◆ 猫の写真を撮ることがある。とくに猫の写真を撮りたいと思っているわけではないが、街を歩けば猫と目があってしまうことがあって、そんなときには多少の時間をかけて猫の写真を撮る。たいていは野良猫だ。
◆ 先日撮った猫は珍しく飼い猫だった。ワタシがアパートの二階から荷物の運び出しをしているのを隣の建物からしげしげと見ていた。隣の建物は二階が玄関になっている一軒家で、よく見ると玄関脇の窓が少し開いており、そこから猫が出入りできるようにと細い板が渡してあった。その細い板の上に猫がいた。毛並みのよさそうな猫だった。立ち居振る舞いもふだん目にする野良猫にくらべやや上品な気がした。いきなり断りもなしにカメラを向ける無作法な人間への対応にすこしとまどっているようでもあった。恥ずかしがっているようにも見えたが、あるいは怒っていたかもしれない。
◆ 以下の引用はこのハナシとはなんの関係もない。
◇ 「私は猫が涙を流して泣いているのを見たことがあります」
と言い出して、話が丹波から京都の巷へ外(そ)れてしまった。Iさんの母堂は飼い猫のしつけにやかましく、そのためにその猫はいやしくもお膳の上のものに手をのばすということがなく、堪えに堪えているようなふぜいで、人間たちが食事をするのを待っているというが彼女の日常であった。
ある日、母堂が親戚の家へゆかれると、そこの猫はじつに放縦で、お膳の上のものを嗅いだり、手でひきよせたり、包み紙に首をつっこんだりして、母堂はそのために神経がくたくたになって帰宅した。
「そこへゆくと、ほんまに、お前はおとなしゅうて、ええ子やな」
と、母堂は夕食のとき、猫をふりかえって、ほめてやった。そのとき猫が無言で泣きだしたというのである。大きな目にみるみる涙があふれて、その滴ってゆく涙がひげを濡らしたというから、とても何かの見違えとはちがいます。私もびっくりしましたし、母も息をのんで見つめていました、とIさんはいった。
司馬遼太郎 『街道をゆく 4』 (朝日文庫,p.153-154)
◆ この猫はなぜ泣いたのか? ワタシは 「母堂」 に褒められたのがうれしくて泣いたのかと思ったが、司馬遼太郎の解釈は違っていた。続けてこう書いている。
◇ その猫にすれば某さんの家の猫こそ猫らしい猫で、自分は御当家の御躾(おしつけ)に堪え忍んでいるだけなのです、と言いたかったのであろう。
◆ なるほど、そう言われるとそうだなという気もする。というかこちらが正解なのだろう。けれど、涙は涙で、悔し涙も嬉し涙も区別がつかない。猫であれ人間であれ、そもそも泣いている本人からしてどうして泣いているのかがわからない。そんなこともよくあることだろう。感情の種類によって涙の成分も異なるというハナシも聞いたことがあったが、どうなのだろう?