MEMORANDUM

  シャクシャインその後

◆ せっかく北海道で暮らすことになったのだからと、大学に入学した当初は、ぜひアイヌ語の勉強もしてみよう、などと殊勝な考えを抱いていたことがあった。しかしこの計画は挫折のずいぶん手前で忘れ去られ、数年が経ち、なにひとつ身につけることなく北海道を後にした。その後、何度か北海道を訪れ、それが馬好きの友人とであったりすると、その目的地は当然日高になる。そんなときには、いかにも関心がなさそうな相手を無理やり引き連れ、静内のシャクシャイン像まで足を運んだ。それはある意味「墓参り」のようなものだったと思う。

◇ 道内では羊ケ丘のクラーク像,真狩の細川たかし像と並んで有名な立像。
www.onitoge.org/tetsu/hidaka/14shizunai.htm

◆ これがシャクシャイン像の説明。なるほどそうかもしれない。真狩の細川たかし像は見たことがないけれども。とにもかくにもシャクシャインはアイヌの英雄であった。最後の。

◇ ・シャクシャインの戦い  沙流地方と静内地方のアイヌの狩猟採集の場(イオル)をめぐる争いに端を発し、アイヌ民族と松前藩の争いとなり、1669年、静内のシャクシャインが現在の白糠から増毛の辺りのアイヌの人々と一斉に立ち上がった。戦いは互角で和ぼくとなったが、酒宴の席上でシャクシャインは謀殺され、アイヌ軍は破れた。
www.aurora-net.or.jp/~dii/hon/hon-7.htm

◇ この戦いの後、松前藩は各地のアイヌに対し、子々孫々まで刃向わないという起請文を強要する。
www.alles.or.jp/~tariq/kampisosi/historyTopteeta.html

◆ アイヌの言語学者である知里真志保は『アイヌ民譚集』(岩波文庫)の「後記」にこう書いている。ちなみに岩波文庫でのアイヌ文学の分類は「赤帯」、すなわち海外文学の扱いである。

◇ 私が一高へ入った当時、物見高くして傍若無人な、そしてデリカシイなどはむしろ無きをもって得意としているかのごとき一高生は、田舎から出て来たばかりの、それでなくてさえ或る種の引け目から始終おどおどしていた私を包囲して、「熊の肉や鮭の肉を主食として育った君が、こちらへ来て米の飯ばかり食べていて体に何ともないか」とか、「口辺に入墨をした娘を見慣れた眼に、日本娘はシャンに見えるかい」とかいった類の、取りようによっては随分と痛い質問を浴びせては、気の弱い私をひそかに泣かしめたものであった。[p.165]

◆ そうして昨日、ピリカについて検索していたら、アイヌの女子中学生の「差別」と題された作文に目が向いた。

◇ その差別のせいで「仲間はずれ」も多く、私も その中の一人で 私のおじいちゃんは、アイヌ語ペラペラの「アイヌ」だったのですが 今私は みんなに アイヌアイヌと言われています。そう言われるだけなら まだいいと思っては いますが アイヌ人だから どうだこうだ と言われるのが、私はたまらなく いやです。例をいえば 私のために 芽中の三年生が かえ歌を 二曲 つくったりしています。一つは ランナウェイのふしで「アァイヌゥー アーイヌ アーイヌゥー ア ッ イ ヌゥー」とか ピリカピリカのふしで「アーイヌ アーイヌ なーぜなーぜ アッ イッヌッ いーぬにかまれてアーイーヌ……」とかがあります。私が三年生の前を通ると 五、六人が この歌を 大声で 歌うのです。
web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/yaziuma/yazitu27.html

◆ もちろんこの引用は全文ではない。しかも「まだまだ ぜんぶの例をあげてみれば この原稿用紙が 百枚あってもたりないかも しれません」ということなのだから、この作文をすべて読んでもなお足りないのかもしれないが、時間があれば全文を一読されることをぜひお勧めしたい。テキストは学級通信のかたちで高校教師の方が書かれた「野次馬通信」に収録されている。「870424」というのが日付だろうから、十五年ぐらい以前のものであるが、現状ははたしてどうなっているのだろうか。

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