MEMORANDUM

  人の目を見て話す

◇ 人の顔を、まっすぐに見られないのだ。自分の子供に向かっては、「話をするときは相手の顔を見て」なんてびしびし言うくせに、自分では人の顔を正視できない。正視をしているふりはするのだ。顔も目もまっすぐ相手を見る姿勢になる。ところが、目の芯が相手をとらえていない。相手の目と自分の目が出会った瞬間、目は何も見なくなってしまうのだ。そんな器用なことができるはずないとお思いになるかもしれないが、できるのですね、これが。
川上弘美 『なんとなくな日々』(新潮文庫,p.50-51)

◆ ちょっとまえ、ああ、いま、たしかに目を見て話しているな、と思ったことがあって、そう思ってしまったのは、これまで、ふだん人の目を見て話しているかどうかについては自覚的ではなかったということなのだろう。考えてみても思い出せない。人に「ちゃんとこっちを見て話せ」と言われたこともあまりないから、いちおうは相手の顔を見ていたのだろうとは思うけれども。そのもっと以前には、意識的に相手の目を見て話そうとしていた時期があった記憶はあるが、そんなエネルギーもいまはない。たぶん、相手の目を見て話すというのは疲れることなんだろう。だから、おそらく、ふだんは川上弘美のように器用に「見て」いるんだろう。そして、ごくまれに、目を見て話しても疲れを感じさせないようなタイプのひとがいて、そのようなひとと話す機会があったときには、「ああ、いま、たしかに目を見て話しているな」と、ふと自覚したりもするのだろう。

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