◆ 10月20日三鷹市井の頭、六鹿さんチ。ロクシカさんか、ムツシカさんか、ムツガさんか。歩いているときにたまたま表札が目にはいっただけなので、正確な読み方はわからない。愛知や岐阜に多い苗字であるようだ。このあと仕事がはやく終わって井の頭公園の動物園に行くことになったのも、たまたま。
◆ 六鹿さんチ。あるいはムシカさんかもしれない。ムシカといえば、九州に無鹿という地名があって、遠藤周作に 『無鹿』 という短篇がある。
◇ 「豊後ん、戦国大名だった大友宗麟が大分に来た宣教師かいはじめて西洋音楽を聴かされてよ、その何と言えん調べにひったまけちゃが、それでよ、その音楽のごと美しか、きよらかん町作ろうと考えて選んだんが、今の無鹿の場所じゃったちやが。じゃけん宗麟が無鹿に移り住んだばっかりん時、薩摩の島津義弘かい攻められって、大負けてしもて、逃げてしもたっです。西郷隆盛も大友宗麟もそれぞれん夢賭けて、そん夢が破れたのが無鹿。今は何もねいき。北川という川だけが昔んのまま流れちょっとですきね」
遠藤周作 『無鹿』 (文藝春秋,p.11-12)
◆ また、同じく遠藤周作に、大友宗麟の人生を描いた長編 『王の挽歌』 があって、そこにも無鹿が出てくる。
◇ 「ここを余は無鹿(ムジカ)と名づけたいのだ。その昔、この修道士(イルマン)アルメイダが余に聞かせてくれた音色の美しさを忘れたことはない。その思い出にその名をこの地に与えたいと思う」
遠藤周作 『王の挽歌』 (新潮文庫,下,p.90)
◆ そもそもワタシがムシカという地名を知ったのは、谷川健一の本が最初で、
◇ 宗麟は無鹿(むしか) (宮崎県延岡市) に陣営を置き、日向を制圧したのち、ここに教会を建て、理想都市を建設するつもりであった。仮の会堂や宣教師の居館も作ったとされているが、その一方で付近の寺社をつぎつぎに焼き払ってもいる。それも束の間、大友軍は島津軍とたたかって大敗し、宣教師やキリシタン将兵も豊後へひきあげた。かくして大友宗麟が目指したキリスト教にもとづく理想王国の夢はあっけなく消えた。宗麟の行為は理想に燃えながら、その反面、寺社を徹底的に破壊するというキリスト教の不寛容さを露骨に示しているところに特徴がある。そうした歴史の名残をしのばせるものとして、無鹿の地名がただ一つ、残されている。無鹿はムジカ、すなわちラテン語の音楽 (musica) を意味するものとされ、この地で西洋音楽が奏でられいたためにその地名がつけられたと推測されている。
谷川健一 『続 日本の地名』 (岩波新書,p.171)