◇ 小さな頃からかけっこが早かった為末は、中学時代には100m、200mで日本一になるなど、ずっと将来を期待されていた。 ◆ 〔この記述には多少の混乱がみられるようだ。為末が広島国体で出場したのは、400mハードルだったし、「世界の20歳以下の大会」で4位になったのは400mだった。「高校3年の時に地元で行われた広島国体」の箇所を「高校3年の時のインターハイ」とすれば、事実としては整合する。それはともかく、〕 「彼がブレイクした」と書かれている広島国体で為末大が出たのは400mハードルだった。「中学時代には100m、200mで日本一」だった選手が、なぜ400mハードルを走ったのか? 走るようになったのか? 走らなくてはならなかったのか? ◇ けれども、私は、残念ながら「カール・ルイス」になることはできませんでした。そこから伸びなかったのです。早熟だった私の体は、中3時に、身長170cm、体重65kgで、現在もこの数字はほとんど変わりません。つまり、15歳にしてすでに、私の体はピークを迎えていたわけです。 ◆ 100m、200mから400mへ。 ◇ もちろん挫折感はありました。しかし、打ちひしがれたりくよくよしたりしているヒマなどなかった、という感じです。とにかく、トラックで負けることだけは絶対に受け入れられなかったのです。100m、200mの短距離でこれから先、見通しが暗いのなら、違う種目でもいいから、人よりも速く走らなければならない。それが自分なりのプライドでした。 ◆ 400mから400mハードルへ。 ◇ そこで物は試しと、国体で400mハードルに出場してみたところ、49秒09で優勝してしまいました。特別な練習もしないで臨んだ初レースでのこのタイムは、なんとジュニア(20歳未満)では日本新記録で、当時世界ジュニア歴代2位の好記録でしたから、自分でもビックリしました。よほど向いていたのでしょう。 ◆ こうした「前史」を経たのち、ようやく「侍ハードラー」が誕生することになった。 |
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