◆ プレゼントをもらえば、それがなんであれ、たいていは嬉しい。とはいいつつ、実際に嬉しいのは、プレゼントしてくれたひとの気持ちだけのことがほとんどで、プレゼントされたモノ自体を考えてみると、それほど喜ばしいものではないことが多かったりもして、たとえば、結婚式での引き出物とか、・・・以下、列挙してみても、あまり愉快なハナシにはならないだろうから、割愛して、こんなプレゼントはどうか?
◇ おとなというものは馬鹿である、と私自身が大きく成長してから、更(あらた)めて考えた。
私は造り酒屋の一人息子で、萬事我儘(わがまま)放題に育てられたらしいが、そんな一般の事は別として、幼い頃のおもちゃの中で牛が好きであった。丑歳の生れで、丑の歳であったので、おとな達の方で子供に牛を当てがったから、わけもわからず牛が好きになったのだろう。
ありありと記憶に残っているのは、京都の北野の天満宮の土焼の黒牛である。何でも大きいのと小さいのと、大小揃っているのが好きだったので、枕くらいの大きさの黒牛と、親指程の小さな黒牛と、それを並べてよろこんだ。
だれかが京都土産に黒牛の玩具をくれる。それを列(なら)べて遊んでいるなら、それでよさそうなものだが、おとな達、父母はこれを以って足れりとせず、私即ち栄造の栄はあんなに牛が好きだから、おもちゃでなく、本ものの牛を連れて来てやったら、さぞよろこぶだろうと云う事に衆議一決したらしい。
酒屋だから、酒造米を作る田地がある。そこの小作人に命じて、大きな牛を一頭牽(ひ)いて来させた。田地の在る所から、町なかの私の家までは二里ぐらい離れている。
牛はなんにも知らないからめえと鳴いて、百姓に連れられてぼそぼそ歩いて来たのだろう。牛歩蹣跚(まんさん)、半日は掛かったのではないか。
私のところは広い。小作地から来た牛が、仮りの住居とする牛小屋を造る程の余地はいくらでもある。倉と倉の間の片ひさしの下に忽(たちま)ち牛小屋は出来た。それは勿論(もちろん)牛が来る前から用意したのだろう。しかし肝腎の当の栄造の私には何の興味もなかった。
牛が来てその小屋に這入り、太い声でもうと云ったのは覚えている。しかしちっとも面白くも何ともない。おとなが、そら牛だ、本ものの牛だ、生きた牛だとはやし立てても、北野の天満宮様の大きな黒牛と小さな黒牛を並べた程の興味はない。生きた牛は糞を垂れる。一日や二日はいいけれど、萬事禊斎(けつさい)の酒屋の居候としては迷惑である。
又小作地へ返す事になったのだろう。再び同じ田舎道を牛歩蹣跚、たどり著(つ)いてもとの牛小屋に戻った後は、私などの知った事ではないが、それ御覧、おとな達の馬鹿騒ぎに終って、栄の情操教育の一助ともならず、動物愛護の精神涵養に寄与するところも無かった。
内田百閒 「物を貰う」 『内田百閒集成15 蜻蛉玉』 (ちくま文庫,p.327-328)
◆ 子ども時分にプレゼントとしてほんものの牛をもらった経験のあるひとは、めったにいるものではないだろうけど、万が一、もらったとすれば、そのほんものの牛が大好きになる少年というのは少なからずいるだろうと思う。そうして、なかには、かたときもその牛から離れたくない一心で、ついには牛飼いになってしまう少年というのも、あるいはいるかもしれない。
◆ そういえば、七夕の牽牛は牛飼いだった。というより、牽牛とは、もともとが個人の名前ではなくて、「牛を牽(ひ)く」 者、つまりは牛飼いそのものの意味なのだった。ほんものの牛をプレゼントされたのが、ひねくれ坊やの内田栄造ではなくて、牽牛であったなら、さぞ大喜びしたことだろう。