MEMORANDUM
2004年04月


◆ 知らないまに4月1日が過ぎてしまった。まじめなワタシが唯一ウソをつける日だったのに、残念である。そういえば去年も、一昨年もウソをつくのを忘れていた。ということは、かれこれ3年間もウソをついていないということか。これでは、いかにも健康に悪そうだ。さっそくカレンダーを書き変えて、毎日が4月1日にしておこう。

◆ 3月25日に「疲れた夜のバスのなかで考えたこと」という文章をココに書いた。「疲れたバス」という表現をなんとなく思いついて、気に入ったから。疲れているのは、もちろんバス自体ではなくて、仕事帰りのワタシだったわけで、日本語としては破格だろうけれど、これでも通じるのでは、と思った次第。でも、やっぱりよくわからないようでもある。などと考えていたら、3月26日の「日刊スポーツ」の芸能欄で「悔しい卒業式」という見出しが目についた。

◇ 早稲田大第二文学部に在籍していたタレントそのまんま東(46)が25日、早大キャンパスで行われた卒業式に出席した。あと1歩で首席卒業というトップクラスの成績で、若い学友たちから拍手で祝福を受けた。
www.nikkansports.com/ns/entertainment/p-et-tp0-040326-0005.html

◆ 首席で卒業できなかったから、悔しい卒業式というわけらしい。卒業式が悔しがったりするわけはない。悔しいのは、そのまんま東そのひとである。そのまんま東が早稲田にいたとは初めて知った。おまけに、

◇ 4月からは、同大政治経済学部に入学する。私学最難関とされるだけに、師匠のビートたけしも喜んでくれたという。
www.nikkansports.com/ns/entertainment/p-et-tp0-040326-0005.html

◆ これで早稲田の政経のイメージがどう変化するのか、興味のあるところ。それはさておき、「悔しい卒業式」と「疲れたバス」とは似たような構造をしていると思えるのに、「悔しい卒業式」のほうが数段わかりやすい感じがする。どうしてだろう?

◆ こんなことをいつもバスや電車のなかで考えている。だから、けっしてメールを打ったりはしない。

◆ ワタシには到底なしえないことを個人の力で実行しようとしているひとがいる場合、それがどんなことであれ、そのひとのことを尊敬します。やろうとしたことなど一度もないくせに、失敗したからといって、それみたことかと大勢で批判するひとは嫌いです。

◇ イラクで人質になった3人。退避勧告が出ている国に敢えて入っていったんだから、どうしようもないなぁ・・・、と思います。それを、友人は「冬山登山で遭難した人と同じ」と喝破した。なるほど。
www.geocities.co.jp/Athlete/3532/geodiary.html

◆ 登山経験もない(であろう)ひとが、どうして冬山の危険性に言及できるのかワタシにはわかりません。家で寝ているよりは危険だろう、ということぐらいしか言えるはずもないのに。イラクの現状についても人質になったひとたちについてもよくは知りません。ただ、山が好きなワタシとしては、登山がダシに使われているのが不愉快で、知らないことについては黙っていろと言いたい気分です。

◇ 冬山というと遭難というイメージで「絶対に駄目」と考えの方が多いと思いますが、土日ともなると数十人の方が登っているので、踏み跡はしっかりしていて道に迷うことはないし、天気の良い日に登れば、往復の数時間の間に天気が急変することもないと思います。
www.ttn.ne.jp/community/walk/hinosan/hino0204.htm

◆ と、これは795mの低山のハナシで・・・。ところで、自己責任というのは、必要経費の本人負担というレベルの問題なのでしょうか? わけがわかりません。

◆ 古代ギリシャにアペレスという有名な画家がいた。大プリニウスが伝えるところによれば、あるとき、アペレスの絵画を見たひとりの靴屋が、靴の描写の誤りを指摘した。アペレスは即座にそれを修正した。調子に乗った靴屋はさらにその絵に描かれた足にも文句をつけたところ、アペレスは怒って言った。 Ne supra crepidam sutor judicaret (靴屋は靴以外のことに口を出すな!)

◆ とにかく、余計な言葉が多すぎる。

◆ 電話ボックスは何のためにあるのか? 電話をかけるためにきまってるって? では、質問を訂正しよう。電話ボックスのボックスは何のためにあるのか? 他人に通話の内容を聞かれないため。たぶん、そうに違いない。そう思っていた。けれど、コンニチ、携帯電話でところかまわず通話をしているひとたちを見るにつけ、はたしてそうだったのかと、あやしい気もしてきた。かれらにボックスなど必要とは思われない。かれらの空間に公共の場所など存在しない。ボックスが必要なのは、むしろ電話をしていないひと、あかの他人の会話(の半分)を聞かされるのに耐えられないひとの側である。なるほど、電話ボックスのボックスとは、他人の傍迷惑な会話の断片を閉じ込めておく装置であったのかもしれない。電話ボックスなど、もはや、多くのひとにとっては何の利用法もないのかかもしれず、電話ボックスのボックスも、チラシを貼る平面としてしか認識されていないのかもしれない。でも、後生だから、電話ボックスを撤去しないでほしい。より正確には、電話ボックスの電話はなくてもいいけれども、ボックスは撤去しないでほしい。通りすがりの他人の無遠慮な言葉の羅列に疲れたときには、いつでもそこに避難ができるように。電車やバスのなかにもあるとありがたいけれど、そこまでは望まない。