◆ あるブログのコメントにこんなのがあった。ある夫婦のエピソード。
◇ 大宮の氷川神社近くの駐車場で 「銀杏(ぎんなん)」 が売られていたのですが、都会育ちの主人は 「落ちてるもん売ってんの?」 と買う気まんまんの私を反対してました。銀杏てもともと落ちてるもんじゃないのかしら? スーパーの銀杏は販売用に栽培してるのですか???
yumidesu.exblog.jp/5984862
◆ これが全文なので、詳しい事情はわからないが、あれこれ想像してみるのは楽しい。
◇ 都会育ちの主人は 「落ちてるもん売ってんの?」 と買う気まんまんの私を反対してました。
◆ 主人は 「都会育ち」 とわざわざ記していることを考えれば、妻は都会育ちではないということになる。その都会育ちではない妻が、神社のイチョウから収穫した(=落ちているものを拾った)ギンナンを買おうとしている。どちらが都会人な発想だろうか? それにそもそもイチョウ自体が都会の木である(自生種ではない)。主人が 「あちこちに落ちているものをなにもお金を出して買う必要はない」 と思ったのだとすれば、それを買おうとしている妻の方がより都会的だということにならないだろうか?
◆ おそらく妻は 「落ちてるもん売ってんの?」 という主人の発言の趣旨を誤解している。妻は主人がギンナンという食べ物がイチョウの木から落ちるものであることを知らないとでも思ったのではないか? 主人は 「都会人」 だから。でも私は自然に親しんでいたから、ギンナンがイチョウから生ることも知っているし、秋になると、イチョウの木からギンナンが落ちて、その果肉を落とせば、食べられるギンナンになることも知っている。主人は都会育ちだから、なんにも知らない。
◆ たしかに主人は大宮の氷川神社の境内でギンナンがたくさん落ちているのを見て驚いたかもしれない。知識では知っていたが、実際にこんな光景を見るのは初めてだ。ここに落ちているのが、あの焼き鳥屋で食べているものなのか? そう思ったかもしれない。その落ちているものが近くの駐車場で売られているのを見て、拾えばタダなのにと思ったかもしれない。
◆ 妻の 「銀杏てもともと落ちてるもんじゃないのかしら?」 という発言によって、さらにもうひとつの誤解の可能性を読み取れる。妻は、食品として販売されているギンナンが、自然に生えているイチョウから自然に落ちてきたものを拾い集めて売っているのだと思っているらしい。
◇ スーパーの銀杏は販売用に栽培してるのですか???
◆ もちろん、販売用に栽培しているのである。