MEMORANDUM

  おサルさん

◆ 友人と少し飲んだ夜、帰りに近くのブックオフで文庫本を6冊買って、バスのなかで、そのうちの1冊を適当に選んで、「あとがき」から読み始めた。そしたら、酔っていたせいか、思わずほろりとしてしまった。こんな文章。

◇  以前読んだ雑誌にのっていた記事で、とても印象に残っている話があります。それは、ある大学の先生と子育てに悩んでいるお母さんの話です。その先生は、子育ての相談をしにお母さんが来ると、「動物園に行ってらっしゃい」というのだそうです。お母さんは不思議がりますが、先生は、「動物たちがどんなふうに子どもを育てているか、よーく見てらっしゃい」といって送り出すのです。
 はたしてそれで子育ての悩みがなくなるのかしら、と私は首をかしげました。
 動物園でサルを見てきたあるお母さんは、「おサルさんのお母さんは子どもをただだっこしたり、おんぶしたり、手づくろいしているだけでした」と先生に報告しました。でも、実はそれがいちばん大切なことなのだ、と先生はいうのです。動物たちは、何歳からピアノをはじめたらいいか、とか、どこの幼稚園へ入れたらあの有名な小学校に入れるのか、とか、そんなことは考えていません。ただ、だっこしたり、おんぶしたり、なめたり、シラミをとってやったりしているだけです。小さな子どもが欲しがっているのは、いい小学校に入ることよりも、お母さんにいっぱいさわってもらいたい、かまってもらいたい、そういうことではないでしょうか。いまのお母さんにはそれが欠けている、と先生はいうのです。
 しばらくすると、おサルさんを見てきたお母さんはお風呂に入ったとき、子どものすみずみまで、ていねいに洗ってあげるようになりました。おサルさんが子どものの毛づくろいをするのをまねたのです。たぶん、そのお母さんの子どもは、とてもうれしかったと思います。
 この話を読んで、なるほど、と思いました。動物園には、動物である私たちの原点があるように感じたからです。

浜なつ子『旭山動物園12の物語』(角川ソフィア文庫、p.193-194)

◆ いま、書き写しながら読み直してみると、とりたてて、なるほど、と思うこともなかったし、ましてや、ほろりとすることもまったくなかったので、やはり酔っていたせいで、どこか留め金が外れてしまったのだろう、と思うしかないのだけれど、なんとなく見当をつけてみれば、ほろりとしたのは、おそらく内容そのものではなくて、この文章の書き方のせいではないか。「おサルさんのお母さんは子どもをただだっこしたり、おんぶしたり、手づくろいしているだけでした」と大人であるはずの「お母さん」が「先生」にはまるで自らが子どものように報告をする、そのあたりに(ワタシのウィーク)ポイントがあるのではないか。そんな気がする。じっさいに「お母さん」がそのようなコトバで報告したのか、あるいは、「先生」がそのように「お母さん」のコトバを翻訳して紹介したのか、またあるいは、「あとがき」を書いた著者が雑誌に書かれていた「先生」と「お母さん」の会話をそのようなコトバに書き直して伝えているのか、そのあたりは、その雑誌を読んだわけではないのでワタシにはよくわからないのだけれども。

◆ ところで、この「先生」というのは河合隼雄ではないだろうか。どうもそんな気がしてきた。

◆ 「おサルさん」の写真を探してみたら、何枚も出てきた。なぜだか、みんな檻の中。

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