塚楼など当時の遊郭楼の名前が刻まれ、また江戸時代の川崎宿の人口が男1080人、女1353人とも記されている。昭和63年(1988)に川崎今昔会によって建てられた供養塔も左側に寄り添っている。
www.city.kawasaki.jp/61/61kusei/kigyoshimin/pdf/01-08.pdf