MEMORANDUM

  ある前史

◇ 小さな頃からかけっこが早かった為末は、中学時代には100m、200mで日本一になるなど、ずっと将来を期待されていた。
 彼がブレイクしたのは1996年、高校3年の時に地元で行われた広島国体。その記録は、日本トップランクに入る記録。世界の20歳以下の大会でも4位となる好成績を収めた。世界4位になるも、為末は、そのとき世界の壁を痛感したという。
「この差は永久に埋まらない……。しかし、400mハードルを見たときなぜか穴が見えた」

www.jump.co.jp/bs-i/chojin/archive/018.html

◆ 〔この記述には多少の混乱がみられるようだ。為末が広島国体で出場したのは、400mハードルだったし、「世界の20歳以下の大会」で4位になったのは400mだった。「高校3年の時に地元で行われた広島国体」の箇所を「高校3年の時のインターハイ」とすれば、事実としては整合する。それはともかく、〕 「彼がブレイクした」と書かれている広島国体で為末大が出たのは400mハードルだった。「中学時代には100m、200mで日本一」だった選手が、なぜ400mハードルを走ったのか? 走るようになったのか? 走らなくてはならなかったのか?

◇ けれども、私は、残念ながら「カール・ルイス」になることはできませんでした。そこから伸びなかったのです。早熟だった私の体は、中3時に、身長170cm、体重65kgで、現在もこの数字はほとんど変わりません。つまり、15歳にしてすでに、私の体はピークを迎えていたわけです。
 高校に進学してからは、伸び悩む私と、伸び盛りのライバルたちとの差は、じりじりと縮まっていきました。こんなはずじゃないと、焦りました。だれにも負けたことがなかっただけに、私は負けることを心底恐れました。
 「だれよりも速く走れる」という唯一の自負を失ってしまったら、何を拠り所に、何を目指して生きていったらいいのでしょう?
 トラックで負けることは、自分の人格を全否定されることのように思えたのです。
 私は追い詰められ、そして、ついにその日がやって来ました。
 高校3年のときです。県大会の200m決勝で、2年生の選手に私は負けました。走ることで初めて負けたのです。
 初めて味わう敗戦のショック。もう伸びしろのない自分に突きつけられた「限界」の二文字。

為末大『日本人の足を速くする』(新潮新書,p.10-11)

◆ 100m、200mから400mへ。

◇ もちろん挫折感はありました。しかし、打ちひしがれたりくよくよしたりしているヒマなどなかった、という感じです。とにかく、トラックで負けることだけは絶対に受け入れられなかったのです。100m、200mの短距離でこれから先、見通しが暗いのなら、違う種目でもいいから、人よりも速く走らなければならない。それが自分なりのプライドでした。
 高校3年のインターハイで私は400mにエントリーし、首尾よく優勝することができました。そしてその後に行われた世界ジュニア選手権では4位に入賞しました。この距離では、まだ私のポテンシャルには貯金があるようでした。
 とはいえ、早熟型の宿命で、いずれは追いつかれ追い抜かれてしまう恐れは、100mと同様にあるわけで、私はその世界ジュニア選手権で行われていた他の競技を見回して、何かいい種目はないかと物色することを忘れませんでした。
 もっと自分に向く種目、自分が勝ち続けられる競技はないか。

Ibid. p.12

◆ 400mから400mハードルへ。

◇ そこで物は試しと、国体で400mハードルに出場してみたところ、49秒09で優勝してしまいました。特別な練習もしないで臨んだ初レースでのこのタイムは、なんとジュニア(20歳未満)では日本新記録で、当時世界ジュニア歴代2位の好記録でしたから、自分でもビックリしました。よほど向いていたのでしょう。
Ibid. p.13

◆ こうした「前史」を経たのち、ようやく「侍ハードラー」が誕生することになった。

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