MEMORANDUM

  文字とめまい

◇ わたしにとってたやすく発音することのできるハングルは、強い自己主張の身振りとして映る。アルファベットは機能的な音符であり、キリル文字は不機嫌な厳粛さ、中国の簡略化された漢字はいかなる官能性とも無縁な政治のあり方を連想させるだけだ。だが、フェズでわたしを取り囲み、どこにいても襲いかかってくるアラビア文字は、そのいずれとも違った、恍惚とした感情へとわたしを誘惑する。
四方田犬彦 『モロッコ流謫』(新潮社,p.88-89)

◆ ワタシは、ハングルにも、キリル文字にも、アラビア文字にもほとんど無縁だが、ずいぶん以前、すっきりしたアルファベットの世界にしばらく滞在したのち、日本に戻って看板広告の「日本文字」の氾濫を目にしたときに、思わず「めまい」がしたことがあった。ことばのあやあやではなくて、ほんとうに身体的に「めまい」がして、それがしばらく続いた。そのあいだ、漢字やカタカナやひらがなの雑多な文字を、ワタシはなにひとつ解読することができなかった。文字から意味が失われてしまえば、たんなる形象にすぎない。そういうものかと思ったが、どうもそうではないらしかった。意味を喪失した文字は、それでもなお文字であることをやめないらしい。風景の一部として見られることを許さず、執拗に、わからない意味を「理解せよ」とワタシに迫ってくる。文字というものは恐ろしい、そう思った。さいわい、数十秒(だっただろうか?)ののち、「めまい」は治まり、文字はすべての意味を一挙に回復した。あんなことは後にも先にも一度きりだ。

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