◆ 今年はセミがあまりうるさくない。去年は夜遅くまで、あるいは朝早くからアパートの近くで鳴いていて、部屋のなかにいるのかと思うぐらいにうるさかったのに。 ◆ 『東海新報』 のコラム 「世迷言」 (2005年07月31日付) から。 ◇ 雑学書にはさまざまな穿った見方も書いてある。こんなのがあった。松尾芭蕉が山形・立石寺で詠んだ「閑さや岩にしみ入る蝉の声」。このセミは何蝉だろうか。ミンミンゼミか、それともアブラゼミかとセミの姿を問うている▼それに対して答えは、ニイニイゼミだという。なぜなのか。芭蕉が立石寺を訪れたのが元禄二年、旧暦の五月二十七日。新暦だとこれが七月十三日ごろに当たる。その時分に山形で鳴くセミはニイニイゼミで、これしかないという推論だ▼ニイニイゼミというのは体長二十~二十五ミリ、黒褐色がかった小さなセミ。「ジイ、ジイ」と低い声で鳴く。どちらかというとセミの中では地味な存在である。それによってこの立石寺での一句がイメージダウンすることは一つもない。むしろ、一つの見方として話題のタネになる▼同じ芭蕉の一句に「古池や蛙飛びこむ水の音」がある。この句にしても同様で、「この中の蛙は何ガエル?」と問う人が出てくるかもしれない。それについて、ある程度推論の材料が揃えば周囲から一つの答えを見出すことができるかもしれない▼しかし、セミにしてもカエルにしても、あまり無用の詮索は句の本意とするところではあるまい。ある程度ボケるところはボケているから、句が品位を伴って人の胸中にしみ入る。それがどんなセミであろうと、あとは受け手の側次第である。 ◆ あるいは、『芭蕉の誘惑』 という著作もあるそうである嵐山光三郎の国土交通省の 「道と文化を語る懇談会」 での発言。 ◇ 学者間では、あれは茂吉がニイニイゼミだと言ったのに対して、別の学者がアブラゼミだと言ってつまらない論争をしていますけども、そんなのはどっちでもいいんです。 ◆ それから、もうひとつ。 ◇ 芭蕉の耳に響いた静寂の音(サウンド・オヴ・サイレンス)が実際にはどのセミであっても、作品は一人歩きし鑑賞者の解釈に身を委ねるしかない。ミンミンゼミでもクマゼミでも、エゾハルゼミであろうと、解釈は許されるのだ。それをその道の専門家同士がムキになって論争し、果ては勝って快哉を挙げ、負けて悔しがるなど俳句の本質を著しく逸脱している。 ◆ これら三つに共通している論調に、ワタシは承服しかねる。アブラゼミかニイニイゼミかなんて瑣末な問題で、この俳句の本質にはなんの関係もない、というようないかにも正論ぶった意見を吐くひとをワタシは信じない。こうした物言いをするひとはたいてい、実際のセミの声に耳を傾けることもなく、アタマで考えているだけなのだ。観念のセミの鳴き声などワタシは聴いたことがない。 ◆ アブラゼミとニイニイゼミでは大違いではないか、と力んでみても、実際にその区別がつかないひとには、「馬の耳に念仏」 でしかない。アブラゼミとニイニイゼミとミンミンゼミとヒグラシ、それぞれの鳴き声から生じるイメージはずいぶんと異なるものであるというのに。 ◆ けれど、いかなひとでも 「東海の小島の磯の白砂」 で啄木の戯れた蟹がタラバではおかしいと思うのではないか? それともそのような解釈も許されると言うだろうか? 受け手の自由だと? ◆ 虫好きの奥本大三郎が、中村草田男の文章を引いている。 ◇ 斎藤茂吉と小宮豊隆との論戦で、前者はこれをアブラゼミといい、後者はこれをニイニイゼミと主張した。そして実地検証の結果、後者のニイニイゼミ説が正しいということで決着がついたそうであるけれども、草田男は次のように述べている。 ・・・・・・しかし、私は茂吉説に加担するのみならず、あえてこの句を紀行文中から独立せしめ、抽出して、夏の真昼、炎熱灼くが如き真唯中に据えてしまうのである。八歳か九歳の頃、亡父からこの句をきかされた瞬間に、直ちに私はそういう詩界としてハッキリとこの句の隅々までを感得した、のみならず、その後多年、逆に、この句に向って、そういう現実界を体験しつづけてきたからである。今更どうすることもできない――というだけではない、(・・・・・・) 焔々とした炎熱の中で、すさまじい集団で啼きふける油蟬の声であればこそ、斉唱され永続されてゆくうちに、その声は次第に岩の奥底へまで滲透してゆくのである。(「しみ入るかの如き」ではなくて、事実「しみ入る」のである。) この句において、波打ちつづける蟬は、声そのものを活かしているのではない。夏の真昼の極度の「寂(しづ)かさ」を活かしているのである。油蟬の声だからこそ、逆説適薬となって、「寂かさ」を強化するのである。光明と炎熱との最高潮に達した、あのシーンとした微妙な時刻くらいに天国と地上とが合体し、永遠と瞬間とが完全に結婚をとげ得ることは他にあり得ない。まさに「瞬間よ、とどまれ」である。瞬間において、「具体」の中に、「永遠」を射とめること――それが、詩人最高の任務だとすれば、われわれは、この句の前に、ささたる論議をさしひかえるべきではないか。 虫好きで、蟬を注意してよく聴いている者、山に入る者にはよく解る文章であろう。 ◆ なんとも激烈な草田男の文章であるが、わかる気もする。「焔々とした炎熱の中で、すさまじい集団で啼きふける油蟬の声」、そうした圧倒的な蝉時雨のなかにじっと身をおいていると、とつぜん沈黙が訪れることがある。もちろんセミが一斉に鳴き止んだわけではない。あまりの音量に耳が疲れて自動的にその機能を停止したのだろうか? 休むことなく続く単調な音色に耳が慣れて刺激として感じなくなったのだろうか? それともアブラゼミの声にはなにか麻薬的な効果があって、集中力を極度に高めてくれたのだろうか? ところで、 ◇ アブラゼミは,テカテカと油につけたように見えるため油ゼミと名付けたのかと思っていたが,そうではなく,その鳴き方が,油で揚げ物をしているときの音に似ているからだという。そう思って聞くと「ジャージャー」という鳴き声がそう聞こえてくるから面白い。 ◆ ともかく、今日も暑い。遠くで、ミンミンゼミとアブラゼミが鳴いている。 |
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