MEMORANDUM

  小さな駅

◇ 真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けてゐた。沿線の小駅は石のやうに黙殺された。
横光利一 『頭ならびに腹』 (青空文庫

◆ 「石のように黙殺された」 沿線の小駅はどんなだっただろう? あるいは、こんな風だったろうか?

◇ 世の中に、酒といふものさへなかつたら、私は或いは聖人にでもなれたのではなからうか、と馬鹿らしい事を大真面目で考へて、ぼんやり窓外の津軽平野を眺め、やがて金木を過ぎ、芦野公園といふ踏切番の小屋くらゐの小さい駅に着いて、金木の町長が東京からの帰りに上野で芦野公園の切符を求め、そんな駅は無いと言はれ憤然として、津軽鉄道の芦野公園を知らんかと言ひ、駅員に三十分も調べさせ、たうとう芦野公園の切符をせしめたといふ昔の逸事を思ひ出し、窓から首を出してその小さい駅を見ると、いましも久留米絣の着物に同じ布地のモンペをはいた若い娘さんが、大きい風呂敷包みを二つ両手にさげて切符を口に咥へたまま改札口に走つて来て、眼を軽くつぶつて改札の美少年の駅員に顔をそつと差し出し、美少年も心得て、その真白い歯列の間にはさまれてある赤い切符に、まるで熟練の歯科医が前歯を抜くやうな手つきで、器用にぱちんと鋏を入れた。少女も美少年も、ちつとも笑はぬ。当り前の事のやうに平然としてゐる。少女が汽車に乗つたとたんに、ごとんと発車だ。まるで、機関手がその娘さんの乗るのを待つてゐたやうに思はれた。こんなのどかな駅は、全国にもあまり類例が無いに違ひない。金木町長は、こんどまた上野駅で、もつと大声で、芦野公園と叫んでもいいと思つた。
太宰治 『津軽』 (青空文庫

◆ いまもむかしも、津軽鉄道に特急は走っていないだろうから、いまもむかしも、このステキな芦野公園という駅が黙殺される心配はないけれど、切符を口に咥えたモンペ姿の若い娘はもういないだろう。その切符に器用に鋏を入れる改札の美少年の駅員はもういないだろう。

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