MEMORANDUM

  幻のキノコ

◆ ここ最近で(といってももう半年前になる)、一番驚いたのがキノコだった。6月16日の夜のこと。仕事を終えて電車に乗り、渋谷駅に着いたのは9時くらいだったろうか。西口バスターミナルに向かう。あとは家まで中野駅行のバスに乗るだけだ。あいにくバスはまだ到着していなかった。いや、すでに停車していたのかもしれない。その辺の記憶はあいまいだが、その場合でも、バスはここが始発なので、空席がなさそうな場合には、つぎのバスを待つことにしているのだ。ともかく、タバコを一服することにして、東急プラザ前の喫煙所(灰皿が置いてあるだけだが)に行く。小雨が降っていた。先客が数人いたので、灰皿の間近の混雑を避け、となりの植え込みの縁石あたりで、傘をさしながらタバコを吸うことにする。そこには雑草潅木のたぐいが勝手気ままに生い茂り、本来植えられているはずの樹木はない。代わりに切り株が無残な姿をさらしている。病気のせいで切られてしまったのだろうか? 観察していたわけではない。ぼんやり眺めていただけだ。さらにしばらくぼんやり眺めていると、ふと不意に、潅木のほの暗い茂みの陰に、なにやら妖しいものがはびこっているのに気がついた。酔っていたのだろうか? 電車に乗る前に缶ビールを飲んだような気もする。いや、茂みの陰だけではない。よく見ると、縁石で囲われた二畳くらいの方形の土壌の上ををほとんど覆うようにして、青白く得体の知れないものが群生していた。これまで幾度もここでタバコを吸ってきたというのに、こんな光景は見た記憶がない。近づいて見てみる。何百いや何千の小さなキノコが窮屈そうに寄り添って傘を広げていた。こんな街中のひどく限定された空間に、道行く人間たちとはまったく無関係に傘を広げている幾千のキノコ。それを見ているのはワタシしかいない。しばらく茫然としてその光景に見とれていた。写真を撮ろうと思ったが、あまりに暗すぎるので諦めて、タバコの火をもみ消しその場を離れた。

◆ その翌日、キノコの写真を撮りに同じ場所を訪れてみると、なんたることか、そこにあったはずの無数のキノコは跡形もなく忽然と消えうせていた。そんなことがあるだろうか? 昨夜見た光景は幻だったのだろうか? ああそうだ、電車に乗る前に飲んだのは缶ビールではなかった。駅前の居酒屋で少なくとも中ジョッキを二杯・・・。でも二杯くらいで酔っ払うわけはない。疲れていたせいかもしれない。などと訝しく思いながら、諦めきれずに、よくよく見てみると、「跡形」 は少しだけ残っていた(ここには何種類ものキノコが生えているようでもあり、昨夜のキノコがこれだったという確証はないが)。けれど、その残骸は昨夜の光景には比べるべくもなかった。

◆ キノコについてはなにも知らなかった。あの幻のキノコが気になって、あれこれ調べてみると、どうもヒトヨタケ科の一種であるようだが、正確にはわからない。ヒトヨタケ、あの雨の夜の幻のキノコにはいかにもふさわしい・・・。

◇ ヒトヨタケの仲間の菌糸はどれも成長が早く、きのこが大きくなるのも、とけるのも早い。ヒトヨタケというのはきのこが一晩で育ち、消えてしまうことろからきた名前である。もっとも、ヒトヨタケそのものは一日半ほどでとけ、ネナガノヒトヨタケは朝開いて、数時間でとける。種類やその時どきの条件で、きのこののび方やかさのとけ方が変わる。
小川真 『きのこの自然誌』 (築地書館,p.90)

◆ 溶けるキノコがあるなんてことも知らなかった。自己消化というらしい。

◇ 成熟した子実体の傘は周縁より中心部に向かって自己消化により次第に液化し、ついには柄のみ残し、一夜で溶けて黒色の胞子(担子胞子)を含んだ黒インクのような液と化してしまう。これがヒトヨタケの名の由来である。
ja.wikipedia.org/wiki/ヒトヨタケ

◆ また、ヒトヨタケ科にはイヌセンボンタケという種もある。このキノコの傘は液化しないようだが、千本茸というだけあって、群生の数がすごいらしい。もしかしたらこれだったかもしれない。

◇ 「千本」の名を冠する菌類には何かと群生するものが多いが,イヌセンボンタケはそんな手合いの中では極めつけともいえる存在である。比較的遭遇しやすい上に,群生の規模が桁違いに大きいからだ。数百本程度のまとまりは本種としては珍しくも何ともない。
www.geocities.jp/primulakisoana/mushrooms/inu1000.html

◇ 切り株や杭の根元などで、湿り気のあるときに発生します。小型の菌ですが、いっせいに何百何千本と出現するので幻想的です。
park18.wakwak.com/~fungiman/urayama/inusenbo.htm

◇ 群生のすごさで言えば、このきのこはかなり上位に位置することでしょう。ただし、ヒトヨタケの仲間なので短命。ものすごい群生に出会うためには、余程日ごろの行いを良くしないとダメかもしれません。
babu.com/~gyu_suke/inusenbontake.html

◆ イヌセンボンタケの群生の画像には、どれも圧倒される。《イヌセンボンタケ - Google イメージ検索》

◆ あの幻のキノコを見てからというもの、バスに乗る前には切り株のそばで一服しながら、キノコを見ている。あの夜の群生キノコにふたたびお目にかかることはないけれど、いつでも数種類のキノコに会うことができる。相変わらず名前はわからないままなのだが・・・。

◆ そんなふうにして、しばらくのあいだ、つかの間のキノコ観察がちょっとした日常の楽しみだったのだが、先日(10月15日)、ここを訪れてみると、雑草はきれいさっぱり引っこ抜かれ土も新しく入れ替えられて、キノコはもう見当たらない。でも、キノコのことだから、またすぐに顔を出すのではないのかなあ、と思ったり。

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