◆ やや時間に余裕があったので、ワタシのおっちゃんの書いた文章の一部を E-TEXT 化してみた(《岩本敏男ことば館》)。その途中で、ちょっと調べもの。 ◆ Masaccio はイタリアルネサンスの画家。マザッチョ、マサッチオ、マサッチオ。 ◇ フィレンツェのサンタ・マリア・デル・カルミネ大聖堂ブランカッチ礼拝堂の壁画がことに著名である。同壁画のなかでも有名な 「楽園追放」 のアダムとイヴの像は、 「マサッチオ」 という画家の名は知らずとも、誰もが一度は図版で見たことがあるに違いない。 ◆ 図版でも見た記憶のないひとのために(ワタシだ)、この有名らしい 「楽園追放」 のフレスコ画とはどんなのかというと、こんなのだった。 ◇ ぼくは、かわいそうな、裸のアダムとイブの図版をながめなおした。アダムははずかしさとかなしさに、両手で顔をおおっていた。イブは、すこしあおむいて、ああ、といっていた。右の手は左の乳に、左の手は前をおおって、なにかの葉っぱがのびてきていた――ぼくは、にわかに顔を赤くした。 ◆ こんなのだった。というのは、いまではこんなのではなくなってしまっているからで、1980年代に修復が行われて、後世の加筆とみなされた部分がきれいさっぱり除去された。 ◇ The fig leaves were added three centuries after the original fresco was painted, probably at the request of Cosimo III de' Medici in the late 17th century, who saw nudity as disgusting. During restoration in the 1980s the fig leaves were removed along with centuries of grime to restore the fresco to its original condition. ◆ いまではイチジクの葉っぱはもうなくて、アダムのちんぽこが堂々と露出している。となると、おっちゃんの書いた 「アダムとイブ」 の少年の努力も無駄だったということになりかねない。なにしろ、イブの 「そこをみたいとおもった」 少年は、好奇心を抑えきれずに、画集の図版を目を皿のようにして斜めから覗いてみたりしたのだから。 ◇ ぼくはイブに顔をちかづけた。葉っぱのかげからのぞいた。なにもみえなかった。 ◆ いや、ワタシにも憶えがあるようなことで、こちらまで赤面してしまう。そんな少年の努力もいまでは、ほとんど無用な時代になった。夜が更けるのを待って、両親が寝静まったのを見計らい、近所の 「ビニ本自動販売機」 まで忍び足で出かけていくなんて少年は、いまではもういないだろう。 ◆ そんなことを考えながら、いま一度修復された 「楽園追放」 の壁画の画像を見てみる。ああ、なんということだろう、モニターを上から覗いても、横から覗いても、やっぱりイブの 「そこ」 ははっきりとは見えないではないか。そのことに、ちょっと安心したり、いややっぱり残念だったり・・・。 |
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