◆ もういちど、辻仁成『海峡の光』から同じ箇所を引用。
◇ 「いよいよ明日っから俺はJRの人間さ。ファンネルマークもJRだ」
客室係のかつての朋輩が告げた。
「来年には連絡船は廃航。そして俺たちゃみんなお払い箱だもんな」
辻仁成 『海峡の光』(新潮文庫,p.15-16)
◆ いくらなんでも読むのが遅すぎるけれども、「ファンネルマーク」からわずか二行で、また止まる。「廃航」。ハイコウという音で、ワタシの脳が変換する漢字は、まず「廃校」、つづいて「廃坑」か「廃鉱」だろうか。さいきんは、伊丹空港の「廃港」問題などもあるが、「廃航」まではなかなか出てこない。そもそもそんなコトバは知らなかった。
◆ 交通におけるルートの廃止。鉄道なら「廃線」、道路なら「廃道」。船や飛行機の航路(航空路)の場合は「廃航」という(こともある)らしい。
◆ 道路や鉄道なら、それが廃れたり廃止になったあとに「跡」が残って、そこを訪れたときには、ノスタルジーを感じたりもするわけだけれど、航路となるとどうなのだろう? 空や海を眺めてみても、雲や波が見えるばかりで、その風景は廃航前とまったく変わりがない。
◆ そんなことを考えていたら、澁澤龍彦の短編を思い出した。
◇ はるかかなたに、ただひとすじ、なにか赤茶けた細い帯のようなものが、波間がくれにちらちら隠見した。
澁澤龍彦 「マドンナの真珠」(『澁澤龍彦初期小説集』所収,河出文庫,p.174)
◆ 洋上に突如とした現れた「赤茶けた細い帯のようなもの」、これが赤道。
◇ 近くで見ても、それはやはり一本の巨大な帯という以外になんとも言いようのないものであった。幅は十五六メートルもあろうか、しかしその帯の両端を目で追って行くと、水平線と交わるところは針のように細く、空と水の間(あわい)にぼうと煙るようにかき消えるまで、蜿蜒として途絶えない。ほとんど水面と同じ高さで、たえず激浪に洗われ、縁には貝殻や、海藻や、エボシ貝の類など、得体の知れない水棲動物や下等生物がびっしり付着している。さらに、何とも言えず奇怪なのは、その色である。遠望したところでは、単に代赭色のような赤茶けた色であったのに、そば近く見ると、あたかも永い時の腐蝕に錆爛れた鉄橋か何ぞの地肌を思わせるような、まぎれもないそれは金属の色なのだ。
ibid. p.175
◆ 幻想によって可視化された「赤道」は海面に浮き出た一本の巨大な赤い帯だ。そこで、シュペルヴィエルの『海に住む少女』のような少女にばったりと出会えたりすれば、どんなにおもしろいだろう。あるいは、
◇ 飛行機が那覇空港を飛び立って針路を南西の石垣島にとったとき、いかにも黒潮のふるさとへゆく思いがした。黒潮は本土にむかい、太古以来昼となく夜となく北上しつづけている。われわれはその流れにさからって南下している。
ただし窓に顔をくっつけて下を見ても、海は黒く見えない。黒潮はこの飛行機の航路からいえば右の沖合を走っているらしい。
司馬遼太郎 『街道をゆく 6 沖縄・先島への道』(朝日文庫,p.61)
◆ 赤道を見るのは難しいかもしれないが、黒潮なら目を凝らせば見えそうな気もする。
◆ というわけで、とりあえず、二行進んだ。