◆ 朝日新聞の「天声人語」(2009年3月4日)から。
◇ 仏像を彫ることを、ある仏師が「木の中に住んでいる仏様を出してあげるんです」と言うのを、味わい深く聞いた覚えがある。そんな仏像の最高傑作のひとつ京都・広隆寺の弥勒菩薩半跏像(みろくぼさつはんかぞう)の、右手薬指が折られる事件が49年前に起きた▼一人の学生がキスをしようと近づいて、指に触れてしまったのだった。「美しさに魅せられて」という、まことしやかな伝説がいつしか生まれ、同情論も起きた。それほどに、この像の湛(たた)える高貴な美は、見る者を引きつけてやまない▼人に尊ばれ、人を救済してこそ仏像も本望だろう。だが不心得者もいるから油断ならない。「一目見てとりこになった」と、京都の建仁寺から十一面観音座像を盗んだ男が逮捕された。自宅には他にも仏像が並び、余罪を追及されている▼毎日拝んでいたというから、転売が目的ではないらしい。信仰心の篤(あつ)いあまりか。しかし、盗みは仏教の在家信者が守るべき「五戒」にそむく。仏師が木の中から取り出した仏様に、申し訳がない▼仏像は今、若い世代にも静かな人気らしい。指を折られた弥勒菩薩はかつてドイツの哲学者ヤスパースに「永遠平和の理想を最高度に具現している」と絶賛された。日本の仏像の優れた精神性に癒やされたい人が、増えているのだろうか▼〈鎌倉や御仏(みほとけ)なれど釈迦牟尼(しゃかむに)は美男におはす夏木立かな〉。かつて与謝野晶子は大仏を生身の男に見立てた。あまり息を詰めなくとも、鑑賞の仕方に決まりはない。ただし触らず、キスせず。マナー違反を「五戒」の番外に付け加えたい。
www.asahi.com/paper/column20090304.html
◆ 「京都の建仁寺から十一面観音座像を盗んだ男」の事件のことを書こうと思っていたのだが、気が変わった。鎌倉の大仏のハナシにする。
◇ 鎌倉の高徳院の大仏を拝観に行った人は、まず、大仏の御前である中庭に立ち、敬虔な気持ちで大仏に手を合わせ、祈りを唱える。さて宗教的行為である拝観が一段落すると、普通の俗人の日常の姿勢と精神状態に戻り、カメラを取り出したり散歩したり、また、みやげ物を物色したりしながら、改めて大仏を一つの風景として鑑賞する。そしてこの晶子の短歌を思い出し、大仏は「美男におはす」という晶子の品定めを、本当にそうかなあなどと考える。
www2u.biglobe.ne.jp/~houmei/kasi/akiko_tanka.htm
◆ ここで書かれている「普通の俗人」は、それでもなお、やや高尚すぎるようだ。さらに普通の俗人なら、祈りを唱えもしないで、大仏の前に座り、大仏と同じポーズをとって、大仏を背景にして、写真に納まることだろう。もちろん、与謝野晶子の歌など気にもとめず。
◇ 鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな
◆ ところで、鎌倉の大仏は、正確には、お釈迦さまではない。阿弥陀さまである。
◇ 仏像に詳しい方は、大仏は釈迦如来ではなく阿弥陀如来だから、厳密にいうと間違いだなどと言われます。確かに学術的にはそうでしょうが、仏像全般の総称的な呼び方として、釈迦という言葉を使ったと解釈してやったらどうでしょうか。浅学菲才の一般人は、仏像ならなんでも「お釈迦様」と呼ぶのがならわしですし。
www.murasakishikibu.co.jp/tankahaikusenryudo/diary/200706.html
◆ もちろん、そんな区別はどうでもいいが、「浅学菲才の一般人」なら、「浅学菲才」とは書かず、「浅学非才」と書くか、もとよりそんな四字熟語は知らないだろう。それに、仏像一般は、「お釈迦様」ではなくて、「ほとけさま」というのが普通ではないか、と思ったりもする。