◆ 林芙美子といえば、『放浪記』(1930) が有名であるが、その冒頭に書きつけられた 「私は宿命的に放浪者である」 という簡潔なコトバほど、林芙美子という一個の人間を雄弁に語っているものはない。旅こそはすべて。 ◇ この放浪記では、何だか随分印税を貰ったような気がしてうれしかった。長い間の借金や不義理を済ませて、私は一人で支那に遊びに行った。ハルピンや、長春、奉天、撫順、金州、三十里堡、青島、上海、南京、杭州、蘇州、これだけを約二ヶ月でまわって、放浪記の印税はみんなつかい果たして、上落合の小さい家に帰って来た。 ◇ 支那に遊んだ翌年の秋、私は一冊の本を出して欧洲へ一ヶ年の旅程で旅立った。 ◆ 昭和6年(1931)、林芙美子はシベリア鉄道経由で巴里(パリー)へと向かう。以下、『林芙美子紀行集 下駄で歩いた巴里』(立松和平編,岩波文庫)の 「西比利亜(シベリア)の旅」 からの引用(行程順ではない)。 ◆ 汽車の長旅に備えて、哈爾賓(ハルビン)であれこれ買い出し。 ◇ まず葡萄酒を一本買いましたが、吝(けち)をしてしまって哈爾賓出来を買ったものですから、苦味(にが)くてとても飲めたものではありませんでした。 ◆ この 「吝をしてしまって」 という言い回しが、なんともいえずチャーミング。ハルビン産の不味いワインはどうなったかというと、 ◇ 十六日の夕方、ノボォーシビルスクと云うところへ着きました。そろそろ持参の食料品に嫌気がさして来て、不味い葡萄酒ばかりゴブゴブ呑んでいました。 ◆ シベリア鉄道の三等車内にて。 ◇ 鰊くさい漁師が一人いて、ヤポンスキーの函館はよく知っていると云って、日本を説明するのでしょう、盛(さかん)にゲイシャ、チブチブチブ・・・・・・と云うのです。そのチブチブが解らなかったのですけれど、チブチブと云うのはゲイシャの下駄の音の形容なのでした。私が、カラカラだろうと云ってみせると、そうだと云って、また、皆に説明をするのです。何の事はない信州路へ行く汽車の三等と少しも変りありません。 ◆ いとも簡単に、シベリア鉄道を 「信州路へ行く汽車」 に変えてしまうのは、もちろん林芙美子の力量であって、だれもが同じ経験を味わえるわけではない。これはどうでもいいけれど、多用される 「~ですけれど」 という言い回しもチャーミングだと思ったり。 ◆ 車内で知り合いになり、銀座で買った紙風船をプレゼントしたロシアの婦人とのハイラル駅での別れ。 ◇ 窓のカーテンは深くおろしたままです。海拉爾(ハイラル)には朝十時頃着きました。もう再び会う事はないでしょうこの深切なゆきずりびとを、せめて私は眼でだけでも見送りたいものと、握手がほぐれると私はすぐカーテンの隙間からホームに歩いて行く元気のいいお婆さんの後姿を見ていました。巴里(パリー)へ行くまで・・・・・・行ってからも、私は沢山の深切なゆきずりのひとたちを知りました。いまだに何もして報いられないのですけれど、そのままお互いがお互いを忘れて行ってこのままになるのでしょう。[下線は原文傍点] ◆ 書き写したい文章はまだまだあるけれど、図書の返却期限もかなり過ぎてしまっているので、引用もこの辺にしておきゃなきゃいけない。
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